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・肥薩線の「矢岳越え」シリーズ
207. 日本三大車窓「矢岳越え」 ・肥薩線/矢岳-真幸

〈0001:日本三大車窓“矢岳越え”〉
日本三大車窓 矢岳
《日本三大車窓風景:肥薩線亜 矢岳越え》
私の撮った写真は不出来なので、代わりを掲載しました。

〈0002:bP70441:真幸-矢岳の上り150レ〉
真幸駅発車 
〈撮影メモ:昭和43年8月17日撮影〉
中ほどの奥から右手前に、低い土手をやってくる。
機関車はD51 890号、貨物列車。黒煙を上に吹き上げて、右の土手の斜面の方へ流れている。左下からドレーン。左の下は草地。背後は近くのやま。真幸→矢岳の間か。

〈0003:bP70433:スイッチバック 真幸駅俯瞰〉


〈撮影メモ:昭和43年10月17日撮影〉
 通り抜けの出来ないスイッチバックの真幸駅(まさきえき)の情景。
真幸駅発車の上り150レです。
私は矢岳方へ向かう線路の築堤の縁からスイッチバックの駅構内を俯瞰しています。右側は山の斜面、これに沿って右奥から黒い灰伊野の煙を出した貨物列車(D51の牽引する 150レです。近くの山と遠くの山が見えていますし、先刻まで小雨が降っていたようです。
その築堤の下に島式コームがあって、コームと列車のやって来る線路との間に2本の線路がある。右から二本目の線路の奥に、手前を向いて休み車中の8620型の78690号の姿がポツンと
粒子されているのが見えた。その奥の方に工事用のDLと保線区員が数人みえる。また、島式ホームの線路には何もいない。その左に駅舎がみえる。
その背後に民家。コームには駅看板、それに
「幸福の鐘〉が吊り下げられているはずである。
後から判ったのだが、写っていた8620型機関車は昭和20年代からずっと人吉区に配置されていて肥薩線の人吉と八代 
の間,及び湯の前線などで使われていました。廃車は昭和43/1968年7月のよう 
です。解体待ちで留置されていたと思われます。

