自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・肥薩線の「矢岳超え」/番外編
149.
不知火海を望む
・
鹿児島本線
/
肥後二見-肥後田浦
〈0001:〉
〈0002:〉
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〈紀行文〉
肥薩線探訪のフイナーレわ、建設当時には肥薩線であった鹿児島本線の八代から少し南に下った肥後二見〜肥後田浦の間の有名な撮影ポイントを目指していた。球磨川沿イの肥薩線川線の中頃にある一勝地駅辺で下り列車を狙ってから、八代駅へ出て、で鹿児島本線の下り不通列車に乗り換えた。やがて球磨川橋梁を渡って、稲田の広がる平野が尽きると県境の国見山地の山麓が近づいているらしく崖が迫ってきたが、国道3号線を挟んで海からは相当に離れているようだった。この辺りはみかんの生産地のようだった。間もなく、日奈久トンネルを抜けると直ぐに温泉のある日奈久駅に着いた。ここは600余年の歴史を伝える海浜に湧きだした温泉地であり、しかも薩摩街道の宿場でもあり、不知火海(しらぬいかい)の内科医路の港町でもあった。駅のホームには、昭和の初め頃に、ここの温泉宿に滞在した放浪の俳人 山頭火が この温泉地の風物を絶賛したことがゆうめいであるこからであろうか、「いつも一人で赤とんぼ」、「この旅果ても旅のつくつくぼうし」の二句が掲げられていたのに気がついた。やがて交換を済ました列車は肥後二見へ発車した。この辺りは不知火海こと八代海とは少々離れていて海側には稲田が広がっていて、肥後二見駅のホーム上からは海は見えなかった。さっそく、降りて線路の山側に並行する幅1.4m足らずの細道を家の軒先をかすめるように約1kmほど南へ歩くのだが、その時は線路と海はかけ離れており、ただ道を歩くだけであった。やっと、みかんの段々畑にさしかかって山側から海側への踏切を渡ると不知火海が目前に迫ってきた。
このあたりから しばらくの間、海沿いを走るため車窓からは非常にきれいな不知火海の絶景を満喫できるのである。一方の鉄路は、海にせり出した山すそに沿うように単線が海岸線を忠実にトレースしながら右へ左へとSカーブを描いて走りつづけている。
そして、線路から海へ突きだした岩場の上に祭られた祠(ほこら)の脇で三脚を広げた。潮の香りのする昼下がりの海は静けさの中に寄せる波の音が聞こえてきていた。対岸には尼草諸島の直島がシルエットニなって浮かんでいる。ここから深く湾入した田浦町方面を、6X7判のコニカプレスの180mm望遠レンズを使ってで上りSL列車を狙った。残念ながら、この昭和43年頃はまだ私はモノクロ一辺倒(いっぺんとう)の時代であった。
今日は年に幾度もないほどの「真っ晴れ(まっぱれ)」で、夕方が近づいてきたらしく海面が輝き始めた。そこで南へ移動を開始、海側から山側へと踏切を渡って、今度は線路が海側になり、また踏切を渡って道路が海側と云うように歩き続けて、やがて少し開けた山側に「みかん林」が営まれた斜面に登ってみると、ミカンの香りがして南国情緒が漂っていた。そして不知火海をギラギラと輝かせる夕陽をバックに駆け抜ける上り列車を撮り終わった。もう少し遅くなれば、夕日を中心に、西の空は燃えるような茜(あかね)に染まってきて、不知火海を輝かせるのだろうと気を回しつつ、腰を上げて板付空港へとキロについた。
ところで、何のこだわりもなく“不知火海(しらぬいかい)”と書いてきたが、この内海は九州本土と天草諸島に囲まれており、北は有明海(ありあけかい)、南は東シナ海につながっている。そして、ほの名前の「不知火(しらぬい)」だが、これは旧暦の7月松日の風の弱い新月の深夜などに海上に現れる怪火のことである。それは海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる者が出現する。それが左右に分かれて数を増やしていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶ。その距離は4から8kmにも及ぶという。引潮が最大となる午前3時から前後2時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされているようだ。また、水面近くからは見えず、海面から10メートルほどの高さの場所から確認できるといわれる。この火不知火が蜃気楼の一種であることが既に解明されている。
