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説教題:「雪よりも白く」

聖書:詩篇51篇1〜17節

   今朝の御言葉はダビデが詠んだ詩篇から御言葉を聞いて参ります。

 今朝の詩篇51篇は、ダビデ王が権力にものを言わせ、神様が忌みきらうことをしていた時のことであり、人間の弱さ、愚かさを表している箇所です。

 小見出の原文をみると「指揮者によるダビデの賛歌、預言者ナタンが彼の所へ来たとき、バテシバの所へ彼が来た時」と記されていますが、解釈すると「ダビデがバテシバと不倫をしていたとき」となります。

 バテシバという女性は、ダビデの家来の兵士であるウリヤの奥さんでしたが、ウリヤに内緒で不倫をしたことが、サムエル記下11章に詳細が記されているので要約してみます。

 ダビデ王がある日の夕方、眠ろうとしたが眠れなかったので、屋敷の屋上に上がり下を見ると、美しい女性が沐浴している姿を目にし、一目で心を奪われ部下を呼び寄せ、女性の素性を調べさせた所、11章3節で「エリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻のバテシバという人」とダビデ王に報告したのです。

 エリアムとは「神の民」の意味を持っており、ウリヤも「神はわが光」の意味の名前で創世記10章15節にカナンという人物からヘテという息子が生まれていることから、素性もはっきりしていたひとです。

 ダビデは一人の羊飼いであったが、たまたま王様になった人物で、ウリヤもダビデも主により、この世に生を受けた一人の人間だったのです。

 ダビデは王となり、ウリヤはダビデ王に仕える兵士と上下関係になったことから、ダビデは権力を持っていたことから、正しい判断が出来なくなってしまったのです。

 それで、バテシバを自分の所へ連れてこさせ、4節「彼はその女と寝た」と記され、5節で「女は妊娠したので、人をつかわしてダビデに告げて言った『わたしは子をはらみました』」と、ダビデに使者を使わしたのです。

 バテシバの妊娠を聞き、ダビデはまずいことになったと焦って、その事から逃れるにはどうしたらよいかと思案し、思いついたことは、バテシバの夫のウリヤを戦いの場から呼び寄せ、戦況を聞き、8節で「あなたの家に行って、足を洗いなさい」とねぎらいの言葉を掛けているのです。

 ダビデはウリヤを家に帰られせることにより、バテシバの妊娠はウリヤの子供とするようにとの思惑だったのです。

 しかし、ウリヤはそんなダビデ王の思惑とは反対に、自分と共に戦っている兵士達のことを考えると、11節「わが主君の家来たちが野のおもてに陣を取っているのに、わたしはどうして家に帰って食い飲みし、妻と寝ることができましょう。あなたは生きておられます。」と兵士達と共にダビデ王の家の入口で寝て、家には帰らなかったのです。

 ダビデは思惑通りに行かなかったので、ウリヤを最前線に送り敵にウリヤを殺させてしまうという恐ろしい事を考え、ウリヤを前線で死なせてしまったことから、ダビデは安心したのです。

 バテシバは夫が死んだことで嘆き悲しんでいましたが、喪が明けた1週間の後ダビデ王から呼び出しがあり、ウリヤはダビデ王の元に来たのです。

 11章27節に「喪が過ぎた時」と記されている「喪」とはヘブル語で「涙を流す」ということであり、創世記50章10節で「ヨセフは七日の間父のために嘆いた」と記されている事から、ヨセフはお父さんのヤコブが亡くなったことで、七日間涙を流していたと読むことが出来るのです。

 ダビデ王がウリヤを寝取ってしまったことは、ダビデの近隣にいる誰もが知ることになったのですが、誰もダビデに対して苦言を呈することが出来ませんでしたが、27節の後半に「ダビデがしたこの事は主を怒らせた」と、主なる神様を怒らせる結果となったのです。

