自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・奥浜名湖沿岸を巡る二俣線 5
267.  引佐細江 (いなさほそえ) から猪ノ鼻湖へ ・二俣線 /寸座〜都筑

〈15−10−7:寸座峠を越えて〉、下り貨物、黒い煙がうすい〈
0001:浜名湖の際奥の猪ノ鼻湖を背景に「みかん果樹の畑」から撮


〈寸座峠を越えて、その2、昭和43年6月30日:上り貨物、少し黒い煙〉
0002:望遠で撮ってみたが


〈31−16−4:都築の入り江から〉
0003

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〈紀行文〉
 浜名湖を遠州灘の海岸の上空から眺めた時の湖岸線の形は右手を開いたように複雑に入くんでいて、指に当たる部分はそれぞれ付属湖となっており、手首にあたる部分に約200mほどの湖口が開いていて遠州灘と通じている今切口がある。その湖岸線の延長はなんと127kmにもなると云う。このサイトでご覧に入れる二俣線の気賀−寸座−佐久米−都筑(つづき)-三ヶ日の間は、江戸時代の東海道脇街道である姫街道と今の国道362号(静岡-豊橋間)などとほぼ並ンで東西に走っており、ここは奥浜名湖の沿岸地域に当たっている。その右手で云えば「人差し指」に当たる浜名湖の北東部の引佐細江と呼ばれる奥まった湖からはじまり、その西岸は寸座半島となっていて、次に「中指」に当たるのは浜名湖の歳億部であって、次に浜名湖に突出した台地状の大崎半島が区切っているのが「薬指」に当たる猪ノ鼻湖であり、ここが浜名湖の北西部となっている。この奥浜名湖の北岸の背後の山々は南アルプスの最南端の山麓に続いている弓のように連なる弓張山地のなかの浜名湖へ傾斜している山々である引佐山地とよばれ、尉ヶ峰(じょうがみね、標高 433m)が主峰であった。この山々は浸食の進んだ老年期を示す標高300〜400mの低い山地からなっており、杉・ヒノキの人工林や竹林が小規模に存在しているものの、大部分は照葉樹からなる自然林となっている。湖岸の背後のなだらかな低山地にはみかん園が広がっている。この山地の最高峰である尉ヶ峰から浜名湖へ向かって分かれる主な尾根筋は二つあってその東側へは引佐細江と浜名湖を分ける寸座半島へ続いており、姫街道は小引佐峠、国道362号や二俣線は寸座峠で越えている。もう一つの西側は浜名湖と猪ノ鼻湖を分ける大崎半島へ向かっており、姫街道は引佐峠で、二俣線は佐久米トンネルで抜けている。この湖の北岸に沿っては珪質岩が直接露出して岩礁湖岸をなしている所もある。またこの浜名湖へ注ぐ最大の川である都田川が井伊谷川などを合流して引佐細江の北東部に流れ込んでおり、河口付近には沖積平野が広がっており気賀の町が半円状の湖岸に面して広がっている。
また、猪ノ鼻湖へは日比沢川(吊り橋川)・宇利山川・都筑大谷川などが流れ込んでいて、その谷底低地の流路に沿う段丘や沖積地があって、三ヶ日の市街地となっている。
 さてここで古い順に奥浜名湖の風土について触れて行きたい。まず最初は街道である。東海道は昔から天竜川から西ではおおむね遠州灘の海岸に沿って西に進んでいるが、その途中から内陸に入って浜名湖の北岸を迂回する東海道のバイパス的な道筋は昔から使われていたようで、奈良時代の万葉集には街道筋の薬師堂を詠んだ和歌に「二見道」との街道名が現れており、時代が下って戦国時代には軍勢の移動するの経路として重要であったようである。その脇道の存在には本道である東海道が浜名湖付近を通過する経路に起こった異変との関わりが深いと思われる。
