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説教題:「わが救いの神を待つ」

聖 書:ミカ書7章1〜7節

 今朝は、預言者ミカから御言葉を聞いて参ります。

 預言者ミカは、1章1節に「ユダの王ヨタム、アハズおよびヒゼキヤの世に、モレシテびとミカが、サマリヤとエルサレムについて示された主の言葉。」と記されている事から、南ユダ王国の11代ヨタム、12代アハズ、13代ヒゼキヤの時代、紀元前742年から687年の間に預言者として主のご用に携わっていたので、北イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされたのを目の当たりにしていたのです。

 この時代は預言者イザヤと同じ時代であり、イザヤはエルサレムで生まれましたが、ミカはエルサレムから約30`離れたマレシャ(モレシェテ)で生まれ、都会のエルサレムとは違い田舎町の出身でした。

 マレシャは肥沃な丘陵地であり、ユダの山々が連なり、風光明媚な所で、エルサレム迄は1日程歩かなければならなかったのです。

 イスラエルという国は、サウルという王様によって建国され、ソロモン王が亡くなると、イスラエル12部族は、10部族が北イスラエル王国を作り、2部族が南ユダ王国と国が分かれてしまったのです。

 四国程の面積の中で、二つに分かれた国は、エジプト、アッシリア、バビロニア等大国の脅威にさらされ、苦難の道を歩んで来ましたが、全能の神様に頼ることをせず、人間的思いを優先し、隣国の強硬な意見に従うことで、エルサレム神殿に偶像を持ち込んだりしたことで、神様を怒らせる結果におわったのです。

 人間的な思いであった外交政策は失敗に終り、北イスラエル王国はアッシリア帝国の力にねじ伏せられ、国は滅亡してしまったのです。

ミカ書1章9節で「サマリヤの傷はいやすことのできないもので、ユダまでひろがり、わが民の門、エルサレムまで及んでいる。」と言っているのです。

 この9節を解釈すると「アッシリア帝国に滅ぼされた、北イスラエル王国の首都であったサマリヤはもはや復興を望ことができなくなり、南ユダ王国の首都であるエルサレムにもその隣国の脅威は迫っている」と聞く事が出来るのです。

 そのように、隣国の脅威があるにも関わらず、ミカ書6章3節で「わが民よ、わたしはあなたに何をなしたか、何によってあなたを疲れさせたか、わたしに答えよ。」と、主がイスラエル民族を愛しているにも関わらず、お前達が罪を犯し続けていることに対して、どう答えるのかと言っているのです。

 隣国の脅威だけではなく、南ユダ王国の人々の中に、ミカ書2章1節2節では「その床の上で不義を計り、悪を行う者はわざわいである。彼らはその手に力あるゆえ、夜が明けるとこれを行う。彼らは田畑をむさぼってこれを奪い、家をむさぼってこれを取る。彼らは人をしえたげてその家を奪い、人をしえたげてその嗣業を奪う。」と記されているのです。

 南ユダ王国の中で権力をもった人々は、権力の無い人のものを奪ってしまうことを言っているのです。

 ミカ書6章12節で「あなたのうちの富める人は暴虐で満ち、あなたの住民は偽りを言い、その舌は口で欺くことをなす。」と言っていますが、これはエルサレムのことで、宮古の金持ちは不法で満ちており、エルサレムに住んでいる人びとは偽りを語り、口から出る言葉は欺瞞に満ちていると解釈出来るのです。

 預言者ミカは、ミカ書3章11節で「そのかしらたちは、まいないをとってさばき、その祭司たちは価をとって教え、その預言者たちは金をとって占う。しかもなお彼らは主に寄り頼んで、「主はわれわれの中におられるではないか、だから災はわれわれに臨むことがない」と記されているのです。

 この言葉は、ユダヤ教の指導者たちは、裁判の時に被告側から賄賂を受け取り、被告側に有利な判決をだし、エルサレム神殿で奉仕する祭司達は、お金をくれた人には御言葉を教え、預言者たちはその人がくれるお金によって占いをすると、内部の腐敗ぶりを指摘しているのです。

