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・女川・万石浦紀行
03. C11 〜旧 北上川橋梁を行く ・石巻線/石巻− 陸前稲井

〈0001:〉
北上川橋梁 女川行貨物、c11245牽

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〈紀行文〉
 このホームページ 「Sl写真展」の制作では、アメリカの保存鉄道のネタが尽きると、次の対象は国鉄現役の35mmカラースライドへと移った。その中でも、カラーの発色が鮮やかなことで印象深く気にいっていた一枚が、オレンジ色の「ほや」が移っている石巻線女川港駅でのC11245のスナップであって、これは早い頃にアップロードしていたのだった。所が、C11245号機の藤沢市における静態保存運動を支援されているMさんから、現役時代の11245号の活躍している姿のの映像の提供を依頼されたのだった。そこで膨大なフイルムふアイルの中から石巻線を徹底的に探索することになった。これを契機に、石巻〜女川港に至る沿線の風物詩を「女川・万石浦紀行」と題するシリーズとしてまとめた次第なのである。
 先ず石巻線であるが、東北本線の小牛田駅(おごたえき)から旧北上川の河口の石巻を経て太平洋が奥深く湾入した女川湾に面した漁港の町 女川に至る44.9kmのローカル線である。このほぼ中間にあるの石巻を境にして、小牛田方面は大崎平野の穀倉地帯の広々とした田園の中を走り、一方の女川方面は旧北上川を渡り北上山地の南端に当たる低くなった山々を超えて石巻湾の海辺を走ると云う全く異なった景観を見せている。元来、この線は内陸部と海岸を結んで石巻地方の発展を目的として、1912年(大正元年)に軌間762mmの仙北軽便鉄道が東北本線の小牛田駅から石巻の間に開通したのが始まりであった。その後に、仙台から塩竃、松島まで開通していた宮城電気鉄道(今の仙石線)が1928年(昭和3年)に石巻まで達して仙台−石巻が全通したことから、石巻は仙台圏に取り込まれてしまった。それで主な人々の流れは仙台に向かってしまい、石巻線はローカル線となってしまったのだったが、1939年(昭和14年)には仙石線貨物支線が石巻臨海工業地帯へと伸びて、そこで生産されたパルプ材などの出荷が石巻線をけいゆして運ばれることになり石巻線を活発にしている。同じ年の1939年(昭和14年)には近海・遠洋漁業の吉として躍進していた女川までの17.0kmが延長開業した。更に戦後に女川港貨物支線が設けられて水産物の首都圏への輸送に貢献していた。現在の女川方面は観光ローカル線の色彩が強くなっているようだ。ここでは石巻から終点の女川港までの沿線の風情を5つのシリーズとして、石巻から順次お目に掛けたい。
 石巻駅を出て街中を抜けて広々とした旧北上川に架かる橋梁を渡り、水田の広がる陸前稲井駅を過ぎて、列車は右に大きくカーブして大和田トンネルを抜けて、長い築堤を下って左に大きくカーブを切って、石巻湾に面した漁港の町 渡波(わたのは)の駅に達する。この先は湖のような万石浦と云う石巻湾の入り江に沿って走り、入り江が尽きると牡鹿半島(おじかはんとう)の付け根の山脈を女川トンネルで抜けて女川湾に面した終着の女川駅に到着する。
実は、昔から石巻から女川へ向かう主なルートは県道6号石巻女川線となっている女川街道(石巻北街道、1982年に国道398号に格上げ)であって、石巻から内海橋で旧北上川を渡って、対岸の石巻湊から石巻湾岸に沿って渡波、そして女川へと通じていた。それ故に、石巻線の女川への延長は女川街道に沿って行われるものと思われたが、実現したのは北上川と低い丘陵を横断して直接石巻湾岸の渡波へ出るルートが採用されたのであった。この背景には、その途中に陸前稲井駅を設けることが狙いであったと云われている。この稲井集落は旧北上川を挟んで石巻の対岸の少し上流に位置しており、付近には石巻へ通じる橋が無かったから交通の不便を強いられていた。そこの背後の山からは世に知られた稲井石(船台石)と呼ばれる石材を大規模に産出しており、また豊かな稲田が広がっていると云う経済的に恵まれた人口の多い集落であった。そこで女川への鉄道ー延長計画に際して、地元の有力者の努力によって陸前稲井駅の誘致に成功したのだと云われていた。一方、鉄道に見放された石巻湊では、近年になって新石巻漁港や旧北上川河口に架かる日和山大橋が開通して仙台方面とのバイパスルートとなって発展しているのも皮肉な話ではあるように思えた。
