自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・肥薩線の「矢岳越え」シリーズ

204.  「石造りの人吉蒸気機関車庫」   肥薩線 人吉機関区


〈0001:bP70342:人吉機関区でのC5519〉〉
人吉機関区 石造りの機関車庫

〈0002:bP70421:人吉駅でのD51170〉
人吉機関区

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〈紀行文〉
 多くの鉄道フアンがご存じの『肥薩線の矢岳越え』と云えば、先ず列車がループ線の中でスイッチバックする大畑(おこば)駅、そして霧島連山と、眼下に広がるえびの盆地が一望できる日本三大車窓風景が思い浮かぶことであろう。
実は、私は ここに出てくる“矢岳の地名にこだわりを持つようになった。それは薩摩出身の歴史小説家 海音寺潮五郎さんの傑作でもある「二本の銀杏(ふたもとのぎんなん」」(新潮文庫)に登場する印象的な地名であったからである。この主人公の一人である上山源昌房(うえやまげんしょうぼう)は肥後と国境を接した赤塚郷の武士と山伏を兼ねる兵道家であって、藩主の
島津成彬(なりあきら)公を呪殺するための護摩修行を肥薩国境の東端にある冬の矢岳山頂で修行を果たしそして山から加久藤峠を下って行くシーンが妙に記憶の底に沈んでいたからであろう。
やがて、昭和43年の初秋の頃、宮崎公害の砂土原町にある子会社の本田ロック社への技術指導を終わってから、週末に吉松へ、そして「矢岳越え」を歩き回った時の記録を4つのフアイルのシリーズにしてみた。
 最初に掲げたのは今も現役の人吉機関区の石造り機関車庫の内から石造アーチ型の出入り口を通しての機関区内風景の一こまである。古めかしい給水塔の脇にたたずんでいるのはC5519ごう機であった。
 この旅の初日は載り鉄三昧をした後、夜のとばりが降りてから人吉駅に到着した。迷わずに球磨川沿イにある炭酸水素塩性の共同浴場を探して手足を伸ばした。そこにあった観光パンフレットによって地元の地理が判ったのだった。
『未だ、阿蘇火山群が海底から噴火する以前の大昔、九州が南北二つの島であった頃、南の島の脊梁をなす九州山地が東北から西南に連なっており、その南部の雄 市房山などの山々から西へ流れ下る深い谷があり、それが球磨川の谷であった。その流れが太鼓の昔、中流で南側に連なる肥薩火山の噴火によりせき止められて東西約40km、南北約10kmと云う大きな湖(人吉湖)ができた。それが最も低い一勝地の辺りで決壊し、湖に溜まった水が溢れ出し球磨川の急流が誕生し、排水した跡が人吉盆地となったと云う。それ故に、北部は八代・球磨山地に、そして東は九州山地、南と西は国見山地で宮崎・鹿児島県に接すると云う地形であった。その多くの支流を合わせた球磨川の清流が東から西へ流れ下る盆地の西端にできた人吉の町の歴史は鎌倉時代にさかのぼり、幕府の御家人の相良長頼が源頼朝の命で平家の残党を討ってこの地に入ってからと言われている。そして江戸時代までの約700年にわたって盆地を治めてきた人吉藩 相良氏の城下町として栄えて来ている。その歴史が今も息づく「九州の小京都」と呼ばれ、また川沿いの温泉街には多く数えられる共同浴場には豊富な湯が湧き出している古い街並みもある。また球磨川を天然の外堀とした人吉城は繊月城とも呼ばれ、美しい白壁を川面に映えしている。』
 カメラマンの私として気になるのは、何と云っても霧発生日数日本一を争う土地柄だそうで、発生した霧も地形的にほとんど流れ出さないため、正午近くまで残ることも珍しくないとのことにはいささか驚かされた。それから、夜明けを待っために駅の待合ロビーに向かった。
早朝の盆地には得意の朝霧が流れていた。そして陽光が昇って来るまで駅の構内でウロウロして時を過ごした。
この頃は人吉駅が最も忙しかった時代だったのであろうか、D51、C55、C57、8620などが賑やかに出入りして、側線が休まる暇は片時もなかったようで、さほど広くはない機関区にあふれるばかりのSLたちの数であり、楽しい時間を過ごしたのだった。
