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説教題:「信仰と愛の胸当」

聖 書:テサロニケ人への第一の手紙5章1〜11節

 今朝は、パウロ先生がテサロニケ教会の信徒たち対して、1章1節に「パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」と挨拶しています。

 パウロ先生と共にシルワノという人の名前がありますが、シルワノという人はシラスのことで、恐らくヘレニスタイ、つまりデアスポラのユダヤ人でエルサレム出身だと言われています。

 シラスさんの事を少し見てみたいと思いますが、使徒行伝15章22節で「使徒たちや長老たちは、全教会と協議した末、お互の中から人々を選んで、パウロやバルナバと共に、アンテオケに派遣することに決めた。選ばれたのは、バルサバというユダとシラスとであったが、いずれも兄弟たちの間で重んじられていた人たちであった。」と記されています。

 先週アンテオケにおいて、主イエス・キリストを信じる人たちが増えていることについて御言葉を聞きましたが、イエス様のお弟子さんたちがいる、エルサレム教会は初代キリスト教会としては中心的な存在だったので、遠く離れた地域でキリスト者が増えていることは気になる事でもあったのですが、アンテオケ教会の実情を調べさるために派遣された人の中にシラスさんがいたのです。

シラスさんは、信仰的に大変熱心な人であり、おなじ信仰を持っている兄弟たちの間でも一目置かれる存在だったことから、選ばれたのでしょう。

 そして、使徒行伝15章32節に「ユダとシラスとは共に預言者であったので、多くの言葉をもって兄弟たちを励まし、また力づけた。」と記されているのです。

 シラスが預言者であったと記されていますが、預言者は旧約時代と新約時代の双方に存在したことになります。

旧約時代の預言者の存在は「主より言葉を預かって語る人」のことで新約時代の預言者は「聖霊により主の言葉を伝える人」と辞典に記されているのです。

つまり、旧約時代の預言者は直接主から御言葉を頂き、それを人々に取次ぐ人のことです。

新約時代の預言者は、聖霊様の働きにより、主の言葉が示され、それを伝えて行く人のことなのです。

 パウロ先生は、シラスさんと、パウロ先生が大変可愛がっていたテモテさんの三名の名前で書き送っていることから、テサロニケ教会の信徒一人一人に対して深い思い入れがあったことを推測できるのです。

 私たちも、この世での人間関係において、多くの人々との関係を持ちますが、ものすごく大切なひと、大切な人、まあまあ大切なひと、それほど大切とは思わない人と心の中で自然に区別しているものです。

しかし、その思いは神様が人間に与えられた自由な思いなので、自分の心の中で区別することは決して悪いことではないのです。

   パウロ先生はシラスとテモテを選んだことは、パウロ先生にとってこの二人がもの凄く大事な存在だったので、伝道旅行にも連れて行ったりしているのです。

 パウロ先生は、再臨待望者であり、常にイエス様が再臨されることを待ち望んで日々生活していたので、テサロニケ教会の人々にも5章1節2節で「兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。」と語っているのです。

 使徒行伝1章6節7節で、弟子たちが「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」とイエス様に質問すると「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」と答えられた後、8節で「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」と言われているのです。

 パウロ先生も聖霊を受け、伝道者として神の国の福音を伝えるために奔走しながら、再びイエス様がこの世に来られることを待望していたことが分かるのです。

 パウロ先生は、テサロニケ教会の信徒たちに5節で「あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。」と力強いメッセージを送っているのです。

 そうです、主イエス・キリストを信じ、バプテスマを受けた者は「光の子」なのです。

 天地創造のおり、神様が創世記1章3節で「 神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」と、地の面が闇に覆われている時光りを造ってくださり、地の面が光りで輝いたのです。

同じように、神様は主イエス・キリストを信じるものを、神様の光によって輝かせて下さっているので、たくましくこの世で生きる事が出来るのです。

 5節で、光の子は「夜の者でもやみの者でもない」と言われている事は、夜そしてやみに活動するのは悪魔なので、光の子は悪魔に支配されることはないと言われているのです。

 光の子であり続けるのは、8節「信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。」と記されているのです。

 「信仰と愛との胸当て」そして「救いの望みのかぶと」とは、なんと素晴らしい言葉なのでしょう。

 信仰とは、主イエス・キリストを神様の一人子と信じ、私たちの罪を贖う為に十字架上で死に、墓に葬られた後三日目に蘇り天に帰られ、全能の神様の右の座から信仰者を見守って下さり、しかるべき時再び地上に来られ、最後の審判を行うお方であることを、疑うこと無く、ただただイエス様に絶対の信頼を置き、この世で信仰者として生きて行く確信を持つことです。

 愛とは、アガペーの愛であり、隣り人を大事にすることに徹することですが、マタイによる福音書5章44節で、イエス様が「わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」と私たちに命じられていますが、自分に敵対するもの、自分を迫害するものに対しても、憎しみを持つのではなく、ただその人の為に祈ることは、その人を大事に思っているからなのです。

 マタイによる福音書7章1節2節「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」と記されているように、決して人をさばかないようにしなければならないと御言葉は私たちに語っておられるのです。



 コリント人への第一の手紙4章4節に「わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。」とパウロ先生も、自分の信仰者としての歩みについて、神様の前にやましいことはないと思っているが、しかし再臨時イエス様からさばかれるかもしれないと言っているのです。

 9節で「神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。」と知るし、神様は私たち信仰者を裁くためではなく、永遠の命を与えるように計画されているのだから、常に神様に悔い改めを忘れないようにすればいいと言っているのです。

 そして「救いの望みのかぶと」と記されていますが、私たちは常に悪魔のターゲットになっていることから、かぶとは敵から頭を守るものですが、ギリシャ語では頭を覆うものとあるので、悪魔はまず頭を攻撃してくるので攻撃から頭が信仰により覆われているならば撃退することが出来るという事なのです。

 10節において「キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。」と記されているのです。

イエス様が十字架上で死刑になられたのは、この世において生きている時も、一生涯が終り眠りについても「主と共に生きるため」だと言われているのです。

 イエス様は、天上から私たち一人一人を見守っていて下さることに感謝しましょう。

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