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説教題:「信仰者の姿勢」

聖 書:テサロニケ人への第一の手紙3章11〜13節

  今朝の聖書箇所は1章1節に「パウロとシルワノとテモテ」と三人からテサロニケ教会の人々へ宛てて書いた手紙です。

パウロ先生と一緒に出てくるシルワノさんとテモテさんについて見てみると、シルワノさんはシラスさんのことで、パウロ先生の第二回宣教旅行に同行してコリントまで行った人物です。

三名連記で挨拶している聖書箇所は、コリントにある教会とテサロニケにある教会で、ペテロ第一の手紙5章12節で「忠実な兄弟として信頼しているシルワノの手によって」と記されているように、使徒ペテロからも信頼されていた人物であったことが分かります。

注目することは、パウロ先生はイエス様の直接の弟子たちからは使徒と認められていませんでしたが、シラスさんは両方の立場の人から信頼されていたので、使徒行伝15章22節には「バルサバというユダとシラスとであったが、いずれも兄弟たちの間で重んじられていた人たちであった。」と記されているとおり人望ある人物で、使徒行伝15章32節には「ユダとシラスとは共に預言者であったので、多くの言葉をもって兄弟たちを励まし、また力づけた。」と記されているのです。

神の国の福音を伝えて行くために、主なる神様が人望がある人物を主の僕として選んでおられることが分かるのです。

次にテモテさんですが、使徒行伝16章1節に「ルステラに行った。そこにテモテという名の弟子がいた。信者のユダヤ婦人を母とし、ギリシヤ人を父としており」と記されている事から、ギリシャ人の父親とユダヤ人の母親から生まれたのがテモテさんだったのです。

ここでおさらいですが、お父さんはルステラ(小アジアの南部)に住んでいたギリシャ人なので、一般的にテモテはギリシャ人になりますが、お母さんがユダヤ人でしたので、血筋的にはユダヤ人になることから、テモテはギリシァ語ですが、ギリシァ語の意味でも「神を崇める」という名前をつけていることから、父親もユダヤ教に関心を持っていた人物かもしれませんね。

ユダヤ人の定義は、ユダヤ人の両親から生まれた子供はユダヤ人とされ、異邦人の父親とユダヤ人の母親から生まれた子供はユダヤ人とされ、ユダヤ人の父親と異邦人の母親から生まれた子供は、異邦人とされるのです。

テモテへの第二の手紙1章5節には、パウロ先生が「あなたがいだいている偽りのない信仰を思い起している。この信仰は、まずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケとに宿ったものであったが、今あなたにも宿っていると、わたしは確信している。」とテモテさんの祖母とお母さんとテモテさんの三代とも熱心なユダヤ教徒であったことがわかるのです。

そして、テモテへの第一の手紙5章23節で「これからは、水ばかりを飲まないで、胃のため、また、たびたびのいたみを和らげるために、少量のぶどう酒を用いなさい。」とパウロ先生が勧めているように、テモテさんは丈夫な身体ではなかったのです。

主なる神様は、神の国の福音を伝える為には、パウロさんという指導力、人望の厚いシラス、身体は弱いが岩盤の上に立っているような信仰のあついシラスさんを選んでいることが分かります。

イエス様の身体なる教会は、さまざまな人たちにより形成されていますが、コリント人への第一の手紙12章28節に「神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた。」と、一人一人が教会の中で奉仕する場所があると言われているのです。

今朝は、短い箇所なので3章1節から見て行くことにしますが「わたしたちはこれ以上耐えられなくなって、わたしたちだけがアテネに留まることに定め、」と、パウロ先生がテサロニケ教会の現状にたいして「耐えられなくなって」と言っているのです。

当時テサロニケ教会の人々は、迫害と患難の中でも信仰を保ち、成長はしていましたが、パウロ先生がその状況を聞くに及んで我慢がならず、2節3節で「わたしたちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者テモテをつかわした。それは、あなたがたの信仰を強め、このような患難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますためであった。あなたがたの知っているとおり、わたしたちは患難に会うように定められているのである。」と身体は弱いが信仰に厚いテモテさんをテサロニケ教会へ派遣したのです。

テサロニケ教会はギリシャの北部の町で、アテネに次ぐ第二の都市と言われ、経済、産業、商業の中心なので、この町において主イエス・キリストを信じキリスト者として生活して行くことは困難をきわめたことでしょう。

3章5節には「試みる者」があなたがたを試み、そのためにわたしたちの労苦がむだになりはしないかと気づかって、あなたがたの信仰を知るために、彼をつかわしたのである。」と記されているのです。

パウロ先生は、信仰者に対して「試みる者」つまり主なる神様に逆らうサタンの存在を常に警戒しており、サタンは信仰者を主なる神様から引き離し、マルコによる福音書4章15節「サタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。」とせっかく永遠の命の道を苦労しながら歩いているその歩みを無駄にしてしまうように仕向けることを知っていたからなのです。

6節では、テモテさんがテサロニケ教会から戻りパウロ先生の報告で「あなたがたの信仰と愛とについて知らせ、また、あなたがたがいつもわたしたちのことを覚え、わたしたちがあなたがたに会いたく思っていると同じように、わたしたちにしきりに会いたがっているという吉報をもたらした。」と喜んでいるのです。

パウロ先生は、苦難の中で信仰を保ち続けている報告を受け、7節8節で「兄弟たちよ。それによって、わたしたちはあらゆる苦難と患難との中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められた。なぜなら、あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きることになるからである。」と、逆に励まされたと言っているのです。

主イエス・キリストを信じ、幼な子の信仰を保ち続け、その人に与えられた生涯を「主にあって堅く立ち」歩み続けることは、本当に難しいことなのです。

11節に「どうか、わたしたちの父なる神ご自身と、わたしたちの主イエスとが、あなたがたのところへ行く道を、わたしたちに開いて下さるように。」とパウロ先生は、幼な子の信仰だけではなく、10節で「信仰の足りないところを補いたい」と願っているのです。

使徒行伝11章24節に「聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである」と記されているように、聖霊と信仰に満ちていなければならないと言っているのです。

主イエス・キリストを信じた者は、マタイによる福音書23章19節に「父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し」と記されているように、全能の神様と御子であるイエス・キリストと、聖霊様の名によりバプテスマを受けたことで、マタイによる福音書12章33節で「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」と記されているのです。

3章12節には「主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように。」と願っているのです。

イエス様は、主なる神の教えで大切なことは、ルカによる福音書10章27節で「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」と、申命記6章5節「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」とレビ記19章18節「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」を引用されているのです。

主なる神様を信じ、隣人を大事にし生涯を送るならば、13節を解釈すると、主イエス・キリストが再び来られたとき、イエス様の前において正しい審判を受けることができる者となるように、信仰者としての姿勢を保ち続けることが大切だと御言葉は教えておられるのです。  

     

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