この浜名湖の原型は、1万年より前に起こった海水面の上下により周りの山地が侵食されて現在の複雑な地形の原型が形成されたと云う。1万年前に海水面が上昇し、海水が浸入してきたが、当時の面積は、現在の浜名湖の半分に満たなかったとされている。9000年ほど前になるとさらに海水面が上昇して海水の流入が進み、現在の標高5m付近まで海水が浸入した入り江となったようである。その後、3000年前頃になると、再び海
水が後退し、今の浜名湖付近の海水は取り残されて行った。また、外洋との出入り口に砂が堆積して海水が入りにくくなり、流入する河川の影響で淡水化が進ンで行った。1800年前には外洋との出
入り口が完全にふさがり、その後長い間、浜名湖は淡水の湖として存在したようである。平安時代には海の近くに位置する湖であって、この湖水の出口は浜名川が海へ通じていたが、湖面の方が海面より高く、浜名川を海水が逆流することなく淡水湖であった。その浜名川に浜名橋が架けられていて東海道が舞阪から新居へと通ッテイタ。ところが、室町時代の明応7年(1498年に起きた大地震やそれに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた部分の地面が決壊し遠州灘との水の入れ替わりが起こるようになってしまった。そして永正7年(1510年)に再び起こった地震で決定的な決壊が起こって舞阪から弁天島を分け、その津波により村全体が引っ越すほどの被害で、湖と海が大幅に通じるようになったのが「今切れである。そして交通は27町の距離を渡し船によらざるをえなくなってしまった。その後の1699年(元禄12年)の自信と津波により渡船の距離は1里に延び、続いて1707年(宝永4年)の地震によりさらに1里半(約6km)まで渡船の距離が延びてしまったのである。これが東海道の難所の一つと言われた「今切れの渡し」である。
 やがて、慶長6年(1601年)に江戸幕府は東海道などの五街道を指定し、その「宿(しゅく)」設置の制度を定めた。この1601年道としての「東海道」が誕生すると同時に東海道の脇道として利用されていた街道を脇往還として制定して「本坂通り」と名付けている。これは見附宿(磐田市)から東海道と別れて天竜川を渡り安間(あんま)村へ出、そこより北へほぼ直角に曲り、市野に入り、三方原を抜けて気賀から浜名湖の北側を引佐(いなさ)峠(標高 200m、佐久米駅へ3.0km)を経て三ケ日に出て、浜名湖の西側の山の中を本坂峠(標高 328m)を越えて嵩山)を通り、豊川を渡って御油宿(ごゆやど、愛知県)で再び東海道と合流する15里14町(約60kmの道程で、頭書は本坂関所、後年には気賀関所が設けられていた。この間の宿場は、見附宿(東海道に接続)、市野宿、気賀宿、三ケ日宿、嵩山(すせ)宿、御油宿(ごゆ・愛知県、東海道に接続)であった。この脇往還では、東では浜松宿から直接気賀宿へ出る道、それに西側も崇山西方から吉田宿(現豊橋)へ出る道と云う別ルートも認められていたようである。この脇往還が“姫街道”とよばれたのは女性に好まれたからで、東海道の浜名湖(新居−舞阪間6km以上)を小舟で渡る「今切(いまぎり)の渡し」が危険な難所だったこと、それに東海道新居関所の厳しい取締まりを避けるためとされており、この他に「今切の渡し」という「今切」という名を不吉としたことも理由として挙げられている。そして全国各地に散在する姫街道の代表的な存在であった。
