自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・女川・万石浦紀行

114. 女川 港俯瞰(ふかん) ・石巻線/女川-女川港


〈0001:北側の高台から女川港岸壁を俯瞰〉
石巻線 女川港駅発

〈0002:30-53:女川港俯瞰〉
入れ替えを終わって、休憩中のSL、女

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〈紀行文〉
 この度は何処にも立ち寄らず早朝に女川に何とかたどり着いた。この石巻線では今まで全く“乗り鐵”をして来なかったことに気がついての試みであった。早速、上りのDCに乗り込んで渡波(わたのは)駅へ、そして再び女川駅までフロントビューを楽しんだ。乗り鉄ではSLを撮ることはできないが、これはこれで得られる貴重な情報も少なくないことを思い知ったのだった。右手に朝の万石浦の風景を満喫しているうちに浦宿駅を過ぎて、牡鹿半島(おじかはんとう)の付け根にあたる山並みが近づいて来た。やがて線路が県道より高くなったところで、列車は左にカーブしながら、その道路を跨ぐと、程なく右側の高台に設けられた遠方信号機が現れ、次いでトンネル入り口がが見えてくる。これは女川トンネルで、前後の勾配は20と18パーミルで、全長は640mと石巻線で最長なのだが、直線なのか入口から出口の明かりが見えていた。このようなルートを鉄道省が敢えて建設したのも、終着点を港の岸壁に出来るだけ近づけて、発着する近海航路との接続の便を、そして水産物の貨物扱いの容易さを考慮したことと、それに昔からの女川の街並みを乱さないことに配慮して、長いトンネルヲ貫通させたのであろう。
このトンネルを出ると、三方が山に囲まれた緑の谷間を右側にカーブしながら進むと、信号機が現れ、家並みが少しずつ整ってくるようだ。やがて場内信号機、そして分岐する線路が現れ、そこにはターンテーブルやアッシュピットが設けられていたようだった。その脇を通り抜けると、端頭式ホームに到着した。ここは2線が使用されているらしく、列車到着後に隣の番線から発車できるようになっている。駅舎は、そのホームの先端から階段を下って低い所に設けられていた。その階段には、「昭和35年5月23日のチリ地震」の際に襲って来た津波が到達した高さ「約4m」を示す青色のペンキマークがあった。駅舎の造りは1939年10月7日の開業当時の姿が保たれているとのことだった。
左側の側線が駅前通りを踏み切りで通って、家並みの狭い路地へ入り込み、僅かに下りながら1.4km先の女川港貨物駅に通じていたのである。その途中は魚市場に出るまでに3つの踏切と満潮時には浸かりそうな短いプレートガーターの鉄橋をを渡って、本線から分岐した専用線の一本は魚市場へ、他方は遠くにある水産加工場へと伸びていた。その魚市場へ向かう線路の先は巨大な魚市場の床をプラットコームとした貨物引き込み線となっており、水揚げされた新鮮な海の幸と砕いた氷塊を満載した白塗りの冷蔵車を連結した貨物列車が発車して行ったはずなのだが、そのプラットホームの側線は使われなくなって久しいらしく、ボロボロに赤錆び付いたレールサイドには、ゴミが散乱していると云う惨めな姿をさらしていて、さびしい限りであった。この女川港貨物支線の開業が昭和33年のことであり、私の訪ねたのが昭和46年だから、この時には鉄道貨物輸送への需要が既に衰退の兆し(きざし)を見せていたのであろうか。
一方の本線はその先で2ほんに、そして四本の貨物ヤードとなり、その先は再び二本となり終点となる配線レイアウトの女川港貨物駅であった。既に上り列車の編成が終わって数量の冷蔵車と有蓋車が出発線に待機していた。肝心のC11は本線状に停車して給水でも受けていたのであろうか。その場所は魚市場の外れにある鮮魚売店のある広場のあたりであった。
 そこで私は左手の高台へ登って、上り貨物列車の発車シーンを女川港界隈(かいわい)を俯瞰(ふかん)しながら撮影することにした。そう云えば、今日は晴天の散歩日和(びより)である。そこでは「うみネコ」の鳴き声が青空に響き渡っていたのだった。
ここで女川港界隈を一望した俯瞰(ふかん)風景を描いてみよう。女川の町はは牡鹿半島の付け根部に位置し、東南の太平洋と、北の雄勝町、その他の二方は石巻市に接していた。町は東西に18、南北に 21kmと長方形で、標高456mの石投山や、牡鹿半島第2の大六天山(標高 440
m)などの山々が太平洋を囲んで女川湾を形作っている。その湾は南東に開き、沖合には江島列島や出島など大小の島々が散在していて、入り江の奥では風浪をしのげる静穏で、水深も深いと云う自然に恵まれた天然の良港であり、風光明媚(ふうこうめいび)な所なのであるとでも云っておこうか。
この女川湾の名が広く世人に知られたのは、慶長16年(1611年)のイスパニア使節団が来港したことがあり、次いで明治18年5月、イギリスのハミルトン将軍の率いる東洋艦隊が初めて女川湾に入港してその素晴らしさを報告したこと
