自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・肥薩線の「矢岳越え」シリーズ

205.  ループ線とスイッチバックの大畑駅   ・肥薩線/


〈0001:bP70431:霧の大畑駅、872レ発車〉
霧の大

〈0002:bP70432:871レ、霧の大畑駅発車〉
霧の大畑駅発車 2



〈0003:bP70241:大畑のループ線を通過中〉


〈撮影メモ:昭和43年8月16日撮影〉
4585混合列車がループを抜けて大野Sカーへ近ずいて来るのを高い所から撮っている。背後は遠い山々がかすかに写っている、築堤には雑木が茂っていた。

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〈紀行文
 博多から八代まで開業していた鉄道の鹿児島への南伸する建設ルートが山岳越えを優先することに決定された。そのルートは八代から球磨川沿いをさかのぼって人吉盆地の西端に位置する人吉へ、ここから国見山地を矢岳山(標高 739m)直下の分水嶺を越えて、えびの盆地側の急な崖を次第に下って、えびの盆地の西端に位置する吉松に至り、さらに霧島連山と国見山地とのくぼみを南下して錦江湾に沿って鹿児島に至る経路であった。この山越えのルートは、昔から相良(さがら)・日向、(ひゅうが)・薩摩(さつま)の各藩の国境の重なる山岳地帯をを越えて人吉から加久藤(かくとう)へ出て、その先は都城や鹿児島へ通じている重要な街道筋であった。その街道は通称 加久藤峠(地形図では堀切峠とあり、標高 720m)と呼ばれる峠道であり、明治になって馬車道に改良されて使われて来た。また、その少し西に裏道とも云うような山道が矢岳山の山頂に近い高原を(標高 約700m)を越えて通じていた。それらが今日ではそれぞれ、前者は国道221号として峠直下に全長 1,809mのトンネルと二つのループ橋を設け近代化されており、後者は狭いながらも車道として宮崎県道408号(矢岳高原線)+矢岳林道+熊本県道189号(大畑(おこば)停車場線)となって、エビの盆地側では矢岳高原のパラグライダー基地・オートキャンプ場・展望台などへの通路、人吉側では人吉から矢岳駅・大畑駅への生活道路、大畑梅園・大野渓谷への観光の路として活用されている。加えて近年、それらの道筋の間を人吉市から鹿児島市と宮崎市へ通じる九州自動車道路が全長 6,260mの加久藤とんねるを開通させている。このように、この熊本・鹿児島・宮崎の三県境が接する山岳地帯は昔も今も南九州の交通の要としての役割を果たし続けているのである。
そこで、これから鹿児島への鉄道建設が行われる山越えルートである 通称 “矢岳越え(やたけこえ)”、この呼び名は今までもっぱら鉄道趣味の人々の間で用いられてきたが、今や一般化されつつあるのは頼もしい限りである。この“矢岳越え”の風情をより深く親しんで頂くために、この複雑な地形を見せれいる山岳地帯の成り立ちの歴史に触れておきたい。この地域はダイナミックな地球の地殻活動の歴史を教える教科書的な姿がうかがえるようであった。太鼓の昔、まだ霧島火山群が海底から大噴火を起こして隆起する以前の時代は、九州は南北二つの島であった。その南の島の脊梁をなす九州山地が東北から南西に連なり、その南の主砲 市房山(標高 1721m)などの山々から西へ深い谷を造って流れ下る急流があり、これが東シナ海に注いでいる球磨川であった。その川の南岸に東西に連なる国見山地において、肥薩火山群が噴火し球磨川の流れをせき止めて人吉湖が生まれたと云う。やがて、この湖が消滅した跡が人吉盆地となったと云うのであった。一方、国見山地の東、九州山地の中南部では霧島火山群の噴火が起こる以前の役33万年前に標高3千メートルを越えるであろうと推定されている加久藤火山が大噴火を起こした。この時に発生した膨大な量の加久藤火砕流や火山灰が広大な周辺の地域に溶結凝灰岩や火山灰の地層を形成させた。そして中心部は大陥没して生まれたカルデラに水が溜まり、さらに霧島山西端に位置する栗野岳の活動による溶岩流によって水の出口を塞がれたことによって古加久藤湖と云うが堰き止め湖ができた。この湖の南部では約5万年前からの霧島連峰の火山活動によって埋められ、最終的には川内川(せんだいがわ)による湖口部の侵食が進んで排水されて東西約15km、南北5kmの「えびの盆地(加久藤盆地)」が生まれたと云うのである。この加久藤火山の外輪山の西側部分は国見山地の東端と重なっており、そこには矢岳山(標高 739m)があり、北部の傾斜はなだらかな高原状だが、南部のえびの盆地側は急崖をなしていると云う特徴のある地形である。
