自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・奥浜名湖沿岸を巡る二俣線 1
263.  金指駅界隈(かいわい) ・二俣線 /遠州鉄道奥山線

〈在りし日の金指駅の朝、並んだC58と遠鉄奥山線の気動車(昭和39年春)〉
0001:風間さま、昭和39年6月撮

典拠: 「1960年代の地方私鉄の回想」/遠鉄奥山線
http://umemado.blogspot.jp/2012_02_01_archive.html


〈5−8−5−5:住友セメント浜松工場専用線のセメント列車〉
0002:金指駅構内から、昭和42年2月撮


〈5-8-5-6:668レ、遠鉄奥山線の跨線橋跡の高所から撮影〉
0003:昭和42年2月撮

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〈紀行文〉
 SLを撮り始めたのは昭和41年の秋のことだから、早くも翌年の2月にはホンダの浜松製作所に出張した週末の朝に、近くを走っていた二俣線のC58を撮りに金指駅へ出かけていた。事情を知らぬまま出かけたので、C58重連のセメント列車が走っているのに驚いたものだった。やがて、奥浜名湖沿線の風景に魅せられて何回も通うようになったが、間もなく近くで東名高速自動車道路の建設が始まると足は遠のいてしまった。この初心者らしい「ういういしい」作品群を6回の「奥浜名湖沿岸を巡る二俣線」のシリーズにまとめた。
最初の「金指駅界隈」を始めるに当たって、二俣線が赤石山脈の南端につながっている低い山地の山すそを弓なりに迂回して通じている沿線の地形について述べることから始めよう。この地域は北から南アルプスと呼ばれる赤石山脈が標高 3,000m級を含む山々を展開しており、その延長である山麓丘陵が遠州灘の沿岸部に接近していた。その東側が標高265mの小笠山を主峰とする標高 200m前後の山々が広がる小笠山丘陵であった。一方の西側は、この小笠山丘陵に続いて西から南へ弓なりに長く約 50qも連なる弓張山地があって、それは鳶ノ巣山(標高706m)を北東端の最高地点として、静岡県と愛知県の県境をなす300mから400mの山々が南端で遠州灘へ崖となって接していた。これらの山地が取り囲む南面には、東から磐田が原と三方原の洪積台地があって、その間を天竜川が遠州灘へ流れ下っていた。その西には浜名湖が広がっていた。これらの地形は地球的に訪れた気候の変動がもたらしたものであった。先ず氷河期には地球上の水は氷河として山の上に蓄えられるので海面が下がり海岸線が沖の方に後退する海退期となる。この時期には山と海の高度差が大きいので、山から流れ出る川は深く谷を刻んで、山を出たところで洪水になり、扇状地や河岸段丘を形成して、土砂を堆積させて行く。次いで氷河期が終わると山の氷河は溶けて海に流れ込むので、海面が上昇し海岸線が陸地内部に前進する海進期となる。そうすると山と海の標高差が余りないので川は山を深く削る力がなく、海の沖に流れ出て、そこで細かな土砂の粒子を沈降・堆積させたから、三角州や沖積平野が形成することになるのであった。このすてっぷを次ぎに述べてみよう。
@:約40〜50万年前の海侵期、天竜川の堆積により台地が形成される。
A:次の海退期に天竜川は現浜名湖付近に谷を形成する。
B:約38万年前の、第二海侵期には、谷は入り江となり、この時に三方原台地が堆積する。
C:この次の海退期には天竜川が三方原と磐田ケ原台地に分裂させる。
D:第三海侵期に浜名湖付近の沈降と海面上昇により、今の浜名湖に近い入り江となる。
E:第四海退期(約2万年前)それに続く沖積世の海面上昇により沿岸流が運ぶ土砂で入口をふさがれ、現在の浜名湖を形成した。
F:沖積世の海面上昇は縄文海侵(海進)とよばれ、このあと+3mから-2mほどに渡る海侵・海退が数度おとずれた。
F:これにより低地には海岸線に平行な砂堤を複数を残している。
縄文中期〜後期以降、浜名湖は庄内半島から北にあり、その南は平野となっていて川として現在の弁天島駅付近で海に注いでいた。
その後この大平野が消滅、平安時代には浜名湖の出口は現在の湖西市新居町大倉戸に流れていて橋が掛けられた。この川を浜名川と呼び、ここを東海道が通っていた。
この時代は、(琵琶湖より)遠い淡海つまり淡水湖として認識されていた。浜名湖は海に近い湖であったが、湖面の方が海面より高く、浜名湖より流れ出る川を海水が逆流するようなことは無かった。
G:明応7年(1498年)に起きた大地震やそれに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分が決壊し現在のような塩分を含んだ汽水湖となった。
この時に決壊した場所は今切(いまぎれ)と呼ばれ、その後は渡し船で往来するようになって、東海道の難所の一つとなった。
そしてこの三方原台地の西南に浜松市が存在していて、そこから三方原を北上した西側の台地上には航空自衛隊の浜松基地やホンダの浜松工場が位置していた。
この浜松は戦国時代は重要な城下町であると同時に、東海道の主要な宿場でもあった。それに加えて、浜松を起点にする「塩の路」が信州の伊那谷の飯田を目指して2本の街道が通じていると云う物流の要所でもあった。その東側の道は三方原を北東に横断して天竜川の渓口集落である二俣から「火よけの秋葉神社」の地の近くを通って青崩峠(あおくずれとうげ、標高 1,082m)を越えて遠山郷から天竜川に沿って飯田へ抜ける秋葉かいどうであり、西方の道はやはり三方原を北上して浜名湖の北東奥にある支湖の引佐細江の沿岸にある金指(かなさし)を経て炭焼田峠(標高 約225m)を経て奥三河へ、そして新野峠(標高 1,060m)を越えて飯田へ向かう遠州街道(信州側)、信州道(引佐地方でなのであった。
この浜松から最も近いSLの走る二俣線の駅は、遠州街道の通じている金指(かなさし)駅であった。ここは三方原から坂を下って奥浜名湖の一つである引佐細江湖の沿岸に広がる都田川の作った扇状地や河岸段丘の上に開けていた。この“金指”と云う地名は身、金、または、鉄を採った残りかす「金ぐそ」が流れ込む川の周りと云うのが語源だと云われていて、全国的にも珍しい地名であった。この金指駅は今は二俣線の駅であると同時に、北側の山を超えた向こう側にある住友セメント浜松工場からの専用線の接続駅でもあって、その構内は広く、セメント輸送の拠点で大変に賑わっていた。そのプラットホームの西北にはSLのための鉄筋コンクリート造りの給水塔が、また掛川方にはターンテーブル(転車台)が用意されていた。
この駅が設けられたのは大正3年(1914年)11月とふるく、浜松軽便鉄道のえきとしてであって、今の二俣線のホームの南寄りに浜松軽便鉄道のホームがあり、国鉄との連絡する跨線橋もあったのだったが、私の訪れる三年前に廃線となり撤去されてしまっていたのだった。
ここで早速撮った写真を紹介しておこう。
最初の一枚は、3年前の昭和39年(1964年).3月に「地方私鉄 1960年代の回想」の風間さまがオリンパスペンで撮った貴重な写真を提供してもらったものである。

