10月6日 10月13日 10月20日 10月27日

説教題:「全地に誉を得させるまで」

聖書:イザヤ書62章6〜12節

  今朝は、預言者の中でも偉大な預言者と言われているイザヤから御言葉を聞いて参ります。

 時は、紀元前8世紀つまり700年代に活躍した預言者ですが、若干25歳の時に神様により選ばれたのです。

 イザヤ書6章8節に「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、『ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください』。」と記されているように、主なる神様がイザヤに聞こえるように、預言者として誰を遣わそうかとの声を出したことで、イザヤは「わたしを遣わして下さい」と声を出したことで、預言者になったことが分かります。

 主なる神様が何処に遣わそうとしているのかというと、神様が選ばれたイスラエルの民の中へ遣わそうとしているのです。

 イザヤ書1章2節に「わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。」と記されていることから、選びの民イスラエル人たちが、主なる神様のみ教えから離れ、神様に背いているから、イザヤを預言者として、主なる神の元へ帰るように言わせるといっているのです。

 イスラエルの民がどのようなことをもって神様に背いているかということが強烈な言葉で語られていますが、1章3節を解釈すると「飼育している牛は、じぶんの飼主を知っており、餌を食べさせてくれている飼主をちゃんと知っているが、イスラエルの民は主なる神様の恵みによって生かされていることも知らず、その恵みが主なる神様によりもたらされていることを悟らない」と言っているのです。

 11節から15節迄に、選びの民イスラエル民族が行っている事は、13節「不義と聖会とに耐えられない」14節「新月と定めの祭りとは、わが魂の憎むもの、それはわたしの重荷となり、それを負うのにつかれた」15節「あなたがたが手をのべつ時、わたしは目をおおって、あなたがたを見ない。たとい多くの祈りをささげても、わたしは聞かない。あなたがたの手は血まみれである」と、主なる神様が嘆いておられるのです。

 ヨハネによる福音書4章24節にでイエス様が「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」と言われているように、選びの民イスラエルは、神様に対して献げ物とし、主なる神を礼拝してはいるが、その内容は欺瞞にみちていることから、主なる神様が「つかれた」と言われているのです。

 この言葉はイスラエルの民だけではなく、主イエス・キリストを信じた私たち異邦人キリスト者に対しても主なる神様がお疲れになることがないような信仰者でなければならないと認識しなければならないのです。

 そのようなイスラエルの民に対して、主なる神様の鉄拳を下そうと6章9節でイザヤに対して「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。」と命じているのです。

 この主なる神様の言葉は大変不可解なことは、選びの民イスラエルの人々に対して「あなたがたはイザヤからの預言を何度も何度も聞くがよい。しかしその預言を悟ってはならない。つまり「ああそうか、自分たちが神様に背いていたからイザヤを通して神に立ち帰れと言っているのだという気持ちになってはならないし、主なる神様の業を見ても、それが神様の業であるとわかってはならない。」つまり、イザヤが主なる神様の言葉を何度かたってもイスラエルの民は分からないし、悟こともしないと言っているからなのです。

 そこで、イザヤはこのような状況は6章11節12節で「主よ、いつまでですか」と、主なる神様に問いかけており、それに対して「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。」と答えられているのです。

 イスラエルは、北イスラエルと南ユダ王国の二つにわかれ、近隣諸国の脅威にさらされていたが、耐えず主の見守りの中で歴史を刻んできたにも関わらず、主なる神様を怒らせることばかりしてきましたが、主は62章1節において「シオンの義が、朝日の輝きのようにあらわれいで、エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、わたしはシオンのために黙せず、エルサレムのために休まない。」と、主なる神様はどのような状況に陥ろうとも、イスラエル民族が立ち上がり、イスラエル民族が再び主の選びの民として燃え上がるまで、決して黙っておらず、休むことをしないと言われているのです。

 6節をフランシスコ訳聖書で見てみると「エルサレムよ、お前の城壁の上にわたしは見張りを置く。終日終夜、彼らはひとときも黙ってはならない。主に思い起こさせる者よ、お前たちは休んではならない。」と記されているのです。

 この御言葉を私たちキリスト者に置き換えてみると「主なる神に選ばれた者よ、お前の心に御言葉という城壁を建て、終日終夜悪魔の攻撃に対して戦い続け、主なる神様の思いを大事にすることから離れてはならない」となりました。

 7節を原文でみると「主にあなたたちは沈黙を与えるな、主が堅く立てるまで。そして、主が全地の栄誉とするまで」と記されているのです。

 8節を原文でみると「主は主の右手で誓った。そして主の力ある腕で。わたしは再び、あなたの穀物を敵達絵の食物としてあたえない。あなたのぶどう酒を外国人の息子たちには飲ませない。それはあなたが苦労して収穫したものだから。」と主なる神様は約束されていることがわかります。

 9節の原文は「それを刈り入れ食べる者は、主を讃美する。そしてそれを飲む者たちは、主の聖所の庭々でできたものだから」と記されているのです。

 ヘブ語のコドショーという言葉は「聖所」という意味ですが、他の意味では「聖なる」とも訳すことが出来るのです。

 創世記1章において、主なる神様が天地万物され、一日一日お造りになる度に「神は見て、良しとされた」と言われ、31節において「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」と記されているように、主なる神様によって創造された全てのものは「聖なるもの」として造られたと考える事が出来るのです。

 10節を解釈すると「主なる神様は、大手を広げ待っていて下さるので、主イエス・キリストを信じ、バプテスマを受け信仰の道を歩み、福音の戦士として神の国の福音を伝え、悪魔の策略に屈することなく、それを乗り越え、自分の回りに居る人々に福音を伝えることをせよ」となります。

 11節を解釈すると「主なる神様は、全世界に主を信じる人々にその場所場所において神の国の福音を宣べ伝えさせ、キリスト者として証しをせよ」となりました。

 証しの内容として「見よ、あなたの救いは進んで来る。見よ、その報いは主と共にあり、その働きの報いは、その前にある」ということなのです。

 勿論、これはイザヤがイスラエルの民に対して、現在どのような苦境にあっていても、主なる神様は必ずイスラエルの民に誉を与えて下さるという預言ですが、私たち異邦人キリスト者に対しても、どのような状況であっても、最終的には主からの誉を受ける事ができると言っておられるのです。

 12節においてイスラエルの民が「聖なる民、主にあがなわれた者」ととなえられると記されているのです。

 「聖なる民」とは、コドショーという言葉は旧約聖書に115回登場する言葉ですが、詩篇23篇11節「彼らのあがない主は強くいらせられ、あなたに逆らって彼らの訴えを弁護されるからだ。」と記されているように、主なる神様は責任をもっていて下さる御方なのです。

 1948年5月14日にイスラエルは独立を宣言しましたが、紀元前723年にアッシリア帝国により北イスラエル王国が滅び、紀元前586年にバビロニア帝国により南ユダ王国が滅び、紀元1世紀にはローマ帝国に支配され、オスマン帝国、イギリスによる統治など、数千年亡国となったイスラエル民が再びイスラエル国が出来た事は、ただただ主なる神様が「イスラエル民族を決して滅ぼさない」と約束されているからなのです。

 私たちも異邦人でありながら、主イエス・キリストを信じる事により、神様に義とされるという誉を頂いていることを感謝いたしましょう。    

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