自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・奥浜名湖沿岸を巡る二俣線 2
264.  三方原を登るセメント列車 ・二俣線 /金指〜宮口

〈5−8−6−5:都田川をさかのぼる後補機付き重連貨物列車〉
0001:この築堤を登り着れば都田の街並みに入る

〈5−8−6−6:後補機C58の奮闘ぶり〉
0002:二俣線では珍しい後補機重連の貨物列車だった


〈5−8−3−1:都田峠の三方原トンネルを目指して〉
0003:25‰の上りは重連でも苦しい

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〈紀行文〉
 昭和42年2月に静岡県浜松市へ出張したついでに、その週末にSLが活躍していると云われていた二俣線を訪ねた。浜松から最も近かった金指(かなさし)駅に付いてみたら、C58重連の牽引するセメント専用貨物列車が掛川方へ発進して行く場面に遭遇した。全く予想もしていなかっただけに、その感激は今でも鮮明に覚えている。
そこで、あわてて五万文の一地形図を調べると、金指を出て遠江二俣(とうとうみふたまた、今の天竜二俣)へ向かう線路は都田川の河岸段丘に沿って三方原と引佐山地が繋がっている鞍部の都田峠へ向かって急勾配を登っているのが判ったし、それに高台に位置している隣の都田駅に向かって都田川の谷間を横断するように大きなカーブを描いた築堤が伸びているのも発見した。そこで金指駅から遠江二俣駅までDCに乗って沿線のロケハンを試みることにした。
この金指駅を出ると、浜松中心部に向かう国道257号(浜松−高山)線の踏切を通過し、小さなサミットに向かって緩やかな上り坂を越えると、都田川の谷へ入り、県道5号豊川天竜線(現 国道362号)が接近してした。上りの勾配はソレホドでもないが、南北に標高100mの山が迫り、幅100m弱の狭小部になっているため、都田川、二俣線、国道がぴったりと寄り添って来た。なお、南側を流れる都田川は、雑木林や竹林に遮られていて、車窓からはほとんど見えない。ここの山肌が都田川に迫る傾斜地に国道に沿ってコンクリート造りの橋梁が2箇所設けられていた。手前から瀬戸橋梁、次いで三連アーチの瀬戸山橋梁であった。特に後者は径間4mの半円アーチが連続する優美な意匠になっていて、アーチ状の開口部やレリーフを左右対称に配するなどの近代的な外観を見せていた。やがて、後年に新設されることになる浜松大学前駅が設けられるポイントを過ぎた。その先は、直線から大きく弧を描く様な左カーブを進み、民家もまばらな東西に長細い都田川沿いの谷間を横切るようにして築堤を登始めると、左右の田圃が広がって見えて来た。その築堤を登る線路は国道362号線をコンクリート高架橋でオーバークロスしてから山の中腹の高所に取り付いて行く。やがて小さな町の中の都田駅(みやこだえき)に到着した。
ここを出て、木々のトンネルの中を緩やかな長い上り勾配を登って行き、そのまま高い都田川橋梁を渡って、左からの山の斜面を登って行く。農家の散在する谷間が次第に狭くなって来るのを見下ろしながら、右に大きくカーブして短いトンネルを抜けた。小さな沢伝いに木々が生い茂った林の中を、さらに少しずつ登りめて、全長444mの三方原トンネル内のサミットを抜けた。ここの標高 90mから次の宮口駅は標高約45mだから、かなりの急勾配と急カーブが続いていた。こちら側の斜面は天竜川の流域に入ったことになり、天竜川の谷口集落である二俣の町は間もなくである。そこで、宮口駅から戻って都田駅で降りて、築堤を遠望出来る撮影ポイントを捜した。
何しろ初心者の頃だったから、55oの標準レンズだけしか持っていなかった。やって来たのは珍しく後補機付きのセメント列車であった。ここでは二枚だけお目に掛けた。足回りに午後の光線が当たってスッキリと撮れていたのはうれしかったのだが、HPに公開するに当たって、盲人の私にとって写真のトリミング処理がが難しく、目ざわりな邪魔物が残っていることをご容赦下さい。
次の3枚目は都田駅を出都田峠へ向かう25パーミルの築堤を行く重連セメント列車の勇姿である
手前側の台地は三方原の北端であって、美しく手入れの行き届いた棚田や茶畑が続いていた。
 ここで付近の地形について触れておこう。これらの写真に登場した地域は引佐山地(いなささんち)の山裾に当たっている。南アルプスである赤石山脈の最南端の山麓に続く西から南に弓のように連なる山地が弓張山地であるが、その中のの静岡県側には浜名湖や三方原へ向かって広がる山域があり、これを“引佐山地”と公式に呼んでいた。