以来のことだと云う。当時、この大艦隊が楽々と碇泊(ていはく)できたのは、この湾が天然の良港であったことの証明で、これが世界中に紹介されたのが契機(きっかけ)だと歴史は語るのである。
この町の中心部は町役場とJR女川駅を核にコンパクトに纏まっているようで、役場から100mほどで女川港の岸壁なのである。ここの港は古くから暖流・寒流が交差する豊かな漁場である金華山沖の沿岸漁業に利用されており、毎年十万トンを超える水揚げを誇り、さらに養殖漁業も盛んで、水産業が町の産業経済の中心である。それに金華山や江島・出島などの離島への航路交通の要であり、工業製品の出荷も手がける商港ともなっている。
ここまで発展する過程には、興味深い歴史が刻まれている。先ず、明治18年のイギリス東洋艦隊が女川湾に寄港した際に、水深の深い大型船舶が利用しやすす、天然の良港として高く評価され、世界中にに、その名が知られることになった。そのため、明治政府は、台風によって完成後3年にして破壊放棄されてしまった野蒜(のびる)築港に替わって女川港に築港計画を検討したが、財政上の理由から中止となってしまったと云う歴史がある。これはいかにも残念であったことだろう。ここに出てきた「野蒜築港」とは、明治の極めて早い時期に、地域開発の拠点の建設を目指して、オランダの土木技術の援助を得るなどの条件下で実行された三大築港事業のひとつで、この他に三国港(福井県)・三角港(熊本県)が選ばれて施工されている。それは仙台湾の野蒜で行なわれた日本初の近代港湾の建設であり、東北開発の中心事業であったのだが、その悲劇の原因は立地選定の失敗であったとされている。当初の候補地の評価は、
1)築港の要望が強かった石巻港は北上川河口での土砂堆積が多過ぎた。
2)女川湾は湾形は良いが湾内が狭く、仙台への連絡が悪過ぎた。
3)松島湾の石浜は波浪の心配が少ないが、陸地から遠過ぎた。
4)野蒜は南方の宮戸島によって外海の波浪が緩和されるし、西は松島湾・塩竈港に、東は石巻港に近いこと、河口のある鳴瀬川の水運が利用できる。
そして、仙台の政財界からの塩竃との連絡を重視した評価の結果、野蒜が選ばれたのだったが、実際には河口での土砂の堆積が予想外に多く、季節風の強い影響を受けて外港の建設が困難を極めたなどが重なった上に、台風の被害を受けて崩壊され廃棄される運命をたどったのであった。しかし、この事業の一環である「野蒜港と南の松島湾との間に東明運河を、北の北上川との間の北上運河を開削して、江戸時代からの貞山運河を改修して連結して、仙台〜石巻間の運河システムが生き残ったことが救いであった。
歴史に「もしも」はないのだろうが、女川築港が選ばれていたならば、女川湾と万石浦との間の牡鹿運河の開削や、仙台・石巻との鉄道建設なども同時に竣工して、女川の発展はより早く、大規模に実現していたはずずであると思うのは私の夢想であろうか。
 女川と云えば、今でこそ、地震、津波情報や、原子力発電所のテーマでその名を耳にすることも多くなってきている。その後、地元の努力によって、遅まきながら大正末期から魚市場や漁港岸壁が、さらに防波堤、工業岸壁などが強化充実されて漁業基地の地位をたかめ、さらに地方港湾に発展した。
それゆえに、街の商店は昭和時代の建物が多く、がっしりとした構えだし、裏通りを歩くのも下町のような雰囲気が感じられる。
現在の女川は金塊漁業に加えて、養殖漁業が活発で、それに牡鹿半島に金華山とを連携した観光で繁栄しているようだ。
 最後に、この優しいサウンドの響きのする“おながわ”の地名考であるが、地誌の受け売りをすれば次のようになる。
女川市街の西方背後にある黒森山の麓(ふもと)にあたる奥地に安野平(あのたいら)と云う所から流れ出る渓流がある。鎌倉時代、安倍貞任(あべのさだとう)の軍勢が隣村の稲井にある館(やかた)に寄って、源氏方の軍と戦った時、一族の婦女子を安全ナ場所として安野平に避難させた史実がある。この故事から、ここから流れ落ちる渓流をを女川と呼ぶようになったと伝えられる。
1889年に市町村制を実施する際に、藩政時代の女川組に属する20浜の各村を合併して女川村と云うことになった。それは藩政時代初期から女川組の「おおきもいり」代表者)を勤めた丹野家が代々女川に居を構えていたからだと云うのである。
確かに付近には男側は存在しないようである。

撮影:1973年
発表:「河北新報」紙上への投稿。:
東日本震災の5年目に当たる2016年1月に地元の新聞である河北新報の発行する『石巻かほく』の1月18日号に掲載されました。
これは東日本震災前の女川待ちの情景を懐古する特集に、ここに掲げた俯瞰写真が掲載されたのです。新聞社では読者の求めに応じて写真をプリントして贈呈するサービスを行ったと云う報告を受けています。



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・女川・万石浦紀行シリーズのリンク
103.C11〜旧北上川橋梁を行く・石巻線(石巻−陸前稲井)
090. 渡波(わたのは)の里山の四季・石巻線/陸前稲井-渡波
215.万石浦俯瞰(ふかん)・石巻線(沢田−浦宿)
091. 女川港界隈(かいわい)・石巻線/女川−女川港