自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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にある送付先へドウゾ。)
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・肥薩線の「矢岳超え」シリーズ
206.
大野大築堤を登る
・肥薩線/大畑-矢岳−真幸
・次の4枚は「大野のSカーブ」での四連写:昭和43年8月16〜17日撮影・
〈0001:bP70311:後補機付き混合レ遠望〉
〈0002:bP70312:混合列車の接近〉
〈撮影メモ〉
大畑のルーブ線を過ぎて“千人築堤”と呼ばれた大土木工事で完成した大野築堤に向かって力走する上りの混合列車の勇姿です。
〈0003:bP70313:眼前を通過する混合列車〉
〈0004:bP70243:奮闘する後補機〉
・大野の千人築堤を過ぎて・
〈0005:bP41122:際急勾配標識を見て〉
〈0006:bP41111:平均勾配を登る混合列車から〉
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〈紀行文
一般に肥薩線といえば大畑のループ線が余りにも有名だが、今回は、その先にある大野のSカーブや大築堤がループ線に優れても決して劣らぬ雄大な景観を見せてくれるとの情報を頼りに残暑の炎天下の高原を歩き続けた時の記録である。
大畑駅で一休みした列車は、さらに険しい9.5kmの勾配を標高差 242mを登ってサミットの標高 537mの矢岳駅へと達している。この間には約2kmのループ線で53m登っているから、これから先の約7.5kmで標高差 189Mを登り切るために勾配は25から〜30.3パーミル(これは1/33の勾配に相当)へと変化し、第1大野トンネル(322m)、第二大野トンネル(310m)、第三大野トンネル(90m)、第四大野トンネル(90m)の4つのトンネル、それに連続するSカーブと大築堤などの隘路(あいろ)がひたすら連続することになっている。この高ささ31mに達する大野築堤は、確か「千人築堤」と呼ばれていた難工事のひとつであって、この築堤が渡る深い谷は大川間川の源流であろうと思われた。この川は矢岳高原から大畑地区に向かって下る流れで、その途中ではに長い年月をかけて地形を刻んで来た「大野渓谷」が形つくられており、更に下って大畑南で鳩胸川に合流し、さらに5km先で球磨川の流れに注いでいた。実は、大畑駅の名所案内看板には、大畑ループ線に並んで「大野渓谷」(南西に2.5km、徒歩約50分)と案内されていたのだった。ここには「鍵掛の滝」を初めとする3つの滝が渓谷美を誇っているとのことだった。
ここでは大畑ループ線から残暑の草いきれの高原の中を数kmほど歩いた大野築堤の辺りで撮ったと思われる午後のハイライトである 4589レ混合列車をお目にかけたい。
線路脇の高見に三脚を据えて待ち構えていると、二条の煙がループ線の辺りから徐々に近づ2てきて、Sカーブを経て大築堤に姿を見せてくれるはずである。やがて、座布団(ざぶとん)のような大型集煙装置と重油タンクをボイラー上に載せたいかめしい人吉区のD51の後補機付きの混合列車が奮闘しながら近づいてきた。手持ちのプレスカメラで連続ショットの緊張感はは足の疲れを忘れさせたほどの感激があった。しかし現像してみると、肝心の再接近のショットは欲張りすぎて本務機の全部がフレームから飛び出してしまうと云う失態であった。奇しくも本務機のD51170号機はその後に矢岳駅構内に設けられた「人吉SL展示館」の主役をつとめることになる機関車だった。そして、この1960年当時は、人吉-吉松間は客車一両に貨車を連結した混合列車と貨物列車を合わせて一日9.5往復のSL牽引の列車が運行されていたようだった。
この区間の建設も難工事であったようだが、ここを旅する人々が登る難路は、めまぐるしく暗闇と光の眺望が交互に現れると云う忙しさの中を過ぎると、杉林の中を抜けれやっとのことでサミットの矢岳駅に滑り込んだ。