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〈紀行文〉
 貴拶線の最高地点 標高 536.9mである矢岳駅は、熊本/鹿児島との県境をなす国見山地の東端とエビの盆地をなす加久藤カルデラの外輪山とが重なる辺りにある矢岳山(標高 739m)直下にひろがる矢岳高原(宮垣県のえびの市から熊本県人吉市にまたがる)の一角に位置している。この辺の高原は尾根筋谷筋が複雑に交錯しているちけいであった。
既に大畑駅から列車は9,5kmも登ってきていたから、この辺りの支尾根の鞍部に平坦地を求めて列車の行き違いと機関車への給水のための駅が設けられたのである。その結果、主尾根を抜けるのにはは少し下ってから下り勾配の中を長さ約2kmのトンネルを設けることになった。そのためトンネルは片勾配となり人吉へ向かう蒸気機関車の仕業は過酷なものとなっってしまっているのである。
さて、矢岳駅を出た吉松行きの列車は直ぐに下り勾配となり、山奥には珍しい林道と生活道路を兼ねた踏切を渡り、熊本県から宮崎兼へはいるやいな25パーミルの下り勾配のママ長いとンネルに吸い込まれて行くのだが、有り難いことに下り坂なので乗客の人々は煤煙の先例を受けることもなく、トンネルを抜けると突然眼前に広がる日本三大車窓の雄大な景色の出迎えを受ける幸運に恵まれるはずであった。この絶景は鉄道唱歌(作詞・大和田建樹)の51番として歌われている。『肥後と日向の境なる 矢嶽トンネル出で来れば 
                   雲井に望む霧島の 嶺は神代のままにして』 
 長くて暗いトンネルを出て杉木立ちが開けて、左手に日本三大車窓として名高い「矢岳越え」の展望が繰り広げられた。先ず、眼前に広がるえびの盆地の北はカルデラ外輪山である矢岳高原、南はカルデラ南縁に形成された霧島連山に挟まれている。盆地内には川内川(せんだいがわ)が蛇行しながら西流し、えびの市街地が広がっている。その右手には韓国(からくに)岳を主峰とする霧島系の山々、その前庭のように“エビノ高原”が広がっている絶景が見られ、天気の良い日には右の方の山がくぼんだあたりに桜島や開聞岳が姿を見せることもある。それに、早朝の列車だと名物の雲海に出会うことができるだろう。また、この肥薩線と吉都線とを経由する八代〜人吉〜吉松〜京町温泉〜都城の各駅を訪れる事の出来る路線にの愛称として「えびの高原線」が付けられているのだが、それは ここから眺める「えびの高原」の秋の色が“えびね色”と呼ばれる赤一色に染まった風情にちなんでいるのであった。
 この3大車窓とは、その昔の国鉄が全国の車窓風景から選んで発表した“三大もの”で、これ以外の二カ所はつぎのものである。
一つは、信州の志賀高原の山並みをえんぼうしながら、眼下に善光寺平と千曲川の流れを一望できる篠ノ井線の姨捨(おばすて)駅のスウイッチバック線からの風景で、駅に入る普通列車だけが教授できる絶景となっている。
一方は、北海道の根室本線の旧線にあった狩勝峠からの十勝平野の遠望であったのだが、新線が開通して消滅した。しかし国道38号線沿いから同様の絶景が眺められると云う。
 ここで話題が変わるが、難工事だった第一矢岳トンネルの建設の歴史を振り返っておきたい。この人吉から吉松を結ぶ「矢岳越え」の建設計画が行なわれようとする明治30年代 当時の日本の鉄道トンネルの歴史は僅か25年程度であり、長大トンネルの掘削はまだまだ心許もとない部分があったと云うのが実情であった。メインの山脈を貫くためのトンネルの長さを出来るだけ短くするために、ここでは2箇所のスイッチバックとループ線、それに多くのトンネルや築堤を設けることにより高度を稼いで山頂のトンネルの長さの短縮をもくろんで設定したルート「矢岳越え」だった。その矢岳高原の下をを掘り進める第1矢岳トンネルハ全長約2kmまで縮めることができたのだが、その位置は線路が支尾根の鞍部を矢岳駅の最高地点で越えて少し下って宮崎県に入ってから、主尾根を抜ける所となった。そのため吉松方へは一方的に25パーミルの急勾配を維持して下る片勾配トンネルとなってしまっている。そして実際の施工では地質の脆弱さと出水に見舞われ、全く交通の便の乏しい山奥での難工事を強いられてしまった。ここで、この難工事を顧みみると共に、この工事が当時の土木技術の新たな挑戦であり、しかも国民的には青森から鹿児島への日本縦貫鉄道網の全通が コノトンネルの開通に掛かっていたことも世間の注目するところであったことを感じてみたい。その証拠のひとつに、トンネルの竣工に合わせて明治政府の二人の高官の筆になる書を刻んだ縦1mX横2mの石額が扁額として南と北のポータル坑口)道上部に飾られ、トンネルの全通の喜びを表しているのである。このような背景のお陰でこのルートを旅する人々は日本三大車窓を満喫できる恩恵をうけることになっていることからも感じられる。
