自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

| HOME | SL写真展 ( INJEX )  | 田辺のリンク集 |
(メールは上の  SL写真展 ( INJEX )  にある送付先へドウゾ。)

…………………………………………………………………………………………………

・肥薩線の「矢岳越え」シリーズ

208.  トランケート型トラスの第2球磨川橋梁  ・肥薩線/渡-奈良口


〈0001:bP70411:人吉駅発車の貨物〉
人吉

〈0002:bP70443:329客レ第2球磨川鉄橋を渡る〉
第2球磨

〈0003:bP60943:新鹿児島本線の球磨川鉄橋〉


〈撮影メモ〉
八代―人吉−吉松間の矢岳越えの鹿児島本線となる前身の八代-人吉間の球磨川には3か所の鉄橋が必要であり、アメリカから輸入した「くーぱー型橋梁」と呼ばれたピン結合の曲弦プラット トラス橋梁が明治41年(1908年)に掛けられて開通シテイル。その後に門司港−鹿児島間の鹿児島本線が全通した。それから15年後になって、不知火海(しらぬいかい)に沿った西海岸周りの八代-川内−鹿児島 間のルートが、球磨川に国産技術を結集して川崎造船所が製造したリベット結合のワーレン トラス四連の鉄橋を掛けて大正11年(1922年)に開通している。そして、こちらの短縮ルートが鹿児島本線となって活躍を始めた。
この鮎釣りで名高い球磨川に日本の鉄道発展期における新旧二つの橋梁が並んで掛かっているのである。


