自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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にある送付先へドウゾ。)
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・奥浜名湖沿岸を巡る二俣線 3
265.
“みやこだ”都田界隈(かいわい)
・二俣線
/都田−宮口
〈5−8−3−1:都田駅裏は村のお宮の春祭り〉
〈5−8−3−4:都田川橋梁〉
〈二俣線 さよならSL列車:昭和46年春、都田駅付近で撮影〉
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〈紀行文〉
浜名湖と天竜川との間には東西10km、南北15kmで、標高25〜110m程度の「三方原(みかたがはら)」と呼ばれる台地が広がっており、その昔に天竜川の扇状地が隆起して出来た洪積台地であると云う。その南方は何列かの砂丘を経て遠州灘に面し、北方は南アルプスノ赤石山脈の山麓に続く弓張山地の一角に属する引佐丘陵に接していた。この「三方原」の名は周辺の和地村(わじむら)・祝田村(ほうだむら)・都田村(みやこだむら)の三か村の「まぐさば(草刈りば)」としての入会地であったことから、「三方の村の原」から由来していると云う。ここでは元亀3年(1572年)に武田信玄と徳川家康両軍が戦い(三方ヶ原の戦い)、徳川家康は敗走したことで知られている。また、昔から台地を横断して浜名湖の北側を通る東海道の脇道が通っていたが、江戸時代には脇往還として東海道「本坂通り」と定められている。この道は、世間では「姫街道」と呼ばれて親しまれている。やがて明治にはいると、水系に乏しい台地上に天竜川から三方原用水が引かれてから、「あかマツ」が南北、東西に格子状に植林されて防風林ができると、その背後には赤土の畑地が広がる特徴的な農村景観となった。そして、みかん・茶・ゃがいも・大根などが生産されている。時代が下って、大正3年(1914年)には浜松から金指方面へ台地の上を浜松軽便鉄道が開通しており、その途中の西側には浜松飛行隊第7連隊、高射砲第1連隊など陸軍の施設が設置されていたし、近年はテクノポリスとしての工業団地が立地している。
この三方原の北西の一角から引佐山地にまたがる地域が都田であった。この“みやこだ”と云う雅(みやび)な地名に興味をもっていたら地元の公民館が編纂した「都田風土記」を見付けた。これによると、『かつてこの周辺は、いにしえの縄文時代から人々が住んでおり、「都田」という名は、平安時代の古文書の中に「京田郷(みやこだごう)」と記されていることや、この文字を記した木簡が出土していることから、約1000年前から使われているとのことである。また、都田には一つの伝説があり、「約1200年前に平安京(京都)に都を移す前の頃に、桓武天皇が遷都の候補地として「都田」の地を選び、『ここが都(みやこ)だ』と述べられたことが、この「みやこだ」の地名の由来だとするもので、地元では有名な話なのだそうである。実際、都田は京都に似ている地形で、盆地であり美しい川が流れています。』とあったのだった。
浜名湖の際奥の引佐細江と呼ばれる湖の沿岸に近い金指から二俣線は浜名湖へ流れ込む最も大きい都田川沿いをさかのぼって都田を経て、さらに坂を登って引佐山地と三方原の接する鞍部の都田峠をトンネルで抜けて天竜川沿いの二俣へ通じていた。この線路に沿って昔ながらの街道(県道5号豊川天竜線、今の国道362号)が三ヶ日方面から都田の町をを経て宮口へ通じていて、奥三河や奥浜名湖の人々が天竜川の東の山奥に鎮座する火除けの神で有名な秋葉神社への参詣の道筋でもあって、最近は県道から国道362号(静岡市−豊橋市間)に格上げされ、経路も改良されているようだ。
さて、一枚目のショットは、三方原へ登るセメント列車の激闘振りを撮り終わって、都田駅へ立ち寄って撮った写真である。しばらくすると、またもや上りの不通貨物列車がやってきて、列車交換待ちなのであろうか、待避線に停車した。そこで、C58の頭を入れてスナップを撮った。
つい数年前の駅構内の北側には石灰石のホッパーが設けられて貨車への積み込みが行われ、金指駅へ出荷されていた。この石灰石は遠く2q余りの索道によって都田鉱山から日量90トンを運び込んでいた。この都田鉱山は昭和16年頃から開かれて灰類やタンカル製造向けの石灰岩を採掘していたが、岩城セメントが買収してからもそのまま創業していたが、昭和38年に住友セメントになった時にセメント原料の石灰石の採取へと切り替えられたのだったが、僅か2年足らずで廃止となってしまった。それで、駅裏はすっかりと見通しが良くなり、大きな屋根を見せているお宮の春祭りの二本の幟(のぼり)も、それを見上げる人々も風情良く背景に収まっていた。この八柱神社と云う大きな屋根の下には小さな廟(びょう)が二つ並んで鎮座していて、いずれも地元の人々がお守りしており、その先祖と流行の病で亡くなった多くの子供ろたちの御霊を祭ってあるとのことだった。