このトンネルは明治39年 9月に着手した。このあたりは昔からの肥薩を結ぶ裏道的な山道が「えびの盆地」の山裾に湧く吉田温泉から外輪山の急斜面の崖をはい登って、矢岳山の直下の高原の標高 700mの鞍部を越えて、茶畑の広がる矢岳集落を通って大畑へ、そして人吉へ通じていた道筋に当たっていた。実際に、現在の林道は矢岳駅と第1矢岳トンネルとの間の踏切りを通過している。しかし、当時の道は狭く険しくて、人手による資材の運搬に頼るほかはなかったし、人里離れていたことから人手を確保する難しさなどの苦難の中からトンネル工事が始められた。今でこそ、この道筋の両端は県道として整備されているが、中間の矢岳駅付近は林道としてわずかに連絡を保っていると云う山奥である。
 そして、掘削が始まると土質は火山性であり、通水性のよい安山岩と軟弱な凝灰角礫岩からなっているとのことで、とくに軟弱な凝灰礫岩は圧力がかかった状態から掘削によって解放されるため、膨張することがあったり、含水量の多いことのため湧水が非常に激しかったことが苦労の種であった。この異常出水対策として排水ポンプを稼動させるための発電所まで設置したとある。また、建設材料運搬の馬が転倒して、助けるいとまもなく奔流で溺れ死んでしまった事故もあったと云う。1908年(明治41年)に導坑が貫通している。そして、本トンネルの形式は石積み+レンガ積みで、側壁は石積み、天井アーチ部はレンガ積みで仕上げられており、ポータル(坑口)は石墨(オランダ積み)であると云う。そして、矢岳越えでの数多くのトンネル工事に求められた煉瓦は地元に設けられた臨時煉瓦製造所の設備だけでは生産が間に合わなかった。そこで遠く近畿の「泉州堺」の煉瓦会社から取り寄せて使われていると云う。そして1909年(明治42年)11月21日に人吉 - 吉松間が開通した。この陰にはは多くの犠牲者を出す有様であった。この矢岳トンネルの完成は大きく、南と北のポータル(坑口)上部に埋められた石造りの扁額が最大の難所を克服した当時の喜びと期待の大きさを表しているといえるだろう。
その人吉側には、当時の鉄道員を所轄していた逓信大臣、山県伊三郎さんの書の門司である『天険若夷(てんけんじゃくい)』は「てんけんいのごとし」とよむのだが、その意味するところは「天下の難所を平地のようにした」となる。
一方の吉松側には当時の、鉄道院総裁、後藤新平さんの書の門司は『引重致遠(いんじゅうちえん)』は「おもきをひきいてとおきにちす」とよまれ、その意味は
「多くの人や荷物などの重いものを、どんどん遠くへ運搬することができる」である。この二つの扁額は今や日本三大車窓、大畑ループ線尾と共に肥薩線の観光のメインテーマとなっているのであった。
 さて、話を元に戻そう。やがて展望が尽きると、第2矢岳トンネルとなり、ここから下り坂になり次々とトンネルを4つほど抜けると、左手眼下に真幸(まさき)の駅が見え、大きくカーブしている引き揚げ線(加速線)に入って、スイッチバックをして築堤の上に設けられた駅に着いた。ホームには幸いの鐘がつるされていて人気の的のようであった。
 真幸からはカーブは少なく、開業当時の姿を保った煉瓦と石積みの立派なポータルを持つトンネルがいくつも現れる。それは山神第一〜第二、松尾、丸塚、永迫の5つのトンネルであって、吉松へとどんどんと標高を下げて行った。
ここで忘れてはならない事故の歴史がある。それは「肥薩線退行と乗客轢死事故」の記憶である。
太平洋戦争終結直後の1945年(昭和20年)8月に起こった。吉松駅〜真幸駅間の山神第二トンネル(617m)内において、D51牽引の上り人吉方面行き列車が勾配を登り切れず停車。先頭の本務機はトンネルから出たものの、排煙の充満するトンネルの中で客車や後補機が立往生する事態となった。そして排煙を逃れようと降りた乗客がトンネル内を歩いていたところ、同じように排煙から逃れようとブレーキを緩めて後退してきた列車に次々と轢かれ、53名が死亡したと云う。事故列車は特攻基地であった鹿屋航空隊所属の復員兵を大勢乗せるために、一般客車5両の後ろに無蓋貨車を8両連結していた。当時は日豊本線や鹿児島本線は爆撃などで橋梁が破壊され不況中であり、開通していた肥薩線回りが唯一の帰還ルートとして使われていたと云う事情があったのだと云う。現地には慰霊碑を建立して犠牲者をまつっている。

撮影:昭和43年
あっぷろーど:2010−0い

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・肥薩線の「矢岳越え」シリーズ
204. 「石造りの人吉蒸気機関車庫」・肥薩線/人吉機関区
205.  ループ線とスイッチバックの大畑駅   (肥薩線)
206. 大野大築堤を登る (肥薩線・大畑-矢岳)
208. トランケート型トラスの第2球磨川橋梁 (肥薩線・渡-奈良口)
149. 不知火海ちょしらぬいかい)を望む 鹿児島本線 肥後二見-肥後田浦