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説教題:「自由の女の子」

聖書:ガラテヤ人への手紙4章12〜31節

  今朝与えられた御言葉はガラテヤに居る、主イエスを信じた信徒達にパウロ先生が書き送った手紙から聞いて参ります。

 ガラテヤという町は、現在のトルコの中央部にある地域で、紀元前270年の頃に、ケルト人が移住しガラテヤという国を作っていたが、紀元前25年に三代目のアミンタスという王様が亡くなってからローマ帝国の属州となったと記されています。

 ガラテヤは、パウロ先生が第二回第三回の伝道旅行の時に行っており、使徒行伝14章1節に「イコニオムでも同じようにユダヤ人の会堂にはいって語った結果、ユダヤ人やギリシャ人が大ぜい信じた」と記されているように、ガラテヤにもユダヤ人達がおり、ユダヤ人達は神様を礼拝するシナゴーグを作っていたのです。

余談ですが、ユダヤ教にはミンヤーンという言葉がありますが、ミンヤーンとは公的に礼拝するには10人の人が必要であり、バルミツバ(男児13歳成人式)、バットミツバ(女児12歳で成人式)、結婚式や葬式にも10人の男性が居なければならないことになっているのです。

10人のユダヤ教徒がいる場所は、シナゴーグを作ることができるので、ユダヤ人達はシナゴーグを作るのです。(基本的には、安息日で歩いていい距離が二千キュビト(約1`b)なので、シナゴーグを四千キュビトの中心に設けている。)

マタイによる福音書18章20節で、イエス様が「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」と言われているのは、10人が揃わず、シナゴーグを作ることが出来ず、二人三人で主に祈っているならば、その祈りはイエス様が聞いてくださっているということなのです。

使徒行伝には、パウロ先生が神の国の福音を語る場所が「ユダヤ人の会堂」と表記されていますが、パウロ先生もユダヤ人なので、常にシナゴーグにおいて神様に礼拝を捧げていることから、パウロ先生にとってもシナゴーグは身近なものであったのです。

イエス様も公の伝道を開始されるとき、マタイによる福音書4章23節で「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。」と「諸会堂」とはガリラヤ周辺にあったシナゴーグで神の国の福音を宣べ伝えていたのです。

 ちなみに、ガリラヤ湖周辺には32ものシナゴーグがあったことが考古学により発掘されているので、マタイによる福音書8章20節でイエス様が「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」と言われているので、イエス様は、天のお父様から与えられたこの世の3年間という時間、あちらこちらのシナゴーグで神の国の福音を語り、病人を癒し、煩っている人を癒したりと、大変忙しく動き回っていたので、ゆっくりと横になって眠ることも出来なかったのです。

 ガラテヤの人々が、パウロ先生が語る福音に耳を傾け、ユダヤ教徒、そして異邦人たちがイエスを信じキリスト者になり、キリストを信じる共同体が出来ていったのです。

 ユダヤ人と異邦人の存在する共同体で問題になるのは、ユダヤ人は受けている割礼つまりブリットのことであり、割礼を受けていない異邦人も、神様との契約である割礼を受けなければならないというユダヤ人側からの意見だったのです。

 この問題に関してパウロ先生は、異邦人キリスト者は割礼を受けないでも、ガラテヤ人への手紙2章16節で「キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。」と、イエスを信じる事で、神様の前には正しい者とされていると言っているのです。

 パウロ先生は、ガラテヤのイエスを信じる共同体の中で、幼い時より、ユダヤ教徒として信仰生活をしてきたユダヤ人キリスト者が、律法つまりトーラーの教えを守る事が信仰者としてあるべき姿だと固守していたことなのです。

 ガラテヤ人への手紙3章10節11節で「律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。」と言っているのです。

 律法とはモーセ五書のことであり、この中に否定命令(〜してはならない)が365、肯定命令(〜しなさい)が248、合計613の教え、ミツボットのことなのです。

 この613の教えを全て守ることは出来ないことであり、律法を守ることで神の前に義とされるというならば、人間誰一人として義とされるものは存在しないと言っているのです。

 ただ、主イエス・キリストを信じることにより、3章26節で「キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」と記されており、3章29節で「キリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。」と、私たち異邦人キリスト者にとって大変嬉しいことが記されているのです。

 所が、ガラテヤの共同体の中で、ガラテヤ人への手紙4章9節で「今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。」と、信仰者として脱落する人たちが出て来ているのです。

   その人たちに対してパウロ先生は4章12節で「兄弟達よ。お願いする」必死に語りかけている事が分かります。

 12節からパウロ先生は、ガラテヤにおいて神の国の福音を伝える時には、身体は弱っていたが、あなたがたは私を14節で「神の使かキリスト・イエスかでもあるように」迎え入れてくれ、あなたがたは神の国の福音を聞いたときに感激したではないか。

 しかし、私が真理を語る事により、その真理を受けいれる事が出来ないユダヤ人キリスト者たちが、異邦人キリスト者たちに、ユダヤ人キリスト者の言う事がパウロより良いことを言っていると、パウロの語る真理から引き離すことを画策していると言っているのです。

 律法つまりトーラーは神様の教えなので、それは大切なものであるが、トーラーには何が書いてあるかをちゃんと聞きなさいと、22節からアブラハムの話を語り出しているのです。

 アブラハムには二人の子供が与えられたが、一人はエジプトの女奴隷でハガルからイシマエルという子供と、妻であるサライからイサクが生まれたが、奴隷であったハガルから生まれたイシマエルは肉によって生まれたが、奴隷ではないハガルが生んだのはイサクだと言っているのです。

 この話しは比喩だと言っているが、パウロ先生が言っているのは、異邦人に割礼を強要する信仰者は、自ら割礼を受けてアブラハムの子孫であると自認はするが、アブラハムには二人の子どもがあり、割礼を強要している信仰者こそ、女奴隷の子のイシマエルと同じように奴隷、つまり律法に縛られている奴隷であり、異邦人キリスト者は律法に縛られず、イエスを信じることにより律法からは自由になっているといっているのです。

 28節には「兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。」と記されており、30節31節で「女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない」とある。だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである」と記されているのです。

 そうです、聖書は神様からの教えであり、信仰者が守らなければならないことでもありますが、神様はイエスを信じることで私たち一人一人を義として下さっていることから、「女奴隷とその子とを追い出せ」と言われているように、神様の教えを破ってしまったなら、直ちに神様に悔い改め、心の中から悪魔を追い出すことにより、イエス様が再臨されたときに共に携挙され、御国へと凱旋することができると記されているのです。     

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