自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・奥浜名湖沿岸を巡る二俣線 4
266.  天竜川橋梁・遠江二俣機関区 ・二俣線 /西鹿島−遠江二俣


〈0003:5−8−1−6:天竜川橋梁〉
0003:下流側の道路橋桁の下から仰ぎ見て撮影した

〈5−8−2−5:下路トラスから跳びだして来たC58〉
0002:昭和42年2月撮

〈遠江二俣の木造扇形庫をバックに出区準備中のC58219号〉
0001:遠江二俣機関区にて、戸田真也さま、1971年1月5日撮

典拠: 「汽車・電車1971〜」
http://www.photoland-aris.com/kisya/
この中の、二俣線1971・1 蒸気機関車 〜1976/二俣線から転写。

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〈紀行文
 ここでは東海道本線のバイパス路線である二俣線が成立した背景を探った。先ず明治時代に入ると、政府は東京と大阪を結ぶ鉄道の計画を持ち上げたが、当時は東海道経由と中山道経由の2案があり、方向性が未決定であったが、お雇い外人のリチャード・ボイルが日本の近代化のためには鉄道網の整備が不可欠であり、鉄道の建設と地域の開発を同時に進めるのには未だ開発の進んでいない中山道に沿って鉄道を建設することが効果的であると推奨していた。そして、1883年(明治16年)政府はすでに東京 - 高崎間(現在の高崎線)の建設が決まっていたことヲ考慮して、東京 - 大阪間幹線鉄道を中山道経由で建設することを決定した。その翌年の明治17年には中山道ルートの一部として大垣−関ヶ原−長浜間が開業している。しかし1886年(明治19年)になって、東京−大阪間鉄道の予定経路を、工期が半分に抑えられること、それに加えて山間地を通るための工事の難航が予想されたことを理由にして中山道経由から東海道経由(名古屋−草津間は中山道ルート)に変更した。この事態があってから、軍部は戦争時における艦砲射撃にさらされる海岸線経由の幹線鉄道の敷設案を避けるような方針を採るようになっていた。
その後、昭和に入って戦争の気配が濃くなって来た頃、遠州灘に直面して浜名湖付近を走っている東海道本線が敵に狙われた事態を懸念して、内陸を通過する迂回路線の必要性が軍事的に論じられた。
当初、軍部からの提案は、舞阪から東海道線と別れて、
浜名湖北岸を迂回し、東海道線の鷲津(わしず)を結ぶルートであった。しかし、それ以前の大正11年(1922年)に公布された「改正鉄道付設法」別表では、次のルートを予定線として公布していた。
『63. 靜岡縣掛川ヨリ二俣、愛知縣大野、…ヲ經テ岐阜縣大井ニ至ル鐵道』
これは東海道本線と中央本線とお連絡するルートであった。それは鉄道省が路線の採算性を重視したことから、掛川から遠江二俣、そして天竜川沿いに北上し飯田線を越えて、奥三河の鳳来寺を経て、さらに明智から中央西線の大井(現・恵那)を連絡するルートを選定していたのであった。
しかし、時局や軍部との折り合いで、二俣から金指・気賀経由で、豊橋まで結ぶ事になり、改正鉄道付設法に次の路線を追加した。
『63-2. 靜岡縣二俣ヨリ愛知縣豐橋ニ至ル鐵道』 
これによって、遠江二俣から西側は、軍部が要求したルートになり、東海道本線の掛川と豊橋を連絡する迂回線としての二俣線の建設が決定した。そのご、西での東海道本線への合流点を新所原に変更して両端から着工し、順次延伸開通して、昭和15年(1940年)6月1日に掛川−新所原間が全通したのであった。戦時中には実際に二俣線を迂回する貨物列車の運行も行われていたし、また開通以来から木材輸送が、また戦後の電源開発の時期には天竜川や大井川水系におけるダム建設用のセメントなどの輸送が活発であり、それにローカル線の役割をも果していた。
ここから二俣線の通る沿線の地形をのべておこう。この地域はいずれも南アルプスである赤石山脈の南端の山麓に続いて遠州灘に向かって続いている低い山地の山すそを弓なりに迂回して通じていた。その山々が海に迫る東側が標高265メートルの小笠山を主峰とする200m前後の山々が広がる小笠山丘陵である。一方の西側は、この小笠山丘陵に続いて西から南へ弓なりに50qも連なる弓張山地が南端で遠州灘に崖で面していた。これらの山地が取り囲む南には東から磐田が原と三方原の洪積台地がつづき、その西に浜名湖が広がっていた。