ここは大畑駅〜真幸駅の間のサミットにあり、列車の行き違い、機関車への給水のできる駅で、意外に広い構内なのには驚いた。使っていない貨物ホームらしき方向に一本の引き込み線があり、廃車になった蒸気機関車たちが留置されていたのにはまた驚かされた。そして、ホームノ人吉方の急勾配を登ってくる下り列車を入れて駅の構内をスナップした写真をごらんに入れた。
ホームには駅舎からの屋根が伸びている風景は何とも旅情を感じさせた。またホームからは左手に矢岳山が間近に見上げられた。駅の外へ出て正面を眺めると小さな集落と田畑があり、この高原はお茶の山地として知られているようだった。この〈矢岳越え〉の建設工事がおわっても、工事に携わった人たちの中には矢岳の集落に残り住んだので、それらの人が村人より多かったと云う話がのこっている。これも鉄道開通により地元に産業をもたらしたからであろう。
そう言えば矢岳駅は明治42年11月21日に信号所と機関車への給水のための業務用駅として完成したが、間もなく12月末には旅客・貨物扱駅として格上げされている。駅の周辺には四谷林道(矢岳大畑支線もある)、矢岳林道などの接合点となっており林業関連の貨物扱いも行われたのであろうか、側線が残っていたからこそ、こんな山奥の駅構内にスクラップを待つ廃車蒸気機関車の留置が行われたのであろうと納得したのだが、いかがなものであろうか。
この廃車を待つD51たちを間近にごらんになられた 伴 達也さまのHP 「ふる里の蒸気機関車」VOL 19.の一文を紹介させていただく。
『やがて肥薩線から蒸気機関車がなくなるていう頃、矢岳の引っ込み線には、廃車されて解体予定の機関車が係留されとった。 解体のため人吉機関区まで、同僚のSLに牽引されていくSLば何度も見たもんタイ。働き続けた鉄の塊は、屠殺場に牽かれていく牛のごと可哀想かった。牽いていくSLの汽笛が、鎮魂歌のごと矢岳の山間に消えていった。SLのおる写真は1972.3.12。』
〈http://www.geocities.jp/tttban2000/SL3124/document.html〉
現在(2010念)、南側の元給水塔跡には「人吉SL展示館」が設けられ、この矢岳越えで活躍していたD51170号機が保存展示されている。この人吉〜吉松間の専用SLとして人吉機関区に配置された“人吉機関区SPL”(すぺしゃる)”と呼ばれた鹿児島工場で施された重装備のD51の10輛の代表といえるだろう。そこに挙げられる特徴は次のようなものであろうか。
1)さながら座布団(ざぶとん)のような鹿児島工場式大型集煙装置、これは敦賀(つるが)式集煙装置を参考に作られた法式で、トンネル内で煙を天井にはわせて煙害を帽子するための仕掛けである。
2)ボイラ上の650リットル、とランボード上の600リットルの重油タンク、前者は蒸気ドームの後に装着されている長方形タンクであり、ランニングボード上に補助重油タンクを装備した号機もある。
3)他区には見られない砂撒き管カバー
ドームから出ている砂撒管元栓上方にカバーが着けられていた。
4)鹿児島工場施工のボックスタイプの煙室扉ハンドル
5)各動輪にタイヤクーラー
(動輪に水を掛け冷やすための装置)
6)ボイラーの最大圧力15%増。
7)主連棒(動輪をつなぐとっど)は急勾配、急カーブで消耗・変形が激しかったので、D5123やD5181、D51889の打刻がある様々な「D51」のパーツがD51170号にも利用されていた。
7)乗員たちにも防煙マスクの支給
(煙害対策がとられていた。)
まさに日本一の“重装備のいでたちであったとおもう。
そこで開通以来、「矢岳越え」の急勾配に挑んできた蒸気機関車たちを展望して見た。鹿児島本線が全通する1909年(明治42年)に合わせて、軸配置が2-6-2の飽和式タンク蒸気機関車である3100型が人吉機関区に転属してきた。この形式は九州鉄道がアメリカのアメリカン ロコモティブ社(アルコ)から1906年(明治39年)に 24輛を輸入して、228形(228 - 251)として、主に筑豊で運炭列車の牽引に活躍していた機関車であった。その後、1907年(明治40年)に九州鉄道が国有化され、さらに1909年(明治42年)の鉄道院の車両形式称号規程により、3100形(3100〜3123)に改称されたものであった。この形式の特徴は、非常に大きな水槽容量 (11.36m3)と59.9tの自重による長距離走行と強大な粘着力と強大な牽引力であったが、当時の施設が貧弱であったことから、この軸重が第2動輪で18.3tと云う過大であったことが線路や橋梁などに与える悪影響が大きかった。そこで、1918年(大正7年)に小倉工場で軸重軽減策が実施されて、動輪上重量は41.9tに、最大軸重も14.1tに軽減されている。そして1914年に新造された国産の急勾配用の4110形の登場まで活躍した。