 さて、鉄道の建設に話題を戻そう。八代から鹿児島への鉄道建設が山岳ルートに決まると、これに最も早く呼応したのが、九州で最初の官設鉄道である鹿児島線を鹿児島から建設し始めた鉄道作業局であった。そして早くも1901年(明治34年)には鹿児島駅から国分駅(現在の隼人駅)まで開業した。続いて吉松駅は1903年(明治36年に達している。この先の吉松〜人吉間の標高差 430mの峠越えを挟んだ約35kmの工事の難しさを予見したのであろうか、その工事着工は吉松駅開業と同じ年に早くも始められている。このルート設計には、当時のトンネル掘削の経験が浅かったこともあって、できるだけトンネル全長を短縮することが求められ、可能な限り主尾根に接近する努力が払われたと云う。そして、最長2kmの第一矢岳トンネルを含めた21カ所のトンネル、一つのすいっちばっく駅き、ループ線とすいっちばっく駅の組み合わせ一カ所、切り通しにより山を削り、築堤で谷を埋める工事で、何とか蒸気機関車が列車を牽引できる限界に近い急カーブと25から30.3パーミル(1/30に相当)の勾配に抑えることが出来たのだった。
  さて一方の八代では、やっと1905年(明治39年)になってから九州鉄道が人吉へ向かって延伸工事を始めた。途中で九州鉄道が国有化される事態が起きたが、帝国鉄道庁のてで工事が続けられ、1908年(明治41年)に人吉駅が開業に漕ぎつけた。そして門司−人吉間は人吉本線となった。その翌年の1909年(明治42年)11月に人吉〜吉松間が完成し、従来の人吉本線と鹿児島線を編入して門司-鹿児島間の鹿児島本線が全通した。これにより青森から鹿児島まで、関門鉄道連絡線を経由して日本縦断が貫通した。そして鉄道唱歌(作詞・大和田建樹)にも鹿児島本線の「矢岳越え」が50番として次のように唱われた。
『ここは相良氏旧城地 俄に是より馳せ登ぼる
汽車の勾配大畑に ゆるめて作るループ式』
 ここでは人吉駅からループ線までを点描してみよう。人吉駅を出て市街を抜けると湯前線(現在のくま鉄道線)を分岐して右に大きくカーブシ南へ向かい、古典的なとらすの第三球磨川橋梁を渡ると、右手に川上哲治球場を見て、いよいよ東西に横たわる国見山地の横断に取りかかる。やがて森の中に入り、水無、立石などの四つのトンネルと急カーブの25パーミルの勾配で谷間を縫うように約10kmを登り詰める。やがてループ線の始点に当たる横平トンネル(全長 503m)で国見山地からの小尾根を抜けると直ぐに通り抜けのできないスイッチバック駅の 大畑(おこば)駅の構内に進入する。このホームで蒸気機関車は給水を受け、一休みとなる。
この大畑駅の標高が294mで、矢岳越えの出発点である人吉駅の標高が107mであるから、10.4kmで約180mを登って来たことになる。たったの“ひと駅”登ってきて、水が次の矢岳駅まで持たないと云うのだから恐ろしい。このあいだに、D51で1トンの石炭、1分間に250リットルも給水を続けなければならなかったそうで、乗務員さんたちの苦労は並大抵のものではなかっただろう。
 ここは難読駅と、ループ線の内にあるスイッバック駅、そして秘境駅と云う一駅三役の有名駅の一つであった。
先ず地名考だが、「こば」とは焼き畑を意味する語で、「おこば」は「大きな焼き畑」と云うことになる。焼き畑農法は林や草地を伐採し、焼き払った後に耕して農地として活用し、土味がやせたら放棄して、別の場所へ移る方式であって、昭和の中頃まで九州では多く見られており、「こば」(木場)の語は多く用いられているようだ。また、