さて、話題を鉄道に戻すことにしよう。最初の九州西回りの鹿児島への鉄道の建設は、明治42(1909)年に最大の難工事であった人吉-吉松間の山越えルートが完成し、門司-八代−人吉−鹿児島間が全通したことだった。しかし、人吉-吉松間はスイッチバックやループのある急勾配と多くのトンネルのある難所で、早くからより楽な海沿いのルートの建設が求められていた。それに応えて、八代から南へは肥薩線の建設が始まり、大正14(1925)年には日奈久-肥後二見-肥後田浦へと開通した。一方鹿児島からは大正15(1926)年にやっと水俣まで、そして全通は昭和2(1927)年になってからで、八代-水俣−出水(いずみ)−川内(せんだい)-鹿児島間を鹿児島本線に編入した。これほど年月が掛かったのは横断する肥薩国境がいかに険しい地形で難工事であったかを物語っている。
ひるがえって、鉄道以前の日奈久宿から南へ通じる薩摩街道についても触れてみよう。
あの温泉のある日奈久宿を通過するのは、熊本の札の辻を起点とする薩摩街道である。それは、13番目の八代宿、そして4番目の日奈久宿に至り、三太郎超えの難路を越えて、15番目の佐敷宿(さじき)へと南下している。この日奈久宿は温泉地であるだけでなく、港町として海路の中心でもあって鹿児島との海路往来の北端港でもあったから街道の交通の要所であった。当時、鹿児島城下から江戸までは全行程20日余であった。日奈久宿は旅だちから初めて過ごす異国で夢を結ぶ第一夜であった。そして、帰途は、「明日は、わが国へ‥‥」と胸をときめかすフィナーレでもあった。
さて、日奈久から二見、田浦、佐敷を経て水俣に至る間は熊本/鹿児島両県境をほぼ東西に走る国見山地(肥薩山地)で国見山(969m)などの山々が並んでいて、それらの山塊が不知火海に迫っていて、リアス式海岸を形作っている。この山を南に超える難所が薩摩街道の「三太郎超え」である。それは三つの峠の総称で、北から赤松太郎峠(二見−田浦間),佐敷太郎峠(標高 324m、田浦−佐敷間),津奈木太郎峠(津奈木〜湯浦間)であり、薩摩街道の難所なのである。その辺りの地形図を見ると、国道3号線、旧国道線、その上二昔の街道を示す破線路の旧道、それに鹿児島本線の鉄路がそれぞれ思い思いのルートを工夫して抜けている様子が見えて興味深い。
さて、二見から二見川に沿って海岸から離れた峠越えの道に入ってゆくと、江戸時代の嘉永年間頃に築かれた石橋の「めがね橋」が多く残っているのには驚かされる。
これから登る二見と田浦をつなぐ赤松太郎峠は標高 153mの山肌のなだらかな、トンネルもなく、緩やかな勾配を九十九折(つづらおり)で 上がって行く山越えである。いかにも峠越えと言った感じであり、峠からの景観は素晴らしいの一語に尽きると云う。
一方、鹿児島本線の前身である肥薩線は北から赤松太郎峠をうまく避けて、海岸を通っており、それほどでもない田浦トンネルを抜けている。この先の最大の難所である佐敷太郎峠をトンネルで越えるためには、トンネルを短くする必要があり、そのため、トンネルの入口は精一杯坂を登った上にあり、海浦駅も高い場所に設けられた。
この赤松太郎峠への100mほどの急斜面の登りを行くと、山の谷間に線路が走っていて、その先に広がる不知火の海。絵になる風景も見られよう。
このあたりは、ザボン、キンカン、温州(うんしゅう)みかん、デコポン、甘夏、文旦(ぶんたん)、晩白柚(ばんぺいゆ)などの柑橘類の果樹園が広がっているオレンジ帯であった。それ故に八代から鹿児島県の川内(せんだい)までの116.9kmの区間が平成16年3月13日に新しく「肥薩おれんじ鉄道」と命名されてに生まれ変わったのもうなずけよう。
撮影:昭和43年9月
ロードアップ:2010年2月
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・肥薩線の「矢岳超え」シリーズ
204. 「石造りの人吉蒸気機関車庫」・肥薩線/人吉機関区
205.
ループ線とスイッチバックの大畑駅
(肥薩線)
206. 大野大築堤を登る (肥薩線・大畑-矢岳)
207. 日本三大車窓 「矢岳超え」 (肥薩線・矢岳-真幸)
208. トランケート型トラスの第2球磨川橋梁 (肥薩線・渡-奈良口)