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説教題:「主のみ声」

聖書:ヘブル人への手紙3章12〜18節

今朝は、ヘブル人に宛てて書かれた御言葉から聞いてまいります。

 聖書には、ユダヤ人のことを三つの呼び方をしていることがわかりますが、その一つがヘブル人、イスラエル人と言っている事が分かります。

 まず、ヘブル人といういい方は、創世記14章13節に「ヘブル人アブラムに告げた。」と、アブラム後のアブラハム一族がヘブル人と呼ばれており、その後エジプトに奴隷として売られたヨセフも創世記41章12節で「侍衛長のしもべで、ひとりの若いヘブルびとがわれわれと共にいたので」とヘブル人と言われていたことが分かります。

 新約聖書では、ヘブル人が使う言葉をヘブル語といい、旧約聖書もヘブル語で書かれていることからヘブライ人の言葉となるのです。

 イスラエル人とは、創世記32章28節で、アブラハムの孫のヤコブが「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。」と神様がヤコブをイスラエルという名前にすることを命じたことから来ています。

 ヤコブの子供が12人いましたが、イスラエルの12部族と言われるようになり、現在でも12部族は世界中に離散しているのです。

 ユダヤ人は、創世記29章35節に「彼女はまた、みごもって子を産み、「わたしは今、主をほめたたえる」と言って名をユダと名づけた。」と、ヤコブがエソウから逃避しているとき、ラバンおじさんの所で一生懸命働いてレアという女性を妻にすることが出来、そのレアさんから生まれたの男の子の名前をユダと付けたところから、民数記1章27節に「ユダの部族のうち」と記されているように、ユダヤ民族に属する者がユダヤ人と言われるようになったのです。

 マタイによる福音書2章2節で「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。」と、イエス様のことをユダヤ人の王と言っていることから、イエス様はユダヤ教徒であり、ユダヤ教のラビであるということに繋がってくるのです。

 脱線しましたが、ヤコブへの手紙という表題は、ユダヤ人に充てた手紙であり、ユダヤ人であるが、主イエス・キリスト信じたユダヤ人に充てた手紙なのです。

 ヘブル人への手紙3章1節で「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。」と書き送られています。

 ここで、大祭司が登場しますが、大祭司とはイスラエルにおいて公職の最高位の祭司の地位であり、神様がモーセにお兄さんのアロンを大祭司にすることを命じ、その後レビ記21章10節に「その兄弟のうち、頭に注ぎ油を注がれ、職に任ぜられて、その衣服をつけ、大祭司となった者は、その髪の毛を乱してはならない。またその衣服を裂いてはならない。」とモーセのお兄さんアロンの祭司の中から選ばれた一人が大祭司になるのです。

 大祭司は、世襲制でありアロンの血筋のものが祭司、そして大祭司になりますが、イエス様の時代は、マタイによる福音書26節に登場する「カヤパという大祭司」は、紀元6年から紀元15年のとき大祭司であったアンナスの娘と結婚したことで大祭司の地位についたことから、当時アンナス家は大変ちからが強く、祭司全体を束ねていたと想像することが出来るので、マタイによる福音書26章4節でカヤパの中庭で「策略をもってイエスを捕えて殺そうと相談した。」と記されているように、大祭司がカヤパがイエス様殺害のためさまざまな動きをしていたことから、イエス様の十字架上の死刑の張本人はカヤパであったのです。

 ちなみに、日本の神社の宮司は世襲制なので、男児の跡継ぎが居ないときには、娘に婿をとって、宮司の跡継ぎとするので、大祭司と世襲制と同じかもしれませんね。

 日本の天皇家も、現在の天皇制度では、天皇は男性に限定されていることから、天皇家に男児が居ないときには女性天皇も考えなければならないという議論があることは皆の知るところですね。

 ユダヤ人キリスト者に書き送られている手紙の中で、今ユダヤ人達を牛耳っているカヤパというとんでもない大祭司ではなく、本当の大祭司であるイエス様を思うべきであると1節で書き送っているのです。

 3章12節を解釈すると「主イエス・キリストを信じた兄弟姉妹達、主イエス・キリストを信じた者の中には、神様から離れ、信仰から離れ、再び悪魔のそそのきに負けてしまい。隣人を貶めるような人に気を付けなさい」と言っているのです。

 この言葉から聞こえて来ることは、全能の神様を信じ、神様の御言葉のことを良く知っている者が、イエス様を信じた事により、信仰から離れることがあると、現在の私たちにも言われている事ではないでしょうか。

 13節を解釈すると「主イエス・キリストを信じているあなたがたの中にも、悪魔の誘惑に陥って、信仰がぐらつかないように、互いに励ましあいなさい」と言っているのです。

 そうです、信仰は神様のその人との一対一の関係であることは間違いないのですが、一人で悩まないように、悩むようになったなら、明日と言わず今日の内に兄弟姉妹に悩みを聞いて貰い励ましてもらいことが必要なことなのです。

 14節を解釈すると「私たちが、幼な子の心で主イエス・キリストを信じた時、聖霊様により大いなる恵みを頂いた確信を、一生涯持ち続けるならば、イエス様の再臨の時に、イエス様と共に御国へと携挙さる者となる」となるのです。

「幼な子の心」とは、どんなに年を経て、知識や知恵が増したとしても、それらの知恵知識を全て捨て、理屈抜きでイエス様が神様の一人子であるということを信じ通すことなのです。

 15節を解釈すると「幼な子の心の信仰を保つ事が出来ず、イエス様を信じる前に頑なな心だったことを思い出し、その頑なな心を打ち砕いて信じた時のように、神様から離れるような思いをもってはならない」となるのです。

 この信仰者の心の動きは、まさに神様が言われるように、日々信仰者の心が動いていることを知っておられる神様だから言われているものと思うのです。

 イスラエル民族は、どんなことがあっても、何千年の時が流れても、400年もの間エジプトの奴隷から解放され、四十年の間荒野を旅をしている間も、神様に背き続け、神様に背いた者が荒野においてしかばねをさらしたのは、神様が憤られたからではないか。

 18節19節を解釈すると「全能の神様が、約束の地カナンに入らせることはしないと、誓われたのは、だれに向かって誓ったのか。それは旅の間中神様に罪を犯し続け、決して悔い改めなかった者に対してであった。そうしてカナンに入る事が出来なかったのは、神様を信じる信仰を捨てたからであることがわかる」と言っておられるのです。

 私たちも、主イエス・キリストを信じる事で、神様に選ばれた一人になるのです。

 神様に選ばれた一人であることを、真剣に思い決して神様から離れず、御言葉に従い、生涯を信仰者として生き抜けと、主のみ声は私たちに言って下さっていることを感謝しましょう。  

 

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