 この石巻の町に始めて訪れた時から気になっていたのは、街のほぼ中央を旧北上川が南北に巾広い水面をたたえて流れており、その川の東側と太平洋の石巻湾岸との間に続いている低い山脈を背景にした旧北上川に架かる長いプレートガーターの鉄橋であった。この鉄橋の直ぐ上流まではほぼ南流してきた旧北上川が、この辺りから東に向きを変えて太平洋に向かうため大きく湾曲しており、山並みをバックにするには午後が順光だった。それなのに、女川へは朝の8時頃に下って行き、午後2時頃に戻ってくる貨物のダイヤが多かったし、そのあとの6時頃の列車の撮影には季節が限られてしまった。
 先ず、この鉄橋とその先に構えている大和田トンネルへの20パーミルの登り勾配辺りのロケハンを始めた。
 このシリーズの冒頭には、是非とも「女川に向かって旧北上川橋梁を行くC11」の姿を掲げたいとフイルム探しの末に見つけたのがこの作品である。ところが、撮影した時の状況の記憶が思い出せずに、キャプション作りに困惑していたのであった。そこで、相互リンクでお世話になったことのある「SL 鉄人物語」をアップされておられる仙台の「坂ノ下田村麻呂」さまから次の「見立て」をしていただいたのでご披露させて頂く。
『ここの背景に写っている町並みは、稲井の町並みで今も当時と殆ど変わりがありませんし、それに背後の山は「牧山」だと思われます。従って、撮影場所は旧北上川鉄橋の上流、稲井側からで、鉄橋を渡る女川行下り貨物列車だと思われます。』
この示唆をうけてから、次第にその記憶がすこしずつ蘇ってきたようで、確かに石巻線の線路から北は広々とした水田が広がっており、旧北上川と牧山が北の北上山地へとつながる低い山脈との間は随分とひろがっていて、それだけ旧北上川はかーぶしていたのだったから、水門のあった辺りからサイドが撮れたことが想い出されたのだった。もう少し列車の通過時間が、または季節が遅ければ水面に映える光のギラギラがもっと美しく撮れたのだったろうか。
私は、この稲井の集落から鉄橋に近づく細い田舎道を訪ねる度に、ここの風景が中里介山の描く「大菩薩峠」の後半に出てくるシーンで、主人公達が鎖国の日本を脱出して南国の島にユートピアを築くために舟に乗り込んで、中間を拾うために石巻湾に停泊した時に、船員として中間に加わっていたスペイン人乗組員が脱走して、海岸から村落を避けて低い山を越えて北上川の渡し場のある川岸に潜伏している情景が思い出されてならなかった。
この稲井集落は稲井石(仙台石)と呼ばれる有名な石材を産する山を背後に持っていて、石材を船積みして出荷するための港でもあって対岸への渡し場でもあったようだ。この写真にも背景の山に石切場らしい所が写っているのが見られている。
 そこで、この広々とした水面をたたえた旧北上川が今の石巻の繁栄の基を作ったと伝える地誌について触れてみたい。戦国時代以前には、岩手の北上山地を水源にして南流しながら大河となって仙台平野の北部に達した北上川は、宮城・岩手・秋田の三県にまたがる栗駒山(標高1627m)を源にして東流する迫川(はざまがわ)を合流してから、東に流れて石巻湾よりズット北に位置する追波(おっぱ)湾で太平洋に注いでいた。時代が下って 江戸時代に入ると、仙台藩の領国経営として、新田開発と舟運路整備を目的とした河川の改修が求められ、それは1605年に藩主 伊達政宗が北上川と迫川の分流工事に着手したことから始まった。これは上流で北上川に合流していた迫川を切り離して石巻湾に注がせて水はけ改良と洪水の危険を取り除くために、「相模土手」と呼ばれる堤防を1610年(慶長15年)に完成させて、栗原郡・登米郡の新田開発を成功に導いた。しかし、付替えた北上川の河道は急流となり舟運に不都合でもあり、洪水被害も頻発したため、伊達政宗は、長州(山口県)出身の技術者川村孫兵衛に命じて河川の整備にあたらせた。孫兵衛は1616年(元和2年)から1626年(寛永3年)にかけて、先ず初めに、追波湾に注いでいた北上川の本流を石巻湾に7割、追波湾に3割の割合で注がセルと云う分流工事を進めた。次に、和渕山と神取山の間に石巻湾に注いでいる江合川(えあいがわ)と迫川を合流させ、さらに北上川を合流させると云う「三川合流」を行うと同時に、鹿又から石巻湾までの流路を開削する大事業を完成させ、舟運に適した比較的安定した河道を作り上げた。そして変貌した北上川の水源を利用して、政宗の奨励した新田開発を飛躍的に進展させた。それ以前の江合川は山形県境からの鳴子峡、秋田県境の・鬼首(おにこうべ)にある荒雄岳(984m)を源に宮城の中部を東流して広淵沼を経て定川に入り、石巻湾に注いでいた重要な河川であった。