この道筋の峠としては、名前となった嵩山−三ヶ日間の本坂峠、この街道のほぼ中間にある大谷(おおや)−西気賀間の引佐峠、その先の小引佐峠(現在の国道362号で云えば寸座峠に当たる)がある。この街道が江戸時代に大変にぎわったのには、当時の浜名湖水面では東海道今切の渡船と漁船以外の舟の通行は禁止されていたからであろう。この奥浜名湖沿岸の両端の町はいずれも姫街道の宿場であり、東の気賀宿は鉄道の開通までは浜名湖舟運の一拠点であり姫街道から二俣へ通じる秋葉街道、奥山半僧坊へ通じる真州道への分岐点であった。それに、箱根、新所原と並ぶ東海動三関所の一っである気賀関が設けられていた。一方の西の三ヶ日宿には脇往還からの奥三河への道や、奥山半僧坊を経て二俣へ出る秋葉道の分岐点でもあった。それに戦国時代までは近くの都筑の猪ノ鼻湖に突き出した大崎半島の大崎に遠江佐久城が築城されていて、今川と命運を共にした浜名氏が居城し、この一帯を治めていたし、江戸時代には街道筋に陣屋と代官所が設けられると云う
地方政治の中心であった。この比較的山中を通っている姫街道に対して、東海道本線の緊急時のバイパスとして急遽建設された二俣線はほぼ奥浜名湖の沿岸の湖岸段丘の上を通過しているのが特徴である。写真を開設する前に沿線風景を述べておきたい。
 セメント列車の発車駅である金指駅から西へは都田川とその支流の井伊谷川に挟まれた三角デルタ地帯に広がる水田地帯の中を小高い盛土の線路を快走し、井伊谷川に架かるプレートガーター鉄橋を渡り、そのまま、堤防部と同じ高さのままで全長 約89.7mのコンクリート造りの気賀町高架橋を渡りやがて河岸段丘の上を走ると沿線の主要駅である気賀駅となる。コレハ第一気賀町高架橋・気賀架道橋・第二気賀町高架橋・井領架道橋から成っており、橋台とT形桁や単版桁の組み合わせや、ラーメン構造などの構造がそれぞれ異なっていて、姫街道(県道261号磐田細江線)や市道を跨いでいた。
気賀の町中を抜けると、車窓の左右に区画整理された広々とした水田を見下ろすように築堤を進み、その先で短い切り通し部を抜けて、左手に浜名湖の奥湾である引佐細江が見えると西気賀駅に到着した。ここを発車して弧を描くように左カーブし国道を見下ろしながら向山トンネルのサミットへと急登って行く。その出口から少し下り坂になるものの、その先で再び長い登り坂になりやがて小高い所で左手に家々の屋根の向こうに、小さな漁港と引佐細江が一望できるようになると、浜名湖に向かう丘陵の斜面上に設けられた展望の素晴らしい寸座(すんざ)駅となった。この“寸座”と云う珍しい地名は、今から1200年前の平安時代、征夷大将軍の坂上田村麻呂が東北地方の蝦夷(えびす)征伐のために東征の途中で、この峠にさしかかり、あまりにも美しい引佐細江湖の風光に魅せられて、小休止を取られたと云われる。そこから「一寸(ちょっと)座った」ということから寸座峠の名が生まれたとの伝説であった。この駅の南方の築堤の下には歩道トンネルが西側の山の斜面に通じていて昔の街道の峠へ通じていた。この先は右カーブの20パーミルの急勾配を登って寸座峠(標高 29m)ど下を寸座トンネル(長さ 166m)を抜ける。この峠の山並みは浜名湖へ突出していて寸座半島となり比較的平坦地であって、引佐細江湖が浜名湖との接続口の近くの西岸部を成していて、その先に近い寸座港にはヨットと、数隻の小型漁船がたむろしているだけで、静かな
水音が響いていた。ここからは二俣線の線路が家の二階よりも高い位置を走っているのが見えた。今や、この静かだった半島には東名高速道路の浜名湖サービスエリアが営まれるようになり、夜も昼も騒がしくなってしまっている。