その弓張り山地を浸食して横断し、二つの洪積台地を分断するように遠州灘へ流れ下る天竜川があり、これは遠く長野県の諏訪湖を水源に中央アルプス(基礎山脈)と南アルプスの赤石山脈の間の伊那谷を南流してくる大河であった。ここでは二俣線が天竜川を渡る鉄橋のある風景と、遠江二俣機関区の情景に触れてみたい。
 あの奥浜名湖へ流れ込む都田川の河口沿岸の低地いある金指駅から三方原の縁を登って都田峠をトンネルで抜けると、山々の多くが「スギ・ヒノキ」に覆われた“天竜美林”が広がる天竜川流域に入った。この美しい森が育っているのには地元出身の金原明善(1832年-1923年)さんと云う偉人に負うところが大きい。この天竜川は昔「暴れ天竜」として多くの人たちから恐れられていたが、金原さんは自己の資産を投げうって、天竜川の洪水対策に奔走してきたひとであった。その下流域での堤防の改修が軌道に乗ってきた明治19年、金原さんが55才の時に、天竜川流域の山間部に洪水を防ぐ対策として植林事業に乗り出した。当時、天竜川の山間部は荒れていて大雨が降ると大量の水と土砂が一気に川に流れてしまう状態であったからである。この努力が実って天竜美林となって、地域の林業発展の基礎を作ったと云うのであった。
さて、話を元にもどそう。都田峠の トンネルの先は20‰の急勾配と急カーブを切りながら築堤を駆け下りて宮口駅、そして直線の緩やかな下り勾配の雑木林の中を足早に走って、旧石器時代(約1.4〜1.8万年前)の浜北原人の化石骨を発掘した根堅洞窟が近い岩水寺駅を過ぎて、左カーブを過ぎると西鹿島駅に到着した。ここには木材の積み出しを主体とする貨物ヤードがあって、小型のディーゼル機関車が貨車の入れ替えに懸命のようであった。駅の近辺には天竜材を製材する工場が多数営まれていて、精勤を運搬するトロッコ軌道が貨物ヤード辺りまで延びていた。この駅前には天竜営林署が設けられていて天竜川流域の森林資源管理の中枢を担っていた。
ところで、大正時代に浜松からこの西二俣まで開通した先輩格の今の遠州鉄道の駅は、後に二俣線が近くに西鹿島駅を設けると、ここまで線路を延伸して駅を移転して二俣線と接続した。私の訪れた昭和42年の前年の秋までは遠州鉄道の気動車がここから二俣線に乗り入れて遠江二俣(とうとうみふたまた)えきを経て秋葉山参りで知られる遠州森駅まで直通運転をおこなっていたのだった。
西鹿島駅を出て築堤への急坂を登って天竜川の大鉄橋を渡った。その築堤を下って鳥羽山トンネルを抜け、再びデッキガーターの二俣川橋梁を渡ると、二俣の街並みの中を通って機関区のある遠江二俣駅に到着することになる。
この西鹿島駅前は秋葉街道である国道152号(同時に二俣線に並走している国道362号)が通っていて、この先で二俣線の天竜川橋梁の上流に昭和12年に(1937年)に架けられた全長 220mのカンチレバートラス橋である鹿島橋が架けられていた。私は、その西鹿島川の橋下の河原に降りてSLの通過を待った。この角度からは戦国時代の山城で有名な二俣城のあった山は見えるはずなのだが、定かでないのが
心残りであった。
この二俣線の天竜川橋梁は全長405mで、昭和11年(1936年) 東京石川島造船所製の下路平行弦ワーレントラス 62.4m 3連、それにプレートガーダー 31.5m 6連+22.3m 1連のけいしきである。橋脚はRC井筒基礎で、直接基礎であって、架橋にはトラベラークレーンが使用されたと云う。何とか
下り貨物を撮り終わってから、二俣側に渡ってトラスから跳びだして来るC58を狙って、遠江二俣(とうとうみふたまた)駅へ向かった。この駅は昭和62年(1987年)に二俣線が第三セクターの天竜浜名湖鉄道となると、「天竜二俣駅」と改められて平凡になってしまった。この“遠江”の接頭語は昔の国名を表すものて、同一駅名が2箇所になる時に後に開業した駅に国名を頭に付けて識別する慣わしがあるのだが、ここの場合は地元を意識したためか、最初から付けられたようだ。この国の名前は、都に近い琵琶湖がある国が“「近江(おうみ)」とよばれていたことから、都から東海道を東に遠く行った先にある浜名湖のある国の名前を「遠江(とうとうみ)」と名付けたと云うのが由来であって、他に遠州とも云われているのであった。