これによって北上川の上流の南部藩の盛岡からの南部米や大豆を、それに仙台平野の余剰米を積んだ平舟がこの川を下って石巻河口に運ばれ、千石船に積み換えられて、江戸へと向かうようになった。それで江戸の消費する米の1/3は石巻からの米であったと云うほどの繁栄ぶりであった。これによって、ここ石巻は北上川舟運の終点として江戸回米の一大集積地となり、日本海側の酒田港と並んで奥羽二大貿易港として全国的に知られるようになった。この河口近くにあった中州には港町が作られその栄華を誇ったのは現在の石巻駅の付近であるとされる。
そして城下町 仙台の発展にともない、江戸初期の1558年に伊達正宗が着手した阿武隈川河口から仙台を経て松島湾に至る貞山運河が開かれていたが、明治中期の1884年になると、その定山運河と北上河河口とを結ぶ長大な東名/北上運河が開通して石巻と仙台との経済のつながりが濃くなって行くのだった。
その後明治末期の1912年(明治44年)から22年を掛けて、石巻で太平洋に注いでいた北上河本流のもたらす度重なる洪水から下流地域を守る治水対策として、北上川を
石巻から上流約20kmにある登米市付近で分流するために、追波川の開削によって新北上川を完成させたので、石巻の流れは旧北上河と呼ばれるようになっている。
 さて次は石巻を取り巻く地形であるが、旧北上川河口の平野部に市街地が広がり、その右岸から西側は仙台平野の東端部に位置し、北上川がもたらした肥沃な土壌の広い石巻平野に稲作地帯が広がっている。一方の旧北上川左岸から東の地域は北上山地と東部のリアス式海岸、南部は砂浜海岸と変化に富む複雑な地形であり、漁業や湾内での養殖業などが盛んである。それに旧北上川東側には北上山地の南端に当たる高さ300m前後の山々が連なり、河口を見下ろれる風光明媚(ふうこうめいび)な日和山、石巻のシンボルの牧山、更に北に位置するの上品山 (じょうぽんざん)の周辺では牧畜が行われている。
 石巻のどこからでも眺められる巨峰の姿を見せている牧山(標高250m)、それに連なる南端の日和山は旧北上川の東岸につらなっており、石巻の町の歴史的中心でもある。
ここの牧山は坂上田村麿が蝦夷の頭領・魔鬼女を征伐した所と伝えられており、現在は牧山市民の森として市民の憩いの場である。ここは石巻駅の東3Kmの近さにあり、女川へ向かう国道398号に乗って旧北上川を渡って1Kmほど走って左折すると山頂を目指して緩やかな坂道が続いている。
伝承によれば、「西国より白山神社を湊村の竜巻山に遷座し、石龍を祭っていた。その山は龍の文字が除かれて石巻山となり、牧山となったという。この太平洋と牡鹿半島を一望する牧山の頂には、平安時代に起源を持つ零羊崎(ひつじさき)神社があり、付近には、田村奥州三観音のひとつである牧山観音を安置する梅溪寺もあり、その本道の観音堂には田村麻呂の坐像が残されている。
一方、日和山は高さ60m足らずのの岡だが、山上に鹿島御児(かしまみこ)神社が鎮座しており、ここは鎌倉時代から葛西氏が営んだ石巻城の跡だと云う。そして、眼下に見える北上川の河口は、江戸時代には千石船の出入でにぎわっていた。日和山の名は、石巻からの出港に都合のよい風向きや潮の流れなど、「日和(ひより)」を観察するために登ったことから付けられたとか。
1689年(元禄2年)、芭蕉と曽良(そら)が訪れて、その眺望を楽しんだとのことが「奥の細道」にも見えており、山上に二人の像が立っている。この地には石川啄木、宮沢賢治、志賀直哉、斎藤茂吉、種田山頭火などの多くの文人が訪れているとのことだ。

撮影:1973年
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・女川・万石浦紀行シリーズのリンク
090. 渡波(わたのは)の里山の四季・石巻線/陸前稲井-渡波
215.万石浦俯瞰(ふかん)・石巻線(沢田−浦宿)
114. 女川港俯瞰(ふかん)・石巻線(女川-女川港)
091. 女川港界隈(かいわい)・石巻線/女川−女川港