 所で、九州初の鉄道は地元の資本を集めて創立された私鉄の九州鉄道がドイツから鉄道技術を導入して博多-千歳川仮停車場(久留米の手前の筑後川北岸)間を1989年(明治22年)11月に開業させたことに始まる。
このような機運の中の明治20年8月に、鹿児島県の有志は熊本県の有志と相談して、八代−鹿児島間の鉄道建設を企て始めると、翌年の明治21年春には宮崎県知事も県民を代表して鉄道建設の話に加わるようになった。その動きの一つは、熊本の地元では八代から海岸沿いを南下する鉄道を、また鹿児島からは川内(せんだい)へ向かって北上しようとする鉄道を推進するグループがあり、一方には宮崎の人々も加わって鹿児島から錦江湾の海岸沿いに隼人に至り、北上して川内川の流域栗野に出て吉松から国見山脈を越え球磨川の流域人吉へ出て、八代に至る線路を主張するグループも動き始め、特に吉松から宮崎への支線の延長も視野に入れていた。それに加えて人吉から八代へ出る鉄道を求める地もとの活動も活発であった。
そして、明治25年(1892年)になると、国が建設すべき鉄道路線を定める鉄道敷設法が公布され、九州では、「熊本県下の宇土より分岐し、八代をへて鹿児島県下鹿児島に至る鉄道が規定されたが、それは予定線ではあったが第一期工事路線には選ばれていなかった。その翌年の明治26年の全国鉄道線路調査では、熊本から鹿児島へのルートについては、宇土−八代間が九州鉄道の免許区間となったので、調査は八代−鹿児島間の三つのルートを踏査し報告ている。
@は八代・人吉・吉松・隼人・加治木経由の線路で、八代−人吉間は日本三急流の一つといわれた球磨川に沿って上り、1/30勾配(33.3パーミル)で国見山脈を越え、川内川流域の吉松に出て、栗野まで下り、川内川を離れて“金山川”の流れに沿って下り、河口付近の隼人から西へ向って海岸沿いに加治木・鹿児島に至るものであった。
 Aは海岸に沿い、八代から水俣・阿久根・川内に至り、串木野・伊集院経由鹿児島に至るものであった。これはだいたい旧来の薩摩街道に沿うものであったが、海岸に山が追って、八代−水俣間には三太郎越えという、赤松太郎峠・佐敷太郎峠・津奈木太郎峠があり、決して楽なコースではなく、最急勾配1/40(25パーミル)であった。
 Bは佐敷から南へ進み、国見山脈を越えて現在の山野線・宮之城線のルートを採り、鹿児島の北西16kmの原地を経由して鹿児島に至るものであった。このルートは最急勾配1/40(25パーミル)で、距離は最も短かった。
 その間に九州鉄道は続けて南進し、熊本を経て八代を目指して延伸を進めていた。
このような中で、国は八代-鹿児島のルートをBルートの矢岳越えに選定した。その理由には、B @Bともに山地を縦断するが、Bは宮崎方面との連絡に不便であり、収益見込も最低であったし、Aは海岸沿いを嫌う軍部の意向を踏まえて避けられ、敢えて急勾配の控えている@が優先的に建設されることに決まった。当時の明治政府の仲には多くの薩摩・長州出身の高官がおったから、昔の下関が外国艦隊に砲撃された馬関戦争や鹿児島市街がイギリス艦隊に焼かれた薩英戦争のにがい憶が影響したのであろうか、海岸経由線は戦時に敵の攻撃に弱いと云う軍部の主張がを受け入れられたのであろう。
そして、明治27年5月の第6回帝国議会で、宇土−八代−鹿児島間は軍事上の必要性から第一期線に編入された。そして宇土−八代間は九州鉄道、八代−鹿児島間は官設と決まった。
明治30年9月から実測にかかったが、着工は明治32年8月鹿児島、明治34年1月八代からはじまった。
 その後紆余曲折があって、明治39年4月から九州鉄道は八代から球磨川に沿って人吉への延伸工事をはじめたが、その途中の1907年(明治40年)に九州鉄道が国有化される中で工事は進み、1908年(明治41年)6月1日に帝国鉄道庁の人吉駅が開業し、いずれ門司〜人吉が人吉本線となった。