 そのように、神様に罪を犯し続けている者たちでも「主を信じている自分たちは、主により守られているので、決して災いはこないから大丈夫だ」と言っているのです。

 預言者ミカは、ミカ書3章12節で「それゆえ、シオンはあなたがたのゆえに、田畑となって耕され、エルサレムは石塚となり、宮の山は木のおい茂る高い所となる。」と言っているのです。

 シオンとはエルサレムのことで、このミカの預言は、紀元前587年にバビロニア帝国によりエルサレム神殿が壊されたことと、紀元70年にローマ帝国によりエルサレム第二神殿が徹底的に壊されることを預言しているのです。

 預言者ミカは、7章1節を新共同訳聖書で見てみると「なんと悲しいことか。私は夏の果物を集める者のように、ぶどうの積み残しの実を集める者のようになってしまった。食べられるぶどうの房はなく、私が好む初なりのいちじくもない」と記されているのです。

 2節は「忠実な人はこの地から絶え、正しい者は人々の中にはいなくなってしまった。誰もが皆、血を流そうと待ち伏せして、互いに網で捕らえようとする。」と訳されていますが、主への純粋な信仰者を見つけることが出来ず、信仰者たちがお互いをけん制しあい、あわよくば貶めようとしていると言っていることなのです。

 3節は「その手は悪事にたけ、高官と裁判官でさえ報酬を要求する。有力者も欲のままに発言し、真実をねじ曲げる。」と記しているのです。

 権力を握り、富を得た者は、更なる富を求めて不正を働く者のことですが、これは古から現在に至るまで少しも変っていない人間の性なのです。

 4節で「彼らの中の最も善い者も茨のようであり、最も正しい者も茨の垣のようだ。彼らの見張り番の日、彼らの刑罰の日がやって来た。今、彼らが混乱する時だ。」と記されているのです。

 不正を働いている者の中で「あの人はいい人だ」と言われる人であっても、その人はトゲが全身を覆っていると言っているのです。

そのような人は、主イエス様が再び地上に来られる再臨の時に、イエス様の前に出された時に、山羊の方に降り分けられることで後悔する」と言う事なのです。

 最近、大韓航空ナッツ・リターン事件の事を放映していたので、事件の内容をつぶさに知る事ができましたが、副社長が権力を笠にし、ケネディ空港において飛行機を戻させ、添乗員の責任者を飛行機から降ろしてしまった事件でした。

 この副社長の行動は、常識的に考えてみても常軌を逸していることですが、本人はそれに気がつかないからであり、この暴挙にでたのです。

これは、副社長が悪魔が権力を握らせ、富を与えたことを気がつかないことで起った事件なのです。

 5節で「あなたがたは友を信じるな。親しい友も信頼してはならない。あなたの懐に安らう女からも、自らの口の戸を守れ。」と記されており、口語訳聖書では「あなたがたは隣り人を信じてはならない。友人をたのんではならない。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。」新共同訳聖書では「隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも、お前の口の扉を守れ。」そして新改訳聖書では「友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。」と各聖書は訳しています。

 5節の全体像は「人は信じてはならない。どんなに親しい友であっても、こころから頼ってはならない。親しくなった異性に対して、人に話してはならないと思う事を話してはならない」と言っているのです。

 「信じる」ピステオーというギリシャ語は「自分の行為の義への信頼を捨てて、神から与えられた義であるキリストへの信頼に全面的に切替える」という意味であり、人を信じることをイエスを信じることと一緒にしてはならないと言う事なのです。

 人は信じる対象ではないので、6節で「息子は父を侮り、娘は母と、嫁はしゅうとめと対立する。人の敵は家の中の者である。」と言っており、これが普通の人間の関係だと言っているのです。

 預言者ミカは、だからこそ自分は7節で「私は主を仰ぎ見、わが救いの神を待つ。わが神は私に耳を傾けてくださる。」と言い、どのような状況に置かれようとも、わが救いの神を待ち、私の祈りに耳を傾けて下さると言っているのです。

 この預言者ミカの預言は、信仰者一人一人を励まして下さっていることを感謝しましょう。    

     

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