国鉄二俣線のC58と軽便線の気動車が並んだ在りし日の朝の金指駅である。
次のショットは二俣線の線炉端から住友セメントの専用線の列車を狙ったものである。
専用線の出来た昭和29年頃には、セメントを製造して発送する工場は「井伊谷村(いいのやむら)にあって、国鉄の二俣線へのセメントの中継する金指駅は「金指町」にあって、この両端の村と町が合併して引佐町(いなさちょう)が発足している。これはセメント専用線が結んだ縁なのだろうか。地形的には「金指町」は隣の気賀を中信とする細江町と合併した方が自然に見えるのだが。町が村に吸収された直後に新しいセメント城下町の引佐町となったと云うのもセメントの威力であったのであろうか。
三枚目は金指駅を発車する下り貨物列車を駅の西方にあった高台から俯瞰(ふかん)気味に撮った。こんな平地にあった高台こそは、浜松軽便鉄道が二俣線を乗り越えている跨線橋への築堤の配線痕であったのだった。この浜松軽便鉄道は大正3年(1914)1月と云う昔に、浜松から金指を経て気賀までの軽便線の建設を行った。その26年後の昭和15年になって、軍事上の要請から浜名湖付近で海浜を走る東海道本線のバイパスとして、掛川から金指を経て新所原に至る内陸通過の二俣線を急遽建設することになった。そして金指駅の西方でかっての浜松軽便鉄道の線路と交差が必要となった。そこで、浜松鉄道となっていた軽便線側が跨線橋を設けて二俣線を乗り越える異例の対王が採られたのであった。私が訪ねた時には既に橋桁は撤去されていたが、コンクリート擁壁と築堤が残っていたのであったと云う訳である。
 この二俣線は昭和10年(1935年)に掛川〜遠江森間が開通し、順次延伸して昭和15年(1940年)に遠州森〜金指間が開業し、二俣線掛川〜新所原間(67.9km)が全通している。この二俣線の始まりは大正11年(1922年)に公布された「改正」「鉄道敷設法」別表に予定線トして指定されていた『63. 靜岡縣掛川ヨリ二俣、愛知縣大野、…ヲ經テ岐阜縣大井(今の恵那市)ニ至ル鐵道、と追加された63-2. 靜岡縣二俣ヨリ愛知縣豐橋ニ至ル鐵道』なのであった。
そこで先輩への敬意を表して浜松軽便鉄道の消長について述べておきたい。
先ず、地方鉄道の建設を容易にするための軽便鉄道法が明治43年(1910年)に公布される前に、全国に軽便鉄道を作っていた鉄道資本家の雨宮敬次郎さんは浜松でも軽便鉄道をつくろうという動きがあることを知って、地元の人たちと浜松鉄道(後に、大日本軌道浜松支社)
を創立して秋葉街道に沿って浜松〜二俣間に軽便鉄道を明治41年に開通させていた。これを見ていた交通が不便だった信州道(遠州街道)沿いの奥浜名湖の人々も、鉄道の建設に乗り遅れまいとして、軽便鉄道の敷設運動が起こった。そして大正元年(1912)に今の引佐の実業家・伊東要蔵を社長として、蒸気動力での濱松軽便鉄道鰍ェ設立された。それは浜松の後背地である三方原台地や引佐地方、奥三河地方の開発を目指していて、茶やミカンなどの出荷や奥山にある半僧坊大権現で知られた方広寺へも日帰り山系、それに浜松への通学などの弁をもたらそうとしたのであった。そして、大正3年(1914)1月、浜松〜気賀間の工事に着手し、同年11月浜松市街北西部の元城から三方原台地、引佐、奥山地方を次々と線路でつないで、金指まで開通した。軌間が約762oの線路の上をドイツのコッペル社製の蒸気機関車がゆっくり走り出したのだった。その機関車の煙突の型がラッキョウに似ていたので”ラッキョウ軽便”と呼ばれた。翌年に浜松駅に近い板屋町まで、そして気賀までと路線を延長して、この間を1時間20分で連絡した。その後の経営難に苦しみながらも大正12年(1923)に気賀〜奥山が開通し、浜松〜奥山間25.75kmが全通した。
