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説教題:「自らが刈り取る」

聖 書:ガラテヤ人への手紙6章6〜10節

 今朝与えられた御言葉は、ガラテヤ人への手紙です。

 この手紙は、1章1節2節に「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、ならびにわたしと共にいる兄弟たち一同から、ガラテヤの諸教会へ。」と記されている通り、パウロ先生とパウロ先生と共に伝道に携わっていた信仰者たちが、ガラテヤにある諸教会へ送っていることが分かります。

 所で、諸教会と記されているギリシャ語は、エクレシアの複数形ですが、ユダヤ教の礼拝場をシナゴーグといい、キリスト教の礼拝場はエクレシアと言っています。

 しかし、エクレシアという言葉は、ヘブル語のカハールという言葉をギリシャ語に訳した言葉であることから、カハールとは、シナゴーグを中心とするユダヤ人社会の事を言うことから、キリスト教会を中心とした、キリスト者の集まりと言い換える事が出来ると考えることが出来るのです。

パウロ先生はユダヤ人で、ラビでもあった人物なので主イエス・キリストを信じても、ユダヤ人であることに変わりはないのです。

 パウロ先生がラビであったということは聖書の何処にも記されていませんが、パウロ先生が使 使徒行伝22章3節で「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。」と記されている事から、当時ユダヤ教のラビの中のラビと言われたラビ・ガマリエルの元には、多くの人々が門下生となり勉強していましたが、ガマリエルの門下生になるためには、ラビではなければならなかったことからパウロ先生もラビだったので門下生になることが出来たのです。

 パウロ先生の冒頭の挨拶の中で「人々からでもなく、人によってでもなく」と言っていますが、パウロ先生自らが、自分が主イエス・キリストを信じて主の僕となっているのは、人から勧められたのでもなく、ただイエス・キリストを十字架刑により死んで墓に葬られたにも関わらず、全能の神様が一人子イエスを復活させたことを信じたことを強調しているのです。

 確かに、私たちはキリスト者や牧師の説教によりイエス様の話しを聞きますが、キリスト者や牧師は媒介者に過ぎないので、聞いた人が納得して、イエス様を神様の御子ととして信じたのではなく、ローマ人への手紙10章10節に「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」と告白するのは自分の意思により告白したのです。

 6章1節をフランシスコ訳聖書で見てみると「兄弟のみなさん、もし誰かが不意に誘惑に襲われ罪を犯したなら、霊に導かれて生きている人であるあなた方は、柔和な心でその人を正しい道に立ち返らせなさい。あなたも誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」と実に分かり安く訳されています。

 この言葉は、ガラテヤ教会の信徒達がサタンに心を奪われ教会を乱す事をしているならば、聖霊の助けを頂きながら、その人の間違いを優しい心を持って正しい信仰の道にもどしてあげなさいと言っていますが、大切な事は同じ穴のムジナにはなるなと言われていることです。

 悪魔は、人が柔和な心になることを大変嫌いますが、柔和な心になると悪魔は喧嘩を仕向けることが出来なくなるからなのです。

 2節は「互いに重荷を担い合いなさい。そのようにすれば、キリストの律法を全うすることになります。」とあります。

 そうです、神様の教えは613ありますが、教えを守る事は自己中心である人間にとっては重荷なので、お互いがその重荷を担って行くことにより、主が喜んで下さる信仰者として歩みが出来ると言っているのです。

 3節は新改訳聖書改訂3で見てみると「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」と訳されているので、一番分かり安いのではないかと思います。

 そうです、神様に立派だと言われる人物は、主の御言葉に従って歩んでいる人であり、御言葉に従っていなければ、立派でも何でもないのです。

 マタイによる福音書22章15節から21節において、パリサイ人たちが、イエス様を貶めようとして、ローマ帝国に治める税金を納める必要があるかとシモンしたことに対して、イエス様が「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と言って「偽善者たち」と質問した人に対して言っているのです。

 イエス様はパリサイ人たちに、聖書の教えに神のものを神に返さなければ、盗んでいることになるとマラキ書にあるにも関わらず、それをしないでその質問をすることは本末転倒だと言っているのです。

 4節を再びフランシスコ訳聖書で見ると「各自自分の行いを検討してみなさい。そうすれば、自分にだけは誇れても、他人に対して誇ることはできないでしょう。」と訳しているのです。

 この御言葉も信仰者のあり方を分かり安く語っていますが、「人の振り見て我が振り直せ」と言われていますが、人の振りばかり見て、自分の振りを直す気が全く無い人がガラテヤ教会にいると言っているのです。

 5節は「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負っているからです。」と訳され、口語訳聖書では「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである」と訳されています。

 信仰者一人一人が「重荷」を抱えていると言っており、重荷とはマタイによる福音書11章28節でイエス様が「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」と言われているのです。

 一人一人の重荷はその人の人生そのものであり、その人が担って行かなければならないことで、人がその重荷を担ぐことを担うことが出来ないのです。

 神様の御言葉が記されている聖書は、信仰者の道しるべであり、6節には「み言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と善いものをすべて分かち合いなさい。」と記されているのです。

 この6節の大事なことは、御言葉は聖霊様によって取次がれ、語られなければ善いものではないことなのです。

 聖霊様の導きにより語られた御言葉を善きものとして受けいれることが出来、語った人も聞いた人も心に平安が与えられるのです。

 7節では「思い違いをしてはいけません。神は人から愚弄されることはないのです。人は自分の蒔いたものを刈り取ります。」とフランシスコ訳聖書は訳しています。

 「神は愚弄されることはない」と訳されており、「愚弄」というギリシャ語は「ばかにする、侮る、愚弄する」という意味がありますが、イザヤ書45章9節に「陶器が陶器師と争うように、おのれを造った者と争う者はわざわいだ。粘土は陶器師にむかって『あなたは何を造るか』と言い、あるいは『あなたの造った物には手がない』と言うだろうか。」という御言葉があります。

 全能の神様は、人間を土(アダマー)から水を加え粘土にしてから神様の形に整え、神様の息を吹き込むことで生きた者となったが、造られた人間が神様に対して文句を言っていると記されているのです。

 神様によって造られた人間が、神様を馬鹿にしたり、侮ったり、愚弄したりすることは出来ない存在であり、預言者エレミヤも19章11節で「万軍の主はこう仰せられる、陶器師の器をひとたび砕くならば、もはやもとのようにすることはできない。」と言っているのです。

 今朝は「自らが刈り取る」という説教題は、6節の「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」から付けましたが、刈り取るものは良いものを刈り取るのも悪いものを刈り取る二つの意味があることを聞けたことを感謝しています。    

     

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