………………………………………………………………………………………………
〈紀行文〉
 昭和43年の初秋に吉松〜人吉間の「矢岳越え」を訪ねた。その帰途の際に肥薩線の渡(わたり)〜一勝地間の球磨川沿いと、鹿児島本線の二見〜上田浦間の不知火(しらぬい)海沿いに立ち寄った。ここでは前者の第二球磨川橋梁の風景をお目に掛けたい。
 前日の強行軍の疲れをいやそうとして人吉温泉の安宿に泊まって、早朝の人吉駅発の登り貨物列車の発車風景を撮ってから、球磨川の川岸へ降りて川霧が散ってしまっているのを確かめてから、上り列車で渡駅に向かった。人吉駅の八代方のはずれに古めかしい石造りの機関庫の姿を右に見て市街地を西へと抜けた。
やがて西人吉駅、この先には桜並木があり、春先には桜のトンネルになると言うのだった。この辺で盆地が尽きて、穏やかな水面を見せていた球磨川が左側から近づいてきて、その対岸の山が迫って渓流らしい流れとなった所で渡駅に着いた。この辺りからは林業の盛んな球磨村に入り、その中央を球磨川が激流となって西流しているのだった。国道を約700mほど歩くと第二球磨川橋梁の下流側に着いた。川岸に降りて右手上方に架かる吊り橋の下から登りの貨物列車が鉄橋を渡った所を狙ってみた。
この文を書くに際して、村役場の観光担当の方に私の撮った吊り橋の名前を尋ねようと電話をした所、吊り橋は水害で失われてしまったとのことで、話題は変じて、昨今、人吉市に里帰りしたハチロクの牽く「SL人吉号」を撮る人々の集う撮影名所として大変賑わっているとのことであった。確かに今日のwebには、ここで撮った傑作が勢揃いしているのを見るのは楽しい。 
 ところで、私が訪ねた時には橋梁の構造などにまで気が回らなかったが、ここではいささか調べた情報をお伝えしたい。
明治時代の中頃から始まった九州の鉄道網整備には、ドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルの指導によるドイツのテクノロジーが採用されており、そのため九州の鉄道はドイツ方式だと云われている。しかし、全国の主要鉄道が国有化されたことから、この肥薩線の前身である鹿児島本線の八代以南は官設で整備されたのであった。
一方、本州での鉄道創業時から技術面を担当してきたイギリス人のお雇い外国人、チャールズ・ポーナルが帰国した翌年の明治29(1897)年に、鉄道院は鉄道橋梁の設計をアメリカ人で1894年に鉄道橋梁の荷重計算を軸重の解析を進める手法を確立した第一流の橋梁技術者であったセオドア・クーパーと、米国土木学会代表を務めることになる鉄道橋梁設計者であるチャールズ・シュナイダーに委託する英断を下した。彼らは新たに日本の鉄道のために各種のトラス橋の標準設計を行った。そのような時期に八代から人吉への延伸工事が始まり、今までのドイツ式の橋梁に代えて、アメリカ式で九州で初めて架けられたのが1908年(明治41年)に完成した第一、第二球磨川橋梁なのである。
この第2球磨川橋梁は球磨川に対して斜めに架けられており、その橋長 179mの4連のうち、2連がアメリカから輸入したトランケート型ピントラスであった。この部分はスパンが62.70mの斜角付きピン結合曲弦プラットトラスと呼ばれた形式であった。それに2連のスパン 25.4mの上路プレートガーダがそれぞれ両端に着いていた。
鉄橋は球磨川の流れを斜めに横断しているが、切石積の橋脚は川の流れに逆(さか)らわないように流れの方向に設けられている。このため、橋脚上のトラスの端部の横材は線路中心線に対し斜めに(60度)配置されている。さらにトラス端の部材(端柱)は、上流側と下流側では異なっている。具体的には、渡駅側(右岸側)をみると、上流側の端柱は67度の斜材であるが、下流側の端柱は鉛直材となっている。一方、那良口駅側はその逆で、上流側の端柱は鉛直材であるのに対し、下流側は67度の斜材を用いている。
このように、トラス面で端柱の形状が上流側と下流側でことなり、平面的にみると点対称の平行四辺形となっている。トラスを真横から見ると、一端は斜めに、他端は垂直になっているのが判るだろう。
こうした斜材を用いるところを鉛直材とし、橋の一部を“切り詰めた”部材配置としていることから“トランケート(切り詰め)形式”と名付けられているのだと云う。
さて、このトラスはアメリカン ブリッジ社製で、銘板に工場名(Edge Moor Works)が入っているのはこのタイプだけであると云う。
また、トラスの特徴もさることながら、橋台部が煉瓦積み、橋脚部は切石積みによって造られており、特に切石積が美しい造形美を見せていることで知られている。さすがに肥後石工(ひごいしく)の里ではあると云えるだろうか。この線くでは駅の、ほーむからトンネル、人吉機関車庫、給水塔など多くの鉄道構築物に石積み工法の果たした役割は大きかったことを感じさせる。この橋は文化財として経済産業省の近代化産業遺産に登録されているだけあって、アメリカから輸入された700連のトラスの中で、このタイプは僅か7連が架けられたが、現役で活躍しているのは肥薩線のこの第2と、八代近くの第1球磨川橋梁の4連のみであると云う貴重さであった。
それにしても架けられた当時のママの「ピン結合」、材料の節点を回転自在に結合した構造がそのまま維持されている珍しい存在となっている。架設当時の製鋼技術に起因していて、複数の小断面部材を組み合わせて1本の部材を構成しなければならなかった時代の経過を感じさせる。ヒン部分の摩耗などへの保全の努力を尽くして現役として活躍させている管理者に経緯を払わねばなるまい。
さて、撮り終わったので、隣の那良口駅まで歩くことにした。国道を少し戻って県道325号(遠原渡(とおばるわたり)線)へ入ると直ぐに、さっきの鉄道橋に一見似た姿を見せている下路曲弦鋼ワーレントラスの相良橋で球磨川の流れを渡ることになった。対岸沿いを人吉から那良口、一勝地を経て水俣へ通じる県道15号線との交差点へ出た。この上流側の橋詰めは昔の渡し場があった場所であるとかで、確かに少し先の鵜口集落は昔は球磨川に面した八代との物資の重要な中継点として栄えていたようであった。そのような水運が出来るようになったのは、江戸時代の初め、寛文2年(1662)に始まった、人吉の商人 林正盛(まさのりさんの尽力によって、巨大な岩を砕き、浅瀬を掘り、3年の歳月と巨費を投じて舟が通れるように開削したからだと云う。今は対岸の渡駅の近くに川下りを楽しむ人々を乗せた舟の中継発着場が営まれており、人吉から下ってきた「清流コース」の川下り舟の終点となっており、また「急流コース」の川下り舟の出発点でもあり、それにゴムボートで激流を下ろうとする「ラフティング」の若者たちも出発して行く地点であった。ここを出て球磨川下りの激流へ挑むことになる人々を先ず迎えてくれるのは、肥薩線の第2球磨川橋梁を支えている美しい切石積みの橋脚であろうか。
  私は右折して山すそをしばらく進むと第2球磨川橋梁が近づき、さらに川沿いの鳥たちの声を聞きながらのんびりと西へ歩いて行くと、やがて那良川が球磨川に合流する地点にある奈良口集落に入る。県道は、この奈良川に沿って山に分け入り林業の中心地の遠原(とおばる)へ向かっている。人通りのほとんどない道を更に200mほど歩き、那良口駅に到着、渡駅から約3kmであった。駅前は何もないセミしぐれの中にあった。今は山あいの静かな秘境駅となっている。しかし、1910年(明治41年)の鹿児島本線が開通した2年後に、周辺の山々から伐採した木材を積み出すための貨物駅として開設しており、必要以上に長く感じるホームは林業が盛んだった頃の賑わいを感じさせた。
八代-人吉を経由する国道219号は球磨川の対岸を走っているが、こちら側の駅前を走る県道15線との間には人だけが渡れる吊り橋が架かっており、私の写真の天空にその姿が見えているのがそれである。しかし今は水害で流れてしまったまま再建されて
いないようだ。駅前の道はこの先3km弱で一勝地へ至っており、右手の球磨川の流れは激流の渦巻く瀬の連続する難所に差し掛かっているようであった。
蛇足だが、昨今は肥薩線の大畑ループ線と僅か尾根伝いに15kmしか離れていないと云う山野線の大川ループ線の廃線後を探索する唯一のルートとして、この県道 人吉−水俣線が注目されている。この先のそ一勝地から山を越えれば水俣川の支流久木野川の上流に出てループ線の中を横断しているのであるというのだ。
 末尾ながら、第2球磨川橋梁のトラスの特徴を描写するくだりでは さいたま市浦和区在住の交通コンサルタントを営む志水茂さまのご示唆をいただいたことにお礼を申し上げます。

撮影:昭和43年
アップロード:2010−03

…………………………………………………………………………………………………
・肥薩線の「矢岳越え」シリーズのリンク
204. 「石造りの人吉蒸気機関車庫」・肥薩線/人吉機関区
205.  ループ線とスイッチバックの大畑駅   (肥薩線)
206. 大野大築堤を登る (肥薩線・大畑-矢岳)
207. 日本三大車窓 「矢岳 え」 (肥薩線・矢岳-真幸)
149. 不知火海ちょしらぬいかい)を望む 鹿児島本線 肥後二見-肥後田浦