1915年に社名を浜松鉄道に改めた。1929年にはバスに対向してガソリンカーの導入を試みている。ところで、国鉄二俣西線(二俣線)が昭和13年(1938年)に金指駅に乗り入れを果たした。さらに西方向の三ヶ日への延伸工事にに際しては、浜松鉄道と交差することとなった。このようなケースでは、後から開業した線が陸橋等を築いて昔からの線を跨ぐのが通例だが、二俣線の場合は東海道本線の非常時迂回線と考えられていたことからか、浜松鉄道の方が陸橋を建設し二俣線を跨いだ。
浜松鉄道は戦後の1947年に浜松−二俣間を走る遠州鉄道と合併して、その奥山線となった。その3年後には、合理化の一環として曳馬野までを600Vで電化、曳馬野以北の列車との併結運転も行われるようになった。
昭和26年(1951年)8月には非電化区間の
蒸気機関車が廃止され、気動車にに転換した。また1958年、起点を遠鉄二俣線の遠鉄浜松駅に統合している。遠州鉄道になってからも軽便鉄道のままだったので、貨物輸送も低調であったし、モータリゼーションの前では苦戦を強いられ、
昭和38年(1963年)5月 遠州鉄道奥山線の気賀口〜奥山間7.7キロメートルが廃止され、その翌年に全線が姿を消してしまった。この終点にある奥山半僧坊であるが、正式には、深奥山方廣萬壽禅寺(深奥山方廣寺)という臨済宗の大本山と、その鎮守の神である奥山半僧坊大権現で構成されており、前者は臨済禅の修行道場であり、後者は半僧坊の力により海難を逃れた故事にちなみ厄除の祈願所として親しまれているのである。
最後に金指駅の北の山を通り抜けた先の元、井伊谷村(いいのたにむら)に昭和29年から創業する住友セメントの月産 4万とんを誇る浜松工場の専用線についてである。
金指駅から北へ2.6qの専用線がトンネルを抜け鉄橋を渡って工場の東側に通じていて、セメントの出荷と原材料の搬入を受け持っていた。
ここにセメント工場が出来たのは、太平洋戦後の電力不足に対応するための電源開発が天竜川や大井川水系に行われ田ことに関係があった。その佐久間ダム、秋葉ダム、長島ダムなどの建設が決まり、その建設用セメントの供給を磐城セメントが専属的に担うことになった。そのための最適な立地として二俣線の金指駅に近い井伊谷村(いいのやむら)が選ばれたのであった。この北側の山々にはセメントの主原料である石灰石の豊富な鉱床があって、既に中小の鉱山が操業していたからであった。それに、ダム建設現場へのセメント輸送にも弁がよかったからである。そこで造られたセメントは30トン積載のセメント専用貨車を8両連結したセメント専用列車がC58重連に牽かれて東へ、西へと金指駅を出発して行っていたのである。

撮影:昭和42年(1967年)2月。

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・奥浜名湖沿岸を巡る二俣線シリーズのリンク
264. 三方原を登るセメント列車・二俣線/金指〜宮口
265. “みやこだ”都田界隈(かいわい)・二俣線/都田−宮口
266. 天竜川橋梁・遠江二俣機関区・ 二俣 線/西鹿島−遠江二俣
267. 引佐細江から猪ノ鼻湖へ・二俣線/寸座〜都筑
268. 猪ノ鼻湖から松見ケ浦へ・二俣線/三ヶ日-尾奈-知波田