二枚目は駅から少し東へ行った所で都田川の谷に掛かる都田川橋梁を行く上りの貨物列車である。この先は25パーミルの急勾配が都田峠まで連続する難路だから機関車は大いに煙を上げて加速して行くのだった。
この橋の長さは 123mであって、橋の構造は上路プレートガーター桁が経間25.4m 四連+12.9m 一連の五連桁、それに橋台・橋脚付RC(コンクリート造)単桁 6mで構成されていた。そして、水面から線路面までの高さは 14.2mでかなり高く、水中に立っている二本の橋脚は基礎、脚部とも円形のデザインで、渓谷の景観によく調和していた。
この橋尾渡った先に、現在はこの線路の背後の丘陵地に各種の果樹を植えたフルーツパークと云うテーマパークが開かれて賑やかになっている。
この都田川だが、引佐町最北端である愛知県との県境にある鳶ノ巣山(標高 710m)の南斜面に源を発し、途中獺渕(おそぶち)川・川名川・井伊谷川などと合流、浜名湖へと注いでいる全長49.9qの川である。この最上流部は傾斜が激しく流れが速いため山が侵食されているものの、上流部は比較的起伏の緩やかな丘陵地が広がっていた。西方の奥三河から弓張山地を峰峠(標高 505m)で越えて、この谷を東西に通って都田川を渡り坂を越えて天竜川流域に直接出て「火伏せの神」の秋葉神社に至る秋葉街道が江戸時代から賑わっていた。そのためであろうか、この谷には天竜川流域と同じように「杉・ひのき」を植林した森が多く見られた。実は、二俣線の前身である「靜岡縣掛川ヨリ二俣、愛知縣大野、…ヲ經テ岐阜縣大井ニ至ル鐵道」の予ルートもこの谷を通過していたのだったのには驚かされた。意外なことに浜名湖沿岸よりも山奥の方が奥三河と天竜川流域とを密に交流させていた証(あかし)であった。
また、中流部は川幅が狭く、北区滝沢町付近では川の流れによって川底が削られ、渓谷をなしている。その昔、大正期には下流4キロメートルの区間は浜名湖から小汽船が都田まで通じていたようで、この下流部の両岸は美しい水田が営まれていた。この川は浜松市北部の山間地域を流れているため、キャンプ場や釣りのスポットとしても人気があり、豊かな自然の残る川には様々な生物が生息し、河口付近は「ヒヌマイトトンボ」の県内唯一の生息地である
(注:ヒヌマイトトンボはイトトンボ科に属し、体長約3センチと小さいトンボです。海岸 沿いの潮の影響があるヨシ原に限って見られ、黒と黄緑色の独特の斑文を持つことなど が特徴です。環境省のレッドデータブックに絶滅危惧1種として指定されています。)
また中流には都田川ダムが昭和61年に完成しており、洪水防止、畑地への潅漑(かんがい)や水道などの用水の水源確保などの多目的ダムであって、中央コア型ロックフイルダム、提高 55m 提頂長 170mの規模である。
三枚目は思わぬ奇縁で提供して頂くことになった「地元の方でなければ撮れない」と云う貴重な写真です。実は一枚目の写真に写っている八柱神社の現状を都田に住んで居られる友人の川村紀生さまに調べて頂いていたところ、彼の知人の鈴木明甫氏(都田地区自治会連合会長)にお会いすることになり、氏の和子夫人のアルバムの中に張ってある写真を見せてもらったのが縁であるのです。これを撮ったのは、
SLの最後の列車が都田駅近くを通った時であるとのことでした。この「さよならC58」が走ったと思われるのはDE10形による動力近代化が実現しようとする昭和46年3月頃のことであろうと思われる。ここで写真の所有者である鈴木和子さまに転載のお許しを頂いたことに感謝致します。同時に、この奇縁をもたらしてくれた川村さまにも感謝の意を表します。
撮影:昭和42年(1967年)2月
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・奥浜名湖沿岸を巡る二俣線シリーズのリンク
263. 金指駅界隈(かいわい)・
二俣
線/遠州鉄道奥山線
264. 三方原を登るセメント列車・二俣線/金指〜宮口
266. 天竜川橋梁・遠江二俣機関区・
二俣
線/西鹿島−遠江二俣
267. 引佐細江から猪ノ鼻湖へ・二俣線/寸座〜都筑
268. 猪ノ鼻湖から松見ケ浦へ・二俣線/三ヶ日-尾奈-知波田
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