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説教題:「恐れてはならない」

聖 書:ヨハネによる福音書14章25〜31節

 今朝は、イエス様が弟子たちに14章1節から3節で「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」と語っている所から御言葉を聞いて参ります。

 「心を騒がせるな」と言っている事から、イエス様の弟子たちがイエス様の言葉によって心を騒がせている事になります。

 「心を騒がせる」という言葉は「かき回す、かき乱す、不安を感じさせる、動揺させる」という意味があるので、イエス様の弟子たちが平常心でいることが出来ない程、イエス様の言葉に動揺したのです。

 13章1節で「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り」と記されているように、いよいよ天のお父様によりこの世に派遣された自分が、再びお父様の所へ帰る時が来たことを知ったのは、過越の祭の前に弟子たちと晩餐をとるときだったのです。

 弟子たちは、これがイエス様との別れの食事になるなどとは想像もしていなかったので、イエス様が不可解な行動をあっけにとられていたのでした。

 イエス様が13章4節5節で「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。」と記されているのです。

 ユダヤ教で、ラビが弟子たちの足を洗って、ぬれた足の水を拭き取ることなど聞いた事も見たこともなかったので、7節「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」と弟子たちの疑問に対して先んじて語ったのです。

 イエス様が「あとでわかるようになるだろう」と言われたことは、今でもイエス様が意図した意味が分かっておらず、さまざまな解釈があることを紹介しておきます。

 「洗足」は、イエス様が弟子たちに行われたので、教会において字義通り受難週の木曜日の夜に洗足式を行う行為で、「献身的に仕えること・聖別すること」を意味していると言っている事。

 また、他人の足を洗うことは、謙遜を意味する行為だから、イエス様は人に対して謙遜する気持ちを忘れてはならないと教えておられると、同じように受難週の木曜日の夜に教会において、教会員同士が足を洗うことをしている教会があります。

 私は、ペテロさんがイエス様にたいして13章9節で「わたしの足を決して洗わないで下さい」と言った所、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」とイエス様が答えられたことに対してペテロさんが「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も足も」と言ったら、「すでにからだを洗った者は、足の他は洗う必要がない。全身がきれいなのだから」とイエス様が答えられたことにヒントがあるのではないかと考えたのです。

 つまり、イエス様の弟子たちは、すでにイエス様に選ばれて弟子になっている事から、完全に神の前に義とされるには、「足を洗う行為」はイエス様を神の御子と信じる事により神様の前に義が完成することを言っておられると思うのです。

 そのことの後に、13章33節で「わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったとおり、今あなたがたにも言う、『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』。」と、ご自分が弟子たちから離れどこかに行ってしまうと言われたことで、ますます弟子たちの動揺が激しくなっていったのです。

 イエス様の弟子たちは、イエス様が何処に行くにもついていっていたので、この言葉に対してペテロが36節で「主よ、どこへおいでになるのですか」と質問すると、イエス様が「あなたは付いてくることが出来ない」と言うと更にペテロが「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」と、動揺している心の内を言っているのです。

 イエス様はペテロの心の内を分かっておられたので38節「わたしのために命を捨てると言うのか。よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」と言ったのです。

 つまり、屈強なペテロでも、自分の命を捨てなければならないという状況になったら、命を捨てることが恐ろしくなることはイエス様は分かっていたから、鶏が鳴く前に三度イエスという人を私は知らないと言うだろうといっており、後にその通りのことがおこっているのです。

 14章では、トマスもピリポ、イエス様の裏切ったユダではないユダもイエス様に対して、わたしたちがついて行くことの出来ない所とは何処なんでしょうかとたずねているのです。

 イエス様の弟子たち全てが、イエス様の行動と言葉に動揺していることが分かっていたので、14章26節で「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」と、ご自分が御国へと帰られた後に、聖霊を助け主としてこの地上に派遣すると言われたのです。

 「聖霊きたれり」という聖歌576番がありますが、イエス様は今は天のお父様と一緒に御国において私たち一人一人も見ていて下さり、私たちの助け主として聖霊様を遣わして下さっているのです。

 聖歌576番で、如何なる国々にも、そこに住む全ての人にも聖霊が来ている事を宣べ伝えよ、悪魔の奴隷からイエスを信じる事により平安を受け、神の僕として事由の身となり、神様の愛と恵みとを全身に受けることを、語り継げ、神の子となるように勧めよ。神様に仕えている天使たちも、イエスを信じた信仰者たちも、神様の無限の愛を褒め称え、力強く地上において御言葉を宣べ伝えよと歌っているのです。

 イエス様は弟子たちに、14章29節において、ご自分が十字架の刑に処せられる前に、このことを語っていることは、今は理解出来ないかもしれないが、十字架刑に処せられ、墓に葬られ三日目に蘇ったときに、ご自分が全能の神の一人子であることを信じる為だと言っているのです。

 30節において「この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。」と言っておられ、18章12節13節で「一隊の兵卒やその千卒長やユダヤ人の下役どもが、イエスを捕え、縛りあげて、まずアンナスのところに引き連れて行った。」と記されているように、その時の権力に逆らうことなく捕縛されたのです。

イエス様がローマ帝国総督ポンテオピラトの前に引き出され、ピラトは「いったい、何をしたのか」と質問すると、イエス様は18章37節「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」と答えられ、この世の権力に従ったのです。

私たちが生きている中において、一番恐れていることは何でしょうか。

 それは、人は誰しも肉体の終わりが来ると言う事ではないでしょうか。

 イエス様は、ご自分の死をもって、それを私たちに示され、三日目に蘇ったことで、イエス・キリストを信じる事により、永遠の命を与えられることを示し、神様が与えて下さった命は、死んだとしても御国へ凱旋することが出来る永遠の命を与えられることから、決して恐れてはならないと言って下さっているのです。    

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