寸座トンネルを出て長い下り坂を下ると、一番低い左手には雑木林が広がっていた。やがて護岸の頭の部分のコンクリートに沿って走るようになる。そして、右手から国道、左手から東名高速道路が近づくと、正面のなだらかな天神山(標高 88m)の南麓にある護岸の真横の緩くカーブした盛土の上に作られた佐久米(さくめ)駅に到着した。ここは最も湖畔に近い駅として有名なのだが、ホームのまん前に東名高速が走るようになり、せっかくの湖畔の景色を望むことができなくなってしまった。しかし、ここは青々とした静かな小さな入り江にもなっていた。ホーム東側の一部は、小さな鉄橋の上にあり、小川が下に流れていて、冬の風物詩は餌付けの時間に「かもめ」が集まってきて岸とホーム端に横一列に並んでいる光景が見られるとのことだ。
佐久米駅を発車すると、直ぐに、東名高速道路上下線の巨大な橋桁をアンダークロスし、湖と別れて、木々が鬱蒼と生い茂った内陸部に入って行く。次の東都筑駅までは、駅間距離は1.2kmと短く、大きな右カーブの長い登り急勾配に挑み、佐久米峠をトンネルで越えて東都筑駅になる。ホームの向かい側はここでも東名高速どうろとなっていた。東都筑駅を発車して県道橋が上に架かっている場所まで、登って、その先は長い下り坂を軽快に下って行く。線路南側の国道沿いに町が、北側に高速道路と田圃が広がるようになりこの区間の北側に東名高速道路の三ヶ日(インターがある。
この都筑駅は猪鼻湖に東側から注ぐ都筑大谷川沿いに町がある。下流左岸は主に住宅地、下流右岸と上流は、田畑や果樹園になっていた。三ヶ日に近づくにつれて、沿線の山の斜面には「みかん」畑が多くなって来た。都筑駅からは築堤を下り、左右の視界が開けてきて、浜名湖の付属湖である猪鼻湖の青々とした湖面が左窓に突然飛び込んでくる。この辺りは二俣線のなかでも特筆できる景色なのだが、アット云う間に通り過ぎてしまい、この先のトンネルを越えて三ヶ日へと急ぐことになってしまう。
ここで写真の撮影メモの紹介に移ろう。最初の二枚は何れも寸座から佐久米の間の谷間の築堤を行くC58です。撮影は昭和43年六月のことで未だ東名高速道路の建設の影響が風景には現れていません。この写真を撮っているのは「みかん山」の中の農道で、逆光の陽光を避けるためクルマの中から撮っています。今は国道となった県道の寸座峠はこの撮影地点の左後ろの丘の上となりますし、姫街道で言えば小引佐峠と言うことで更に数百メートル上方にあると思われた。写っているのは寸座半島の浜名湖に面した西岸であって、岸辺には芦がしげっておりないでいる、湖面には「網代が立っており、さざなみが立っている様子も判るように思えた。
このような風景が万葉集の巻14-3448に納められている。
『花散らふ この向つ峰の 乎那の峰の ひじに付くまで 君が齢もがも』
この意味は、「花の散りづづいているこの向かい尾奈の峰が、時が経って湖の洲に漬かるようになるまで貴方の寿命が長く長くあって欲しいものです。」と云うこの地方に歌われた祝い歌と云われるものだそうだ。ここでの「ひじ」は湖の洲のことであって、写真にも写っています。
三枚目は都筑と三ヶ日との間に広がる都筑の入り江に面する54qポストの辺を行く列車を撮ったものである。カラースライドが行方不明で、モノクロに転写した映像をお目に掛けている。