 それにあわせて、駅の八代方に人吉機関庫(後の人吉機関区)が設けられた。その直ぐ1年後の1909年(明治42年)11月21日に難工事だった人吉-吉松間の「矢岳越え」が完成して、門司〜鹿児島間の鹿児島本線が全通したのであった。
そして、間もない1911年(明治44年)に三線式の機関車庫が昔からの石橋造りの伝統を受け継ぐ肥後石工の技を駆使して球磨川右岸で産する加久藤溶結凝灰岩の切り石をセメントで目地をつないで堅固な石造り機関車庫として生まれた。明治の末頃ともなれば、石橋でさえコンクリート橋に取って代わろうとしていた時代に、あえて石図栗で機関庫が築かれたのである。この建物は
球磨地方における最初で最大の石造り建物であって、続いてこの地域だけで百数十棟の石倉などが作られたと云う。
ここで、建物の特徴を次に挙げてみると、
石造平屋建て(縦:約51m×横:約16m)の大型石造建造物。
両側の妻壁には機関車の出入り口として、径間4mの3連アーチがシンボル的存在。
柱形(はしらがた)と連続する窓が建物に威厳を与えている。
使われた火山性の石「凝灰岩」が建物を頑丈にし、重厚感を与えている。
頑強な石造りの壁に軽い屋根をのせた西洋建築の手法である。
 SLの煙抜きの「こし屋根」が頂部に見える。
・建物の輪郭や窓の上下に「蛇腹」と呼ばれる段飾りがある。
この庫内には3線が引き込まれており、検修整備が行われるピットが設けられている。
 また歴史的遺産としての次の登録がある。
土木学会:Bランク近代土木遺産
石造の機関庫として現存し2009年現在も使用されているのは国内唯一となっており、経済産業省より「人吉機関区車庫」として近代化産業遺産の一つに認定されている。
また、国土交通省九州運輸局より「JR九州人吉機関車庫」として九州遺産(近現代遺産)に認定されている。
石造車庫の隣には、点検用の引込み線があり、また明治44年の頃に設置された転写題も現役であった。
 そして、矢岳越え区間専用機関車として初めて配属されたのは3100形蒸気機関車であり、これはアメリカのアメリカン・ロコモティブ社(アルコ)から九州鉄道が輸入した車軸配置2-6-2 (1C1) の単式2気筒、飽和式のタンク機関車であった。やがて強力なEタンク機の4110型が国産で登場すると、この1914年製12輛、1917年製3輛の15輛が投入されて活躍した。昭和20年(1945年)になるとD51形重連への置き換えが行われた。そして新鋭のE10型が登場したが適合しなかったのか、再びD51に戻ってしまっている。その他に、人吉機関区に配置された蒸気機関車の形式としては、5700形・6760形・8620形・C51形・C55形・C57形・などである。
  最後に、2007年に経済産業省は地方の活性化を図るために、近代代化産業遺産群を公表した。物資輸送関連遺産として肥薩線の「矢岳越え(人吉-吉松)」では次が登録されている。
・大畑(おこば)駅(開業当時の木造駅舎に復元)。
・大畑駅舎のすぐ横にある石造りの給水塔跡遺構。
・大畑駅ホームにある朝顔型噴水洗顔場(朝顔鉢、朝顔水)。
・矢岳駅(駅舎は開業当時のまま)。
・人吉SL展示館のD51170号蒸気機関車。
・矢岳第一トンネルの二つの扁額。
・真幸駅(開業当時の木造駅舎) 。
・人吉機関車庫。
・人吉駅一番ホームの古レール。
・吉松駅横の石倉(燃料庫)。
・吉松駅前の保存蒸気機関車 C5552号。
さつえい:昭和43年
アップロード:2010−02

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・肥薩線の「矢岳越え」シリーズのリンク
205.  ループ線とスイッチバックの大畑駅   (肥薩線)
206. 大野大築堤を登る (肥薩線・大畑-矢岳)
207. 日本三大車窓 「矢岳 え」 (肥薩線・矢岳-真幸)
208. トランケート型トラスの第2球磨川橋梁 (肥薩線・渡-奈良口)
149. 不知火海ちょしらぬいかい)を望む 鹿児島本線 肥後二見-肥後田浦