さて、この引佐山地の山麓と天竜川の作った洪積台地の三方原とが接する鞍部が都田峠であって、ここは遠州灘へ流れ下る天竜川と浜名湖へ注ぐ都田川の分水嶺となっているなだらかな低い峠で昔ながらの秋葉参りの道が通じていた。
そして東海道本線のバイパスである二俣線もこの宮口から都田駅の間の 3.9kmの間にある都田峠越えを25‰の急勾配と急カーブの連続ではい登って、サミットの三方原トンネルを抜けて走破していたのであった。ここは非力なC58が重連で掛川行きの重たいセメント列車を引いて奮闘する素晴らしいドラフトノ音と名シーンが日夜演じられていたのであった。
 ここからはセメントにまつわる話題にはいりたい。その金指駅のある引佐町から二俣町青谷への東西に連なる辺りは秩父帯と呼ばれる2億5千万年前の古い石灰岩地帯であって、その秩父層はチャート(頁岩)・粘板岩などの堆積岩などに挟まれて蛇紋岩やレンズ状の石灰岩などが存在していた。そして
浸食の進んだ老年期を示す標高300〜400mの低い山地からなり,尾根には浸食からまぬがれたチャートや珪質石灰岩などの硬質岩が露出していて、尉ヶ峰(じょうがみね、標高 433m)が主峰であった。一方、都田川、その支流の井伊谷川、そのまた支流の神宮寺川なは石灰岩質からのアルカリ製の清流を加えて軟質の堆積岩地域を浸食して流路を定めて浜名湖に注いでいる。これらの河川沿いには2段の段丘が発達していた。の域では既に白岩・栃窪・都田などの石灰石鉱山が営まれていた。
 ところで、太平洋戦争の終わって復興が始まった頃には電力不足が深刻で、くにでは天竜川や大井川水系で巨大なダムヲ建設して水力発電をを行う電源開発が計画され、そのダム建設に必要なセメントの供給が静岡県内の御前崎付近にセメント工場の建設を計画していた岩城セメントに委託されたのだった。同社ではダムの建設現場にセメントを輸送するのに最適なセメント工場の建設地点を選びなおすことにした。そして、東海道本線のバイパスである二俣線の沿線であって、しかも豊富な石灰岩の埋蔵が確かめられている引佐山地の麓にある井伊谷村(いいのやむら)の地を選定した。直ちに付近一帯の石灰の採掘権を買収して工場の建設に取りかかった。先ず主原料である石灰石の採石とその輸送は工場直轄で行うことにした。工場に最も近い主力となる白岩鉱山では、採取された石灰石は山を迂回するように東方へ伸びるエンドレス鉱車(トロッコ)軌道により工場北側まで運搬することになった。その後の増産に対しては少し離れた都田鉱山や栃窪鉱山から輸送された採石も加わった。
次にで、セメント工場は当所は2基のキルン(開店焼成窯)で月産2万トンであったが、やがて倍増となった。
最後は、工場への原材料の搬入と製造したセメントの出荷を担う鉄道線の建設である。そして、国鉄二俣線の金指駅から北の山をトンネルで通り抜けて井伊谷川鉄橋を渡った全長 2.6qの専用線が工場の東側に通じることになり、自前のDLが入れ替えや運搬の仕業に当たることとなった。この岩城セメント浜松工場は昭和29年に創業を開始した。昭和28年着工の佐久間だむ(天竜川水系)へのセメント出荷は、二俣線から東海道線を経て、豊橋から飯田線に入って中部天竜のセメントサイロまでセメント専用列車で運ばれた。また同じ水系だが下流の秋葉ダムへは、ダンプ機能のない専用のトラックが用いられた。これらの天竜川水系だけでもダム本体向けの40万トンの全量、それに関連施設向けの80%の48万トンの膨大な量のセメントが運ばれた。
一方、昭和47年(1972年)着工の長島ダム(大井川水系)へは掛二俣線から東海道本線を経て金谷へ、そして大井川鉄道に入り建設現場へ運ばれて行ったのである。この岩城セメントは昭和38年(1963年)に住友セメントとなって創業を続けたが、昭和59年(1984年)に役目を終えて姿を消してしまっている。

撮影:昭和42年(1967ねん)2月

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・奥浜名湖沿岸を巡る二俣線シリーズのリンク 
263. 金指駅界隈(かいわい)・ 二俣 線/遠州鉄道奥山線
265.“みやこだ”都 界隈(かいわい)・二俣線/都田−宮口
266. 天竜川橋梁・遠江二俣機関区・ 二俣 線/西鹿島−遠江二俣
267. 引佐細江から猪ノ鼻湖へ・二俣線/寸座〜都筑
268. 猪ノ鼻湖から松見ケ浦へ・二俣線/三ヶ日-尾奈-知波田