 ところで姫街道のことだが、浜松方面から西へやってきて引佐細江への河口にほど近い都田川を落合橋で渡り、右折して二俣線の気賀町高架橋の下をくぐって気賀の町の東の入り口に出た。姫街道が二俣線と交わるのはこの架道橋が唯一であって、気賀の町を通り抜けて引佐山地の中腹を巡って奥浜名湖を見下ろしながら西へ通じていた。この先の車道は、明治になって開かれた気賀から三ヶ日までは県道5号豊橋天竜線(今の国道362号)であって、三ヶ日から尾奈を経て新居までは県道六号豊川新城線(今の国道301号)であって、昭和に入ってから、これらの道に沿って二俣線が建設されたのであった。有り難いことに、これらの車道や鉄道は山中を行く姫街道から離れた湖岸に沿っていたから、古い街道をクルマに邪魔されずに巡ることができた。そこには宿場、関所、寺社、石碑や道標、一里塚、それに石畳から常夜灯や石仏まで揃っており、その上坂を登り、峠を越えるたびに、奥浜名湖は表情を変えてくれると云うおまけが付くのだから街道歩き趣味の人にはこたえられない。これらの風情を背景にSLを狙ってはいるが、成功した試しがなかった。そこで、最後に「姫街道の風情をレポートしておきたい。
この二俣線はほぼ姫街道と並行して木賀から三ヶ日の先まで走っているように述べてきたものの、実際には両者は科なり離れていたのだった。ここで改めて気賀宿から三ヶ日を宿を通って尾奈迄の街道筋の風物を描写しておきたい。
  三方原から坂を下って気賀宿へ向かう姫街道は西に進んで丘を上り切った辺りに老ヶ谷一里塚あとがあった。そして長坂を下った先に都田川の落合橋に出た。ここは正に引佐細江に都田川が注ぐ地点である。やがて右折して、二俣線の気賀高架橋の下をくぐって気賀宿の東野入り口に入って行くことになる。複雑な五叉路の南角に、姫街道気賀宿をイメージした小公園があり、その向いが気賀の関所跡である。先にしばらく進むと細江神社がある。 ここからやや勾配のある道を行くと気賀駅交差点を過ぎて〒前に気賀宿本陣跡がある。
ここからは先、道は下り坂になる。街道沿いには数軒、古い家が残されている。気賀に8軒ほどあったという旅籠(はたご)の建物だ。しばらく道なりに行くと、左手に秋葉常夜灯があって、気賀宿の西口となる。そして西に向かって歩いてゆき、井伊谷川沿いに北上すると清水橋のたもとに道標がある。
姫街道:浜松・見附←●・→三ケ日・豊川

秋葉道:→金指・二俣・秋葉

奥山道:→井平・半僧坊
信州道:井伊谷・奥山半僧坊・炭焼田峠から信州
とあって五差路となっていたらしい。
右に折れて少しきつい坂を高台へ、下って長楽寺川に沿って右に約600m行くと弘法大師の創建による真言宗の古刹長楽寺があり、長楽寺川を小深田橋で渡り再び坂を登る。
このように低い丘陵を越えて川を渡るのを繰り返して、次第に二俣線から離れて行くようだ。うねった細い山道を登り、少し広い所に堀川城戦死者之碑があり、ここを越えて少し上るとこんもりした薮がある。これが山田一里塚痕である。この先は細い舗装路をグングン下り、やがて車道に合流した先には、巨人伝説のダイダラボッチの足跡と云われる池がある。ここから少し行くと右は「尉ヶ峰(じょうがみね、標高 433m)登山口」であり、ここは西気賀駅から0.8kmほど離れていた。
この先は小引佐峠の上り坂となる。高台に出ると,視界が開け,街道の左手に引差細江の湖や、東名高速道路の浜名湖橋が眼下に一望できる景勝地であった。また二俣線で云えば寸座峠に当たるであろう。ここから撮る写真は逆光で真っ黒となってしまうのが難点であると云う。ここからは曲がりくねった石畳の道を下る。竹林が見えてくると道は一度平坦になり岩根集落に入った。さらに少し登って視界が開けた所に天保六年(1835)の再建の薬師堂が姿を見せた。ここは古代の万葉集に詠まれていて、この道筋が「二見道」として登場しているのであった。