「畑」の門司も焼き畑を意味する“火”偏が付いている。次の「ループ線の内のスウイッチバック駅」についてのことだが、一般的にはループ線に入る手前に信号場か駅を設けて、蒸気機関車への給水や石炭整理の作業や乗務員の休憩、それに列車の交換などを行うのが常であった。しかし「矢岳越え」では横平トンネルの手前には平坦なスペースを得ることが出来ずに、尾根を抜けてから12,000坪の大規模な土木工事をを行ってスイッチバックの付いた駅の敷地を確保したと云うのである。ところで、全部で6カ所にしかないループ線のうち、その二カ所が肥薩国境にある肥薩線と山野線のもので、ここから国見山地の尾根伝いに僅か約15kmほど西に行った所に山野線の大川ループ線があると云う事実には驚かされた。
 最後の大畑駅の秘境ぶりであるが、もともと運転上の必要性から設けられた信号場であるから、駅の近辺には人家は全くない。しかし、この鹿児島本線が開通してから、この産地では林業が盛んとなり、林道なども多く開通して鉄道による木材の搬出も矢岳駅で行われたこともあったようで、駅の近くを林道が通過しており、今では大畑停車場線と云う県道になって人吉へ通じているが、それでも人家に出会うには徒歩で30分くらいは歩かねばならない秘境駅であることには違いない。
ここはスイッチバック駅だから、駅は片方が行き止まりで、通過することができない。ホームは島式1面2線で、ホームから直接線路をまたいで駅舎に行くようになっていた。
 そして、ホームの人吉方には球磨川右岸で産出する熔結凝灰岩の切り石で組まれた窓もオシャレな造りの高い石造りの給水塔の土台とその上に載せた鉄製の水槽が見えた。近くの沢の水をポンプで汲み上げて貯水しておいて、ホームサイドの注水栓から機関車へ給水していた。また吉松方には石造りの洗顔場があり、朝顔型の水盤から噴水があふれ出ており、駅に到着した乗務員をリフレッシシュするのに役だって胃いたのであろう、今や大畑駅のシンボルとなっている。それから、踏切を渡って開業時の姿を残す駅舎に入れば、時代を感じさせる時刻表が迎えてくれた。
また、線路の向こう側の丘に高い石碑のようなものがが見えたので、細い道をたどると、植垣に囲まれた一角に「鉄道工事中殉難病没者追悼記念碑」と読める碑がひっそりと立っていた。この苔むした高さ 3mもあろう碑には、2年余りの難工事の陰で13人もの尊い命が失われたことが記されていた。その中の人名からは、遠く朝鮮から日本の鉄道建設にはせ参じて、貢献されておられたことが見て取れたのだった。やがて、裏手を吉松行きの下り混合列車が大回りして出発して行った。(現在、ここは人吉市のループ鉄道公園として整備され機関車動輪などが飾られているようだ。
  さて、 大畑駅をバックで発車した列車は、引き揚げ線(加速線)の先端まで行ってから、ループ線へとダッシュを駆けて行った。
私の訪れたのは一番列車で人吉から来たので、まだ朝霧が立ちこめていたのだった。そこで駅の出発風景を試みた。この先は直径600m(距離は約2km)のループに入るが、この途中には大谷トンネルと云う短いトンネルもあり、連続する25パーミルで約53mの標高差を稼いで、横平トンネルの上を越えて、さらに過酷な大野大築堤を目指しての奮闘が続いている。
大畑駅から山を登って横平トンネルの上の尾根筋からは大畑駅のスイッチバック線が俯瞰(ふかん)できるし、なだらかな高原風のツープ線の内側を横断して踏切の手前で丘へ登れば北に九州山地の市房山に連なる山々や、球磨川の上流部から人吉盆地が見渡せるパノラマが楽しめる。ここでは、山の陰から姿を現した下り混合列車を一枚載せて見た。
是非続きをごらん下さい。
だそくだが、肥薩線の最高地点が次の矢岳駅で、ここの標高が537mであるから、人吉から430mの標高差ば20kmの道のりで駆け上ることになる。こては平均勾配が21.6‰となるからもの凄い山越えである。

★撮影:昭和43年
アップロード:2010−02

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・肥薩線の「矢岳越え」シリーズ
204. 「石造りの人吉蒸気機関車庫」・肥薩線/人吉機関区
206. 大野大築堤を登る (肥薩線・大畑-矢岳)
207. 日本三大車窓 「矢岳 え」 (肥薩線・矢岳-真幸)
208. トランケート型トラスの第2球磨川橋梁 (肥薩線・渡-奈良口)
149. 不知火海ちょしらぬいかい)を望む 鹿児島本線 肥後二見-肥後田浦