二俣の地は、天竜川と二俣川との合流点にあり、水運に恵まれた地であった。加えて、浜松から信州の飯田に抜ける二本の「塩の路の中の東側の道である秋葉街道(国道152号 浜松-上田)が青崩峠(あおくずれとうげ標高 1,082m)を越えて南北に通じており、それに西からは奥三河から姫街道を経て気賀から都田峠を越えて秋葉道が(国道362号 静岡-豊橋)が通じていると云う交通の要所であった。これらの街道を通って集まる人々の向かう秋葉山は赤石山脈の最南端の天竜川の上流に位置する標高866mの山で、「火伏せの神としてあがめられる秋葉神社の御神体であって、全国の秋葉神社の総本山なのであった。
そして、二俣と云えば戦国時代の名高い山城のった地として知られている。この二俣城は蜷原(になはら)台地(標高90m)が大きく北から南へせり出している先端部に位置し、西側には大きく蛇行する天竜川、東側には二俣川と自然の要害の地に築城されていた。しかし、現在の二俣川は城のずっと東南川に合流するようになっているが、もともとは、 この台地そのものを挟むような形で流れていたらしいとのことである。ここでは戦国時代に武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げたことや、また織田信長の圧力に屈して、徳川家康が涙を呑んで嫡男の信康を切腹させたと云う悲劇の舞台としても知られている。そして、二俣の市街は二俣城の真下の天竜川と二俣川の挟まれた狭い平地に、南北に長く連なっていて、そこを貫くバス通りでもある旧秋葉街道メインストリートが走っていた。
 早速、駅へ駆けつけてはみたが、SL撮りの初心者だった私は「気おくれ」もあって駅の東側にある機関区への立ち入りの許可をもとめるのをためらってしまい、構内の外から列車の発車をスナップして引き上げてしまった。
 このHPの制作に際し、この遠江二俣機関区で使われている建物群が国登録有形文化財に、それに扇形庫・転車台が通産省の近代化遺産に指定されたことを知ったのだった。そこで「汽車・電車 1971年」の管理人でおられるM.TADAさまにお願いして、二俣線の無煙化直前に撮されたC58の背景に扇形庫が写っている写真の転載のお許しを戴いたので、ここでお目に掛けることができた。ここで感謝の意を表します。
ところで、遠江二俣機関区が設置されて、この扇形庫が建設されたのは二俣線が全線開通した昭和15(1940)年のことであって、9両のC58が集中配置されたのであった。ここの扇形庫前面には昭和12年(1937年)横河橋梁製の全長17.2m・電動式・下路式バランスト型転車台が設けられた。これは鉄骨や鉄板で凹状に造られた桁の中央の低い場所にレールを敷いたタイプで、ピットが浅く、中央の回転部のみで全重量を支える一点支持であるのが特徴である典型的な転車台であった。
次の扇形庫は木造平屋建、波形ストレート鉄板葺であって、北の1番から6線の収容線があり、奥行は23mであった。その庫内の柱を少なくするために、天井は木骨の合唱式トラス構造で小屋組が作られ、高さは排煙を考慮して非常に高く作られ、最上部に排煙口が設けられていた。また線路下には、点検整備用ピットが設けられた。1番線の隣にには修理場が設けられている。この建物が建造されたのが戦時色の濃くなった時代にはいっていたことや、それに地場産業である林業・製材業に配慮した結果であろうと思えるのだが、お国自慢の良質な天竜材をふんだんに使い、この様な丈夫で立派な木造扇形庫が建てられたのが最大の特徴であり、今や現存する唯一の木造扇形庫なのであった。
最後に、石炭置き場・石炭積み込み場や給水設備があった。特に、揚水した井戸水を70噸も蓄えられる水槽を高さ12mもある大型の鉄筋コンクリート製の6本脚の給水塔が偉容を見せていた。
 ついでながら、この遠江二俣駅から延びる鉄道としては、二俣線の前身であった飯田線の三河大野を経て中央細西線の恵那へ至る鉄道は実現されなかったが、大正11年に予定線へ追加された、飯田線の佐久間て至る佐久間線が天竜川東岸にそってトンネルヲ連続して建設するルートで全通の寸前であった。これは一部のトンネルと橋梁が完成したが未成線として放棄されてしまっている。

撮影:昭和42年(1967ねん)。

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・奥浜名湖沿岸を巡る二俣線シリーズのリンク 
263. 金指駅界隈(かいわい)・ 二俣 線/遠州鉄道奥山線
264. 三方原を登るセメント列車・二俣線/金指〜宮口
265.“みやこだ”都田界隈(かいわい)・二俣線/都田−宮口
267. 引佐細江から猪ノ鼻湖へ・二俣線/寸座〜都筑
268. 猪ノ鼻湖から松見ケ浦へ・二俣線/三ヶ日-尾奈-知波田