ここから西気賀駅へは500mほどの距離である。この薬師堂前を直進し、岩根川を小橋で渡り、突き当りを左折すると石畳道となり、ここが難所のひとつである引佐峠への上り口である。階段を上りつめ、さらに石畳の道を上ルト三ヶ日イから引佐峠を経て奥山へ通じる広域農道を横切った。この山の斜面はミカン畑なのだろう。この辺りから左手の木の間に浜名湖が見え隠れする。再び鬱蒼とした石畳道を進むと引佐峠(標高 200m)に着いたが、樹木のため見晴らしはなく、昔は茶屋があったと云うが、今は広場だけであった。ここは二俣線の佐久米駅から3.0kmも北へ離れていた。ここからの下りは曲がりくねった急な石畳の下り坂で、「象鳴き坂」である。1729年(享保14年)安南国(今のベトナム)から将軍吉宗に献上するための象が京都から江戸へ下る途中、今切の渡船に乗せられないため、姫街道を歩かされた。そのとき、あまりの急坂に象が悲鳴をあげたという難所である。その石畳の坂道をしばらく下ると石投げ岩に到着した。峠越えの無事を願い、又は感謝しつつ岩に石を投げたようだ。坂を登り、峠を越えるたびに、奥浜名湖は表情を変える。景色が開けてくるとまもなく大谷一里塚跡(江戸から70番目の一里塚)である。昔は街道をはさんで両側に五間(約9m)四方の土盛りがあったそうだが、既に畑地になっていた。坂道を下ってゆくと街道沿いに六部様があり、行き倒れの人を葬った墓地のようだ。この辺りからミカン畑の中のゆるやかな坂道を歩くことになる。やがて大谷代官屋敷跡があり、道なりにしばらく行くと2車線道路に合流するが、すぐ先で右の道に入り東名高速道路に突き当たる。この付近が大里峠であるのだが、東名高速道路に3回ぶんざんされている。最後に東名を橋で渡り、昔の街道はみかん畑の能動になっており南西に向きを変えて進むと、三ヶ日の入口のようで、2車線道路に合流して坂道を上ったところは三ケ日一里塚跡になっていた。ここは三ヶ日駅から約500m北にある三ケ日郵便局前である。
三ヶ日一里塚から三ヶ日駅に向かう途中、三ケ日体育館脇にC58の動輪と信号機を保存しているが公園がある。三ケ日商店街になった三ケ日宿で、古い商家も所々に残っている。湖岸の駅へは向かわず、本陣跡の鈴木病院を過ぎた先から下り坂になり、少し先の右側には三ヶ日交番があり、その先の釣橋川橋を渡り、さらに先の宇利山川橋も渡り、直進して行くと、左側に県立三ヶ日高校がある。 高校の敷地の角で左側の道を行く。上り坂になり、その先で右にカーブして坂の上を行く。左手は猪ノ鼻湖の眺望を欲しいままにできる。この先はミカン山の中を抜けるように旧道は南下して行く。その途中から右に分かれて中山峠(標高 375m)で県境を越えて奥三河へ抜ける山道があって、その昔徳川家康が三方原の戦に敗れた後、この峠を越えて三河に戻ったと伝えられる峠である。
やがて進むうちに尾奈集落に入り、尾奈駅から南西に2qほど離れている上尾奈良の常夜灯を見送ると利木峠(標高 92m)を越えて本坂峠(標高 330m)へ向かってゆくばかりであった。


撮影:昭和43年

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・奥浜名湖沿岸を巡る二俣線シリーズのリンク 
263. 金指駅界隈(かいわい)・ 二俣 線/遠州鉄道奥山線
264. 三方原を登るセメント列車・二俣線/金指〜宮口
265. “みやこだ”都田界隈(かいわい)・二俣線/都田−宮口
266. 天竜川橋梁・遠江二俣機関区・ 二俣 線/西鹿島−遠江二俣
268. 猪ノ鼻湖から松見ケ浦へ・二俣線/三ヶ日-尾奈-知波田