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説教題:「主を信頼する」

聖 書:詩篇25篇1〜10節

 今朝の御言葉は、ダビデさんが詠った歌から御言葉を聞いてまいります。

 詩篇25篇は、ヘブライ語のいろは歌とも呼ばれており、1節から22節までの中にハヘブル語の頭文字を入れ読んでいるのです。

 この歌の中でダビデさんが一番大事に思っていることを1節「主よ、わが魂をあなたに向かって上げる」と詠んでいるのです。

 ダビデさんが、全身全霊をもって、神様を褒め称えていることから、私たちも日々の生活の中で、全身全霊をもって、主を褒め称えることを心掛けてゆきましょう。

 詩篇121篇1節2節で「私は両目を山々に向かって上げる。私の助けはどこから来る。天と地を造った主から来る。」とダビデさんは、自分を助けてくださるのは、天のお父様だと確信をもって言っている事が分かります。

 ダビデさんの生涯を垣間見ると、羊飼いであったときは平穏な生活を過ごしていましたが、サウル王様の所で働くようになってからは、波乱の人生を歩んだことが聖書から読み取る事ができますが、どんな時でも主に向かって顔を上げている姿をみることが出来るのです。

 25篇をヘブル語で私なりに見てみますが2節「わが神よ、私が狼狽しないように。私はあなたにより頼む。わが敵どもが私に対して勝ち誇らないように。」とあります。

「勝ち誇らないように」は「喜び踊らないように」という意味があるので、敵対する者が自分に勝ったことで、喜び踊らないようにと主に願っているのです。

 何時の時代でも、戦いに勝ったときに、兵士たちが喜びの表現として自然と喜びの表現として躍る仕草を見せるものなのです。

 3節は「まことに、すべてのあなたを待ち望む者達は、狼狽しないように。理由なく裏切る者達が狼狽するように」と言っています。

 この3節は、今朝の説教題にしたように、主を信頼し信仰の道を歩んでいるものは、どんなことがあっても狼狽することがないように。しかし主を信頼しないものにたいしては、狼狽するようにと解釈すると、この御言葉が私たちにとっても身近に感じるものです。

 4節は「主よ、あなたの道を私に知らせ給え。あなたの小道を私に教え給え」と言っているのです。

 「あなたの道」とは、主の道のことで、創世記3章24節で「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。」と記されている「命の木の道」に記されている道のことで、詩篇1篇6節で「主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる」と記されていることから、神様の道つまり御国に繋がる太い信仰の道のことなのです。

 「小道」とあることは、信仰者自身が歩む道の事でその小道は太い木に出ている枝のことであり、詩篇27篇11節にも「主よ、あなたの道をわたしに教え、わたしのあだのゆえに、わたしを平らかな道に導いて下さい。と記されているのです。

 父なる神様は、この世に生きる一人一人の対して太い信仰の道に繋がる小道を歩ませて下さっているのです。

 イエス様がヨハネによる福音書15章2節で「わたしにつながっている枝で身を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊に実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。」と語っておられるのです。

 この御言葉は、切り取られる枝のことを思うのでは無く、切り取られず天のお父様がさらに恵みを下さるということを思うことが大事ではないかと思うのです。

 5節で「あなたの真実の中に私をみちびきたまえ、そして私に教え給え。なぜなら、あなたはわが救いの神。私は一日中あなたを待ち望む」と言っているのです。

 自分の進む小道は、主を中心とし祈りをもって主を待ち望むことにより与えられるものであり、祈り無くして与えられるものではないことは、ダビデさんも重々分かっていたのです。

 6節で「主よ、あなたの憐れみと慈しみを思い出し給え。何故ならそれらは、いにしえからのもの」と言っています。

 ダビデさんは、若い時から、主の憐れみと慈しみを頂いてきたことで、現在の自分があることを、主に感謝しているのです。

 私たちも、主からの慈しみ、そして憐れみは、苦しんでいるときには分からなかったことが、振り返って見ると、それが主の慈しみであり、憐れみであったことが分かり、主に感謝するものです。

 7節で「わが若き日の罪と咎を思い出し給うな。善であるわが主よ、私のためにあなたの慈しみくださったことを思い出し給え」と、ダビデさんも主に甘える祈りをしていることが分かります。

 ダビデさんも、自分の部下の奥さんを奪い取ってしまったことで、自分は罪深い人間であることは重々承知しているからこそ、この祈りをしているのです。

 そうです、人は自分の罪を棚に上げ、人を裁くことは長けているものなのです。

 数十年前、礼拝の中で主の晩餐式があったとき、一人のクリスチャンが「罪を悔い改める事が出来ないので、受けることが出来ない」と受けなかったことがありました。

 主を信じているものが、罪を悔い改める事ができないことは、ヘブル人への手紙3章15節「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」との御言葉があるように、主を信じる者は常に悔い改める心をもっていなければならないのです。

 8節で「主は、正しいし善い。それゆえ、主の道を罪人達に教える」と記されているのです。

 人は、主の前に罪を犯すものでなので、主に悔い改め、主に求めるならば、信仰の大路を教え、悔い改めた人の進む道を教えて下さると言われいるのです。

 9節「裁きの中にへりくだる者達を導くように。またへりくだる者達に主の道を教える」と記されています。

 イエス様が再臨されたときには、裁かれない人は存在せず、全ての人が裁かれることから、大事なことは、主の前にへりくだる事なのです。

 私は、この世で恐ろしいのは神様だけだと言っていますが、本当に神様の前にへりくだる人が、神様が恐い御方であると言う事が出来るのです。

 神は恐ろしいお方だと、簡単に口にすることは出来ますが、実際の行動は神を恐れず、御言葉に従わないで日々を過ごしているものです。

 10節で「主の契約と証しを守る者達は、主のすべての小道と真実と慈しみに満ちる」となります。

 主イエス・キリストを信じた者は、主を信頼することを決して忘れてはならないのです。

 主を信じ、主を信頼し、与えられた生涯を送る時に、主の慈しみ、そして恵みとが満ち溢れることを主は御言葉によって、私たちを励ましていてくださることを感謝しましょう。

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