10月6日 10月13日 10月20日 10月27日

説教題:「イエス・キリストの恵み」

聖書:ガラテヤ人への手紙6章11〜18節

 今朝は、パウロ先生がガラテヤ教会の人々に宛てた手紙から御言葉を聞いて参ります。

 パウロ先生は、挨拶の冒頭に1章1節2節で「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、 ならびにわたしと共にいる兄弟たち一同から、ガラテヤの諸教会へ。」と挨拶しています。

 長い歴史の中で手紙の冒頭は、拝啓、前略、それぞれある時候の挨拶、安否を気遣う言葉を書くことが慣例として行われていますが、最近は、スマホやメール時代であり、ラインやSMS等において相手に対して冒頭の挨拶は、こんにちは、こんばんは、お元気ですか?などと話し言葉になっていることから、いざ手紙を書くことになると戸惑うことがあると思います。

   パウロ先生が書いた13書簡の殆どが「自分はイエス・キリストの使徒」であると自分は主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストに従っている者として生きていることを冒頭に挨拶にしていることが分かります。

 パウロ先生にとって冒頭の挨拶に先ず書きたかったことは「自分はイエス・キリストの使徒であること」つまり主イエス・キリストを信じて神の国の福音を伝える為に生涯を捧げていると言う事を言いたかったのです。

 このパウロ先生の信仰姿勢は、異邦人の私たちも主イエス・キリストを信じ、神様により義とされていることを感謝しつつ、神様により派遣されている場所において「自分はクリスチャンである」と表明することが大切であることを御言葉は教えておられるのです。

 今朝の6章11節においてパウロ先生は「こんなに大きい字で、あなたがたに書いている」という言葉から、パウロ先生は目が大変弱かったと身体にハンデキャップがあったことが分かります。

 12節で「肉において見えを飾ろうとする者たち」と記されているように、人間は歳をとり経験を積むことで見栄をはったり、傲慢になったりしてくるものですが、歳と共に身体にさまざまな障害を持つようになることにより傲慢な心を戒めるため、神様が身体の不具合を生じさせるのではないかと思っているのです。

 私も難聴になり、補聴器をつけていますが、神様が私に対して決して傲慢にならないようにと難聴にされていると思っているので、難聴だからと言って悲観的に捕らえることはないのです。

 さて、ユダヤ教において、男の子が生まれると八日目に割礼つまりブリットをしますが、ユダヤ人としては大変重要なことであり、その男の子は割礼を受ける事により神との契約が締結されたことになるのです。

 もちろん、パウロ先生も割礼を受けており、神様との契約が締結されているユダヤ人ですが、パウロ先生はガラテヤ教会の教会員たちへ、割礼を受けても、神様のみ教えを守らないならば割礼を受けた資格がないと言っているのです。

 ガラテヤ教会の教会員は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が混在していたことで、当然ユダヤ人キリスト者は割礼を受けているので、割礼を受けていない異邦人キリスト者に対して、神との契約である割礼を受けることを強要していることは、ある意味当然な主張でもあるのです。

 ここでパウロ先生が強調していることは、14節「わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」と言っている事なのです。  なぜ、パウロ先生は主イエス・キリストが十字架上で死んだことを誇りにせよと言っているのでしょうか。

 それは、主イエス・キリストが十字架で死んだだけではなく15節で「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。」と記されているのです。

 新しく造られるとは「新しく生まれ変わる」ということなのです。

新しく生まれ変わるとは、二文字で「新生」という言葉になりますが、その意味は、詩篇104篇29節に「あなたが彼らの息を取り去られると、彼らは死んでちりに帰る。」と、神様は生きている人間から、神様が吹き込んだ息を引き取られると、肉体は死に焼かれてちり、つまり灰になると言われており、地の土から創造されたアダムとイヴは神様から息を吹き込まれることで生きる者となり、その息が神様によって引き取られることで再び土に帰るが、それで終わりではなく新しく生まれ変わることができると言っているのです。

もともとユダヤ教においては「新生」という概念がないので、主イエス・キリストを信じたとしても、従来からの神様との契約である割礼が重要だという思いから脱することが出来なかったのです。

主イエス・キリストにより新しく生まれ変わるということは、ローマ人への手紙10章9節で「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」と記されているように、幼な子の心を持って主イエス・キリストを信じ、バプテスマを受ける事により、新しく生まれ変わることが新生なのです。

使徒行伝2章38節で、ペテロさんが「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」と記されているのです。

先日も、教会に通ってはいるが信仰者ではない男性から電話がありました。

その内容は「人間は生まれながらに罪人と言われているので、自分も罪を犯し続けているのは、人間の性なのですか」との質問されたことです。

この世の多くの人々が聖書で語る罪に対して誤解していますが、聖書には二つの罪があると言われていますが、一つは、創世記においてアダムとイヴが神様の言いつけを守らなかったことで、人間が死ぬ身体になったということの罪です。

二つ目として、神様が選んだイスラエルの民が、神様の教えを守らないという罪のふたつであり、聖なる晩餐式の時「おのおのの罪を深く悔い改めなければなりません」という言葉は、神様の教えを守らなかった罪を悔い改めることなのです。

ですから、人は生まれながら罪人であるということは、人は生まれた時から肉体が死ぬ身体であるということを言っているのであり、神様は一人の人間を神様のご計画により、良い者としてこの世に送り出しているのです。

しかし、良き者としてこの世に生を受けた人間が悪魔のそそのきに乗ってしまい、神様のみ教えを聞かないようしてしまう罪のことなのです。

箴言19章21節に「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」と記されていますが、人が生きている間沢山計画をたてるが、神様がその人に建てた計画は堅く立っているということなのです。

エレミヤ書29章11節に「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」と素晴らしいことが記されているのです。

けれども、ミカ書4章12節に「しかし彼らは主の思いを知らず、またその計画を悟らない。」と記されているように、多くの人は自分に与えられた神様からのご計画を悟ることがなく一生涯を過ごしてしまうものだとも言っておられるのです。

神様のご計画を悟らないとは、悟らせないように悪魔がその人の心を惑わすからなのです。

パウロ先生はガラテヤ教会の教会員たちに対して17節で「だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。」と、神様に選ばれたものとして、神様のみ教えを守る生活をしてほしい懇願しているのです。

さらに17節の後半で「わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。」と言っているのです。

焼き印とは具体的にパウロ先生が伝道旅行中リストラにおいて石打の刑にされた時の傷跡や残った障害のことであり、主イエス・キリストを信じイエス様の奴隷であることの証しであることを言っているのです。

わたしたち主イエス・キリストを信じた者は、キリストの奴隷であるが、主により沢山の恵みが降り注がれていることを感謝しようではありませんか。



 

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