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奨励題:「隅のかしら石」

聖 書:使徒行伝4章5〜12節

   今朝は、ユダヤ共同体の中で厄介な出来事が勃発していることで、ユダヤ教の指導者たちが頭を悩ませていることから、当時どのようなことが起っていたかを検証してゆきたいと思います。

 今朝の4章1節で「彼らが人々にこのように語っているあいだ」と記されている、彼らとは3章1節に「ペテロとヨハネとが、午後三時の祈りのときに宮に上ろうとしていると」と記されているように、イエス様の弟子ペテロさんとヨハネさんが、午後三時の祈りを捧げるためにエルサレム神殿に行こうとしていたときのことです。

 これから起ることは、有名な箇所で、生まれながら足が不自由だった男性がペテロとヨハネを見て、施しを要求したときにペテロさんが3章6節で、わたしたちは金貨も銀貨も持っていないが、ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がって歩けと命じたところ、二人と共に歩き出したことで、この男性は沢山の人々に知られていたので、その出来事に仰天したのです。

 二人は、多くの人々に、ローマ帝国の総督ピラトがイエス様を許そうとしたにもかかわらず、それを拒み、我々の聖なるイエス様を十字架の磔にさせ殺してしまったではないか。

 しかし、全能の神様がイエス様を蘇らせたことで、イエスを信じる信仰による癒しの業が、この足なえの男性によって示されたのだと語った時に、ユダヤ教の指導者たちもそのことを聞いていたのです。

 ペテロさんもヨハネさんも、実際にイエス様による癒しの業を目にしたことで、ますます神の国の福音を力強く語った事でしょう。

 面白くないのは、4章1節に記されているように、祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちだったのです。

 祭司達は、イエス様の時代七千人ほど存在したことが分かっていますが、エルサレム神殿において祭儀を司るために24組わけられていることが、歴代志上24章に書かれていますが、当番になっている一組の300人が常時エルサレム神殿にいたことが分かります。

 また、宮守がしらとは「神殿長」のことでレビ人であり、大祭司に次ぐ祭司職なので、エルサレム神殿を警備する最高指揮官だったのです。

 そして、サドカイ人達ですが、ユダヤ共同体には、サドカイ人、パリサイ人と大きくわけると二つ存在しており、サドカイ人は死人に復活はないと断言している人たちなのです。

 祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちは、ペテロさんとヨハネさんが力強く、4章2節で「イエス自身に起った死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て」と、二人が話していることに我慢が出来なかったのです。

 なぜ、ユダヤ教の指導者たちは、二人の宣教に我慢が出来なかったかというと、二人がユダヤ教の教えの中で決してあってはならないことを話していたことであり、二人の話を聞いて賛同する人々が続出し、男性だけでも五千人もの人々が二人の話しを聞き、イエス様を信じたからなのです。

 ユダヤ教の指導者たちは、実力行使で二人を捕縛し監禁し翌朝二人を諮問会議に引き出すことにしたのです。

 4章5節に「明くる日、役人、長老、律法学者たちが、エルサレムに召集された。」と記されていますが、恐らく捕縛した日には、伝令により、明日のサンヘドリンの会議に出席するように議員たちには命令書が送られていたと思うのです。

 この諮問会議には、さらに4章6節に「大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。」と大祭司の一族もその場に馳せ参じたことから、ものすごく重要な会議となったことが分かります。

 4章7節では、会議の真ん中に立たされた二人に対して尋問が始まったのですが、最初に「何の力で、あるいは何の名でこれをあなたがたはしたのか」と質問したのです。

 この質問は暗に「イエス・キリストの力で、イエス・キリストの名によって、歩けなかった人を歩けるようにした」ということを質問者自らが言っているようなものだと分かりますが、あえて質問者はイエス様の名前を口にしないという決意を感じるのです。

 そうです、問題はイエス様の弟子たちのことではなく、イエス様ご自身のことを問題にしているのです。

 4章8節で、ペテロさんが聖霊に満たされて言ったと記されている事が重要なことなのです。

 ペテロさん自身は、人間的な思いであれば、そうそうたるメンバーの真ん中に立たされたことで怖じ気づいたかもしれませんが、その怖じける気持ちを聖霊様が助けてくださったことが分かります。

 私たちも、さまざまな場面で怖じけることがあるでしょうが、聖霊様に満たされる時にその怖じ気が吹き飛んでしまうのです。

 8節で、ペテロさんが聖霊に満たされて話した事は「民の役人たち、ならびに長老たちよ」と、冒頭において質問者全体に対して語り出したことなのです。

 その内容は、自分たちが取り調べを受けていることは、生まれつき歩く事ができなかった男性を歩けるようにした良いことをしたことであって、なぜ歩けるようになったかということについてであるならば、ユダヤ共同体を取り仕切っているあなたがたや、イスラエルの殆どの人に知ってもらいたいことだと言っているのです。

 その知ってもらいたいとは、先頃皆が知っているように、一人のナザレ人であるイエスという人物が、十字架の磔になろうとした折り、ピラトは許そうとしたが、ユダヤ教の指導者達はそれを却下し、イエスを十字架上で殺してしまった。

 しかし、全能の神の一人子であるイエスを、神はそのままにはされず、イエスが墓に葬られてから三日目に復活させたことにより、主イエス・キリストを信じるものは永遠の命を受ける事が出来ることを示されたのである。

 イエス・キリストは、救いの神でもあるが、癒しの神でもあるので、そのイエス・キリストの名によって、生まれつき歩けなかった人を歩けるようにしたことをあなたがたにも知ってもらいたいと言ったのです。

 4章11節で、イエス様こそ「あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石」と言っているのです。

 イエス・キリストを信じる事は、信仰の基礎を据えることであり、12節で「この人による以外の救いはない」と断定しているのです。

 そしてまた、12節でイエス・キリスト以外、永遠に至る道に導くことは誰にも与えられていないと言っているのです。  

 

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