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説教題:「霊の思いは、いのりと平安」

聖 書:ローマ人への手紙8章1〜11節

この手紙は、1章1節に「使徒となったパウロから」と記されているように、パウロ先生がローマ教会に宛てた書いた手紙です。

 イエス様の時代、ローマ帝国によってイスラエルの人々は隷属していましたが、ローマ帝国とは紀元前753年から紀元後395年ローマ帝国が東西に分裂する迄の1148年間、古代ヨーロッパに君臨した大国だったのです。

 ローマ帝国は、経済、文化、軍事ともに当時の世界ではナンバーワンと言われ、他民族国家でもあったので、宗教的にも柔軟な姿勢でしたが、ローマ皇帝を崇拝することが認められていたため、皇帝崇拝をしないキリスト教徒に対しては弾圧の姿勢をとっていたのです。

 イエス様が死刑になった事は、確かにユダヤ教徒として、神以外に御子の存在を語るイエスを抹殺しなければならないという思いで、当時ユダヤ教に認められていなかった死刑を代わりにローマ帝国に依頼したかたちでしたが、ローマ帝国としても、皇帝崇拝をしないイエスを死刑にすることを承諾したという背景があると思うのです。

 ローマ帝国のキリスト教弾圧にも関わらず、パウロ先生の神の国の福音を語る働きは大きなもので、信徒の数が増し、とうとう紀元後392年にはローマ帝国の国教としてキリスト教が認められたのです。

 パウロ先生は、徹底的にイエス・キリストが全能の神様の一人子であることを、全能の神様以外に神の存在はないと思っているユダヤ人たちに語ることにより、ユダヤ人からの反発はそうとうなものであり、コリント人への第二の手紙11章24節で「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。」と、ムチ打たれた回数を覚えていたのです。

 この中で「四十に一つ足りない」と記されていますが、それは申命記25章2節3節に「その悪い者が、むち打つべき者であるならば、さばきびとは彼を伏させ、自分の前で、その罪にしたがい、数えて彼をむち打たせなければならない。彼をむち打つには四十を越えてはならない。もしそれを越えて、それよりも多くむちを打つときは、あなたの兄弟はあなたの目の前で、はずかしめられることになるであろう。」と記されているように、ユダヤ教共同体において、ムチ打ちの刑に定められた人は、39回のムチ打ちを受けなければならないという背景があったのです。

 マルコによる福音書15章15節に「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。」とイエス様はローマ帝国によりムチを打たれたのですが、一節によるとローマ帝国の39回とユダヤ教にならった回数でムチを打たれたと言われているのです。

 パウロ先生は、神の国の福音を宣べ伝える事で、自分に死が訪れるという覚悟をもっていたことから、使徒行伝21章13節で「あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ」と記されているのです。

 また、パウロ先生は使徒行伝17章28節で「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」と、人が生きているのは神様の御手の中にあると言っているのです。

 ローマ人への手紙6章10節において「キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。」とパウロ先生が言っているのです。

 今朝の8章1節をフランシスコ訳聖書でみると「それ故、キリスト・イエスと結ばれている者には、もはや死の宣告はありません。」と、イエス・キリストを信じることにより、死刑の宣告がないと言っているのです。

 その理由を2節で「キリスト・イエスにある命をもたらす原理としての霊が、あなたを罪と死の原理から解放してくれたからです。」と記されているのです。

 人間は永遠に生き続けるのではないことは誰もが知っていることですが「罪と死の原理」と記されている事は、全能の神様がアダムとイヴを創造された時に遡らなければならないのです。

 3節で「すなわち、肉の故に無力であった律法のなしえなかったことを、神は成し遂げられました。神は、罪を償う犠牲として御子を罪深い肉と同じ姿で遣わし、肉において罪を罪と断定されました。」と記されているのです。

 この2節3節を解釈すると「神様が土(アダマー)からアダムを造られ、アダムに伴侶を与える為に、アダムを眠らせアダムの側面をとり、その側面から伴侶となるイヴを創造され、エデンの園において何不自由なく過ごさせていたが、ただ一つ園の真ん中にある木の実を採って食べてはならないこと、食べると死ぬことがない身体が死ぬようになってしまうから決して食べてはならないと神様は命じたが、二人は悪魔にそそのかされ、その実を食べてしまったので死ぬ身体になって、それから生まれる人間が全て死ぬ身体になっていることから、神様から命じられた事を破り、木の実を食べた事が罪と断定されていることである」ということなのです。

 人間を創造された神様が、人が死ぬ身体のままであることを哀れにおもい、御子イエス様を人間として人間の世界に遣わし、イエス様を実際の人間として十字架上で死刑、つまり死なせ、使徒行伝2章24節に「神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。」と、イエス様を復活させることで、悪魔の思惑を打ち崩したのです。

 主イエス・キリストを信じる事により、父と子と聖霊の名によりバプテスマを受けるものは、5節に「肉の指図のままに生きる者は、肉のことを思い、霊に従って生きる者は、霊のことを思います。」と今までの生き方と180°ことなる生き方になると言っているのです。

 6節において「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。」と記されているように、主イエス・キリストを信じ、信仰者として御言葉に従って歩む者は、常に神様のことを思い、神様に祈り、そのことにより聖霊様が宿って下さり、こころ平安に過ごす事ができるが、主イエス・キリストを信じない者は、ただ死だけが待ち受けその心は不安にさいなまれると言っているのです。

 その理由が、7節で「肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わない、いえ、従うことができないからです。」と記されているのです。

 8節で「肉の指図のままに生きている者は、神に喜ばれません。」といわれる人はどのような人なのでしょうか。

 そうです、人は神様を信じていようといまいと、神様によって造られていることに変わりはないのですが、信じていない者は、自分に都合よく物事を考え、人の思いを踏みにじり、隣人を大事にしないことから、神様はその人を喜ばしく思っていないのです。

 9節で「神の霊があなた方に宿っているかぎり、あなた方は肉の支配のもとにあるのではなく、霊の支配のもとにあるのです。キリストの霊を持たない者は、キリストのものではありません。」と記されているのです。

 この御言葉の前半は、素晴らしい御言葉で、聖霊様のご支配のもとに信仰生活を続けている限り、心は常に平安だと記されているのですが、後半は聖霊様の支配ではなく悪魔の支配に心が奪われているならば、主イエス・キリストの庇護のもとには居ないといっておられるのです。

 11節で締めくくっていますが「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなた方のうちに宿っているなら、キリストを死者のうちから復活させた方は、あなた方のうちにおられるその霊によって、あなた方の死ぬべき体をも生かしてくださるのです。」と言われているのです。

 私たちは、無条件に主イエス・キリストを信じることが許されていることに感謝いたしましょう。       

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