 ダビデ王がおこなったことをいさめるために、主は、預言者ナタンをダビデ王の所につかわされたのです。

 預言者ナタンは、ダビデ王に例え話として、多くの羊や牛を持っている富んでいる人と、貧しい雌の小さい羊を自分の娘のように大事にしていたが、一人の旅人が富んでいる人を尋ねてきたことで、旅人をもてなすために羊を屠るだんになり、富んでいる者は自分の羊を屠るのを惜しみ、貧しい者が大事にしていた羊を屠らせ、それを調理し旅人をもてなしたことを話したのです。

 ダビデ王はその話を聞くと烈火のごとく怒りだし、12章5節「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。」と、その例えが自分に対して語られた事とは思わず、富んでいる者は殺されるべきであると言ったのです。

 それで、ナタンはその富んでいる人は、あなたのことだと指摘し、誰があなたに油をそそぎ王様にしたか、だれがサウルの手から救い出したか、あなたに多くの恵みを与えたのは誰か、にも関わらず、9節「あなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。」そして具体的に、ウリヤを殺し、バテシバを自分の妻としたことは、もってのほかだと言ったのです。

 ダビデの不祥事に対して誰からも言われなかったが、ナタンから指摘されたことで、ダビデははじめて13節で「わたしは主に罪をおかしました」と、神様に悔い改めたのです。

 主の怒りは、バテシバが生んだダビデの子におよび、18節「七日目にその子は死んだ」と記されていることから、神様の契約であるブリット、八日目に受ける割礼の前に死んだことは、神様がその子と契約を結ぶことをしないためであることが分かるのです。

 ダビデは、その子が死ぬ迄断食し嘆き悲しみ、生まれが子が死ぬことがないようにと心から神様に悔い改めをしたことが分かります。

 そのような状況から、この詩篇51篇を詠っていることから、ダビデは1節を原文で読むと「神よ、あなたの慈しみに従って、私を憐れみ給え、あなたの限りない憐れみによって、私の罪を消し給え」と詠んでいるのです。

 2節「私の沢山の不義から洗いたまえ、私の罪を清めたまえ。」とダビデは徹底的に主に悔い改めていることがわかります。

 5節で「なぜなら、私は私の咎を知っている。私の罪は常に私の前にある」と、ダビデ自身が一人の人間として罪深い者であることを、自分が一番分かっていると言っているのです。

 6節を解釈すると「私が犯した罪は、神様に犯した罪であり、神様の目の前で罪を犯したので、主は私にそれを指摘された」と言っているのです。

 7節で「自分が母の体内に宿り、この世に生を受けたときも、私が罪を犯すようになるという存在であったことが分かります」と詠っているのです。

 8節は「主よ、あなたは、主の前に真実な者を喜ばれるお方なので、罪を犯す心に対して御言葉をもって教えて下さる御方である」と詠むことが出来るのです。

 9節は「神様、私をヒソプによって清めて下さい。そして私を雪よりも白くなるように洗い清めて下さい」と言っているのです。

 ヒソプによって清めるとは、現在のハンセン氏病(ライ病)のきよめにに用いていることがレビ記14章にしるされていますが、十字架のイエス様に対してヨハネによる福音書19章29節「酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。」と記されています。

   ダビデは更に10節で、清い心、正しい霊」が与えられるようにと祈り、自分の口からは、主の誉を表すようにしていただきたいと祈ってるのです。

 ダビデは自分が置かれている立場は、全て神様の恵み、神様の憐れみによって与えられていることを決して忘れることがないように、聖霊様が力を与えて下さるようにと祈っているのです。

 ダビデも、私たち一人一人も、主により選ばれてこの世に生きる者なっている者であり、主の前には罪人であることに違いはないのです。

 ダビデは、主が怒られる罪を犯しましたが、ダビデは真剣に主に悔い改めの祈りを捧げ、雪よりも白い信仰者にしてほしいと祈り願っていることから、私たち一人一人も常に主に悔い改めをることを忘れず、与えられた生涯を雪よりも白くされるよう祈り求めて行かなければならないのです。

 主は祈りにより、雪よりも白くなるように、洗って下さる御方であることを感謝しましょう。      

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