次の■4110形は人吉には姿を見せていないが、その後の主役を長年にわたって務めた4110型の開発に基礎的なデーダを提供した輸入機関車である。
それは1912年(明治45年)にドイツのマッファイ社から輸入された4輛の急勾配線蒸気機関車が4100形である。この形式の特徴は、効率の良い過熱式ボイラーが採用され、車軸配置が0-10-0で、動輪を5軸持ち、従輪をもたないE型機タンクであるので、自重のすべてを牽引のための粘着力として有効に活用することができた。カーブの通過を容易にするために第1、5番目の動輪の横動を可能とする「ゲルスドロフ式機構」を採用していた。33パーミルの勾配上において、単機で120トンから150トンの列車を牽引する好成績を挙げていた。
そこで、国鉄の前身である鉄道院が4100形の機構を元に、国産機の開発を初め、1914年(大正3年から39両(4110 - 4148)が製造された。この形式の特徴は、
今まで動輪の間に幅の狭い火室を設けるのが通常であった。しかし貨物用機関車や急勾配用機関車は動輪がさほど大きくないために、ボイラー中心高を上げて動輪上に火室を設ける「広火室」設計を採ることができた。これにより火床面積を広げることが可能になったが、ボイラー中心高を上げることは、車両の重心を上げることにもつながる。そこで、従来ボイラー脇に設けていた水槽の一部をボイラー下部に設けることで重心の上昇を防止している。この形式の牽引力は33パーミル勾配における牽引量は180トンで大いに成果が上がった。1914年に新造の4110 - 4115,4134 - 4139の12両が人吉機関区に配属され長きにわたって活躍した。
1949年(昭和24年)9月には廃車となり、D51と交代している。その後、
松尾砿業や三菱美唄炭坑へ転身してかつやくし、後者のの4輛が静態保存されている。
また、4110型が引退する直前にE10型が配属されたことがある。この形式は電化を控えた奥羽本線の板谷峠の老朽化した4110型の救援を目的として、1948年(昭和23年)に5輛が新造された新鋭機であった。板谷峠では
半年ほど使われたが、電化の完成により肥薩線人吉機関区に姿を見せている。しかし、半年の使用のみで他へ転出している。
E10形の特徴は、2-10-4(1E2)の車軸配置のタンク式蒸気機関車で、曲線通過を容易にするため、第1動輪には6mmの横動を、第2動輪はタイヤのフランジを6mm薄型に、第3、第4動輪はフランジレスの車輪となっている。D52形と同じ太さのボイラーを備え、牽引力は33パーミル勾配において270トンと言う日本最大であった。トンネル内の煙害防止のため、バック運転を前提としていた。デフレクターが装着されていない。課題は、急曲線での牽引力の低下が見られたり、線路に与える横圧が問題となったりして、期待を裏切った。2号機が東京都青梅市の青梅鉄道公園に静態保存されている。
撮影:昭和43年
アップロード:2010−02
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・肥薩線の「矢岳越え」シリーズ
204. 「石造りの人吉蒸気機関車庫」・肥薩線/人吉機関区
205.
ループ線とスイッチバックの大畑駅
(肥薩線)
207. 日本三大車窓 「矢岳
越
え」 (肥薩線・矢岳-真幸)
208. トランケート型トラスの第2球磨川橋梁 (肥薩線・渡-奈良口)
149. 不知火海ちょしらぬいかい)を望む
・
鹿児島本線
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肥後二見-肥後田浦
画像の整理
02-33:後補機は煙だけ。
02-4に:後補機とかしゃだけ。
02-43:後補機主体。
03-11:後補機付が遠いし。
●03-12:最良シーン、掲示済。〈〉0002のもの。