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説教題:「神の力」

聖 書:ローマ人への手紙22章15〜22節

 先週は、全能の神様がイエス様の代わりに聖霊をこの世に送って下さった聖霊降臨日でした。

 使徒行伝1章8節でイエス様が天に帰られる前弟子たちに「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」と言われたことが、現実のこととなり、弟子たちに聖霊が降臨してから現在に至るまでこの世において、聖霊様が私たちの助け主として動いて下さっているのです。

 聖霊様は、主イエス・キリストを信じている、信じていないに関わらずこの世で活動されていますが、聖霊様が人の心に入る事が出来るのは、主イエス・キリストを信じた人だけなのです。

 使徒行伝2章38節で「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」と記されている通り、聖霊様を受けたいと思う方は、主イエス・キリストを信じ、信仰を告白しバプテスマを受けることにより、聖霊様を心の中に迎え入れることが出来るのです。

 そうすることにより、心に平安が与えられますが、マタイによる福音書12章31節に「あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。」また32節で「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」マルコによる福音書3章29節「聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」イエス様が語られている箇所があります。

 この箇所は、主イエス・キリストを信じたことにより聖霊様がその人の中に出入りすることが出来るようになってはいるけれど、その聖霊様を不敬虔な言葉で汚したならばその人をそのままにはしておかないと言っているのです。

 パウロ先生は、今朝の1章9節において「わたしが霊により、御子の福音を宣べ伝えて仕えている神である」と語り、1章1節で「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから」とローマにいるキリスト者に書き送っているのです。

 この冒頭の挨拶は、パウロ先生の並々ならぬ意気込みを感じますが「自分はイエス様の奴隷になって、神の国の福音を語るためだけに一生涯を送っている」と言っているのです。

 「福音」という言葉を再度ギリシャ語辞典で見てみますが「嬉しい知らせ、良いおとずれ、特にメシヤがやがて来るという福音、メシヤによる罪の赦しが来るという福音、メシヤによる罪の赦しがすでに成就されて信じる人にはだれにでもあたえられるという福音」と記されています。

 主イエス・キリストを信じた信仰者は、全てが福音を伝えるイエス様の僕であることを忘れてはならないのです。

   11節でパウロ先生が「あなたがたに霊の賜物を幾分でも訳与えて、力づけたいから」とローマ教会の信仰者に語っているのです。

 「賜物」とは、ギリシャ語でカリスマと言い、辞典で「無償の賜物、恵みの賜物、授かり物、特殊能力」と記されているのです。

 つまり、人間はそれぞれが神様からカリスマつまり、その人が神様から与えられた能力が与えられているので、それを掘り出すのは自分なので、パウロ先生はローマ教会の信徒たちにその知らせたいと切に願っていると言っているのです。

 そうです、人は神様から与えられた能力を掘り出さずにいることが多いものなので、どうか自分に与えられた能力を発掘してくださるように私も熱望するものです。

 パウロ先生がローマに行きたがっていたかという理由は14節に「ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。」ということなのです。

 ローマという町は、異教徒の人たちに神の国の福音を宣べ伝えることは、イエス様の奴隷となった者の義務だと言っているのです。

 それには、まずローマにいる主イエス・キリストを信じたあなた方に、信仰者としてどうあるべきかを教えたいと言っているのです。

 16節でパウロ先生は「福音を恥としない」つまり「福音を語る事を恥ずかしいとは思わない」と言っていますが、この言葉は現代のキリスト者にも当てはまることなのです。

 主イエス・キリストを信じた信仰者は、神様によってそれぞれ主イエス・キリストを信じていない人々の所へ派遣されており、その場所において神の国の福音を語らなければなりませんが、なかなか自分がクリスチャンであるということすら言えずにいるものなのです。

 パウロ先生は、どんな場所に行っても福音を恥じと思わず、コロサイ人への手紙4章3節で「神が御言のために門を開いて下さって、わたしたちがキリストの奥義を語れるように(わたしは、実は、そのために獄につながれているのである)」と、牢屋に収監されている時でも神の国の福音を語り続けているのです。

 パウロ先生がどうしてそこまでして神の国の福音を語るのかと言う事が16節後半に「それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」と断言しているのです。

 「力」とは「能力、潜在力、権力(言葉の)意味、力強いわざ、力あるわざ」と記されているので、神様がそれぞれの人に与える力は、奇跡をも起こすことが出来るものだと解釈出来るのです。

 そして「救いを得させる」と記されていますが、「救出、救助、救済(生命の)、命が助かること、健康、身の安全、繁栄、重い病からの命拾い、破滅や不幸からの救出、的に滅ぼされることからの救い、霊的な救い、メシアによる罪と死からの救い、死から解放して来世へ突入できる霊的生命(永遠の命)を与えること」と、一生涯において起るさまざまな出来事から救い出してくださるのは、「神様の力」によるものであるという意味が含まれているのです。

 新生讃美歌73番の繰り返し部分に「善き力に守られつつ、来たるべき時を待とう、夜も朝もいつも神は、われらと共にいます」との歌詞があります。

 聖霊様は、人が悪魔の囁きに耳を傾けたときに静かにその人の心から去ってしまうのです。

 その途端、その人の心には平安がさり不安が心を被ってしまうのです。

 聖霊様を受けるのも自分であり、悪魔を導きいれれるのも自分であるので、心に不安を覚えたら直ぐさま、主イエス・キリスト様に悔い改め、再び聖霊様が来て下さるように祈る事が必要なのです。

 17節で「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」と、父なる神様、御子イエス様、そして聖霊様を絶対的な信頼を置き、自分を卑下することなく、自分は神様によってこの世に生まれたことを誇りに思い、与えられた生涯を過ごしてゆくことを心掛けてゆきましょう。      

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