4月7日 4月14日  4月21日  4月28日 

説教題:「キリスト・イエスにあって生きる」

聖 書:ローマ人への手紙6章1〜14節

 おはようございます。

 金曜日の朝、イエス様は十字架の横棒を肩に担がされ、エルサレム神殿から1`ほどあるゴルゴタという丘にある処刑場に向かったのです。

 聖書の行間としての知識ですが、ゴルゴタという丘はローマ帝国の処刑場で、特にローマ帝国に謀反を起こして死刑判決を下された者が処刑される場所で、ゴルゴタには沢山の頑丈は木材である3bほどある縦の杭が立っており、犯罪人は2b近い横の杭を自らが担いで行かなければならなかったのです。

 イエス様が担いだ横棒の重さは50`cもあったと言われていますので、大工で屈強な身体であったイエス様も、弟子たちの最後の晩餐をして捕まりムチ打たれたりと、疲労困憊していたことで、重い木材を担いでいることに絶えられず何度が倒れたことから、マルコによる福音書15章21節で「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた。」と、イエス様の代わりに担がせたのです。

 シモンという名前は新約聖書に9名登場していますが、クレネ人シモンは北アフリカか過越の祭の為に来ていたユダヤ人でたまたまイエス様が処刑場に向かって歩いている所に出くわし、イエス様の担いでいた50`cもあった木材を担がされることになったのです。

 ガラテヤ人への手紙6章2節5節に「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。」とパウロ先生自信も重荷を負いながら神の国の福音が語っているのです。

ですから、私たち主イエス・キリストを信じた信仰者も、このイエス様の重い1袋25`cもあるセメント二袋分の重さがある十字架を担っていることを忘れてはならないのです。

 自分が、信仰者として重荷を負っていると感じていなければ、信仰者として神様からの教えを守っていないからであり、パウロ先生がローマの教会の信徒達に書き送っている6章1節においてフランシスコ訳聖書で見てみると「それではどうでしょうか。恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まるべきだというのでしょうか。」と「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まるべきだというのでしょうか」と訳しているのです。

 私たちは信仰を告白し神様に義とされた者ではありますが、罪の中に留まっている信仰者が居るということであり2節では「決してそうではありません。罪に対して死んだわたしたちが、どうしてなお罪のうちに生き続けることができるでしょうか。」とパウロ先生が言っているのです。

 パウロ先生は、3節においてバプテスマについて詳しく語っていますが、バプテスマとは「キリスト・イエスとの一致、キリストと十字架の死、新しい命、復活」を意味していると言われているのです。

 6節で「わたしたちの内なる古い人間がキリストとともに十字架につけられたのは、罪に縛られた体が滅ぼされて、もはや罪に仕える奴隷でなくなるためであることを、わたしたちはよく知っています。」と訳されているのです。

 この6節を解釈すると「主イエス・キリストを信じることで、信じていなかった悪魔の奴隷となっていた自分と決別することが出来、神様の僕となったことを知っている」となります。

 悪魔の奴隷とは、創世記6章5節に「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」と記されている人のことですが、アダムとイヴに悪魔が入り込んでから今に至るまで、人の心を惑わし続けていおり、これはイエス様の再臨の時まで続くのです。

 だからこそ、7節で「バプテスマを受ける事で、悪魔の奴隷から解放されたので、再び悪魔の奴隷となってはいけない」と言い、8節で「キリストとともに死んだのなら、また、キリストとともに生きることにもなるとわたしたちは信じます。」とパウロ先生もローマ教会の信徒達に期待していることが分かります。

 このパウロ先生の期待は、私自身牧師として持っているものであり、バプテスマを受けたけれども、神様から離れてしまった信仰者が神様の元に戻って来て欲しいと願い、祈っていることでもあります。

 9節ではフランシスコ訳聖書では「死者のうちから復活させられたキリストは、もはや死ぬことがないと、わたしたちは知っています。死はもはやキリストを支配していません。」と訳しています。

 主イエス・キリストは、神様の一人子ではありますが、人間としてこの世に派遣され、33年間人間として生活し、人間として死を体験されましたが、人間には無い死んだものが生き返り、神様に戻られたことで、御国において永遠の命を持つものに復帰されたことで、人の身体に死を持ち込ませた悪魔の支配を、復活することで悪魔はキリストを支配することがなくなったことを10節で「キリストが死んだのは、ただ一度、永久に罪に対して死んだのですが、キリストが生きているのは、神に対して生きているのです。」と言っているのです。

 だから、人間であるあながたも11節で「同じように、キリスト・イエスに結ばれてあなた方も罪に対して死に、神に対して生きている者であることをわきまえなさい。」と訳しているのです。

 主イエス・キリストを信じた者は、「罪」つまり人間に持ち込まれた「死」から解放され、永遠の命を与えられる存在になっているということを信仰者としてわきまえていなさいと言っているのです。

 パウロ先生は、ローマ教会の信仰者たちに対して、永遠の命を与えられる存在になっているのだから、12節13節で「あなた方の死ぬべき体を罪に支配させ、その欲望に屈服してはなりません。あなた方の五体を、罪に仕えるよこしまなことのための武器にしてはなりません。」つまり、マルコによる福音書4章19節で「世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。」と記されている通りなのです。

今生きているあなた方は決して悪魔の耳に優しい言葉に惑わされることが無いようにしなければならないと言っているのです。

 パウロ先生も、人の心は悪魔の誘惑に負けやすいことを自分自身も「欲」多き人間だからこそ言っていると思うのです。

 「食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲」と「欲」が無い人間はこの世に存在しないのですが、その欲をコントロールすることは、神様の御言葉に聞きしたがって行くことなのです。

 食欲は、暴飲暴食を避ける事、財欲は不当な手段で財を築こうとすること、色欲はマタイによる福音書5章28節でイエス様が「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」と記されているのです。

 名誉欲とは人に褒められたい、認められたい、馬鹿にされたくない、他人の評価に敏感であること、睡眠欲とは眠りたいことですが、もっと寝ていたいと神様が身体の回復以上に眠る事を睡眠欲といいます。

 睡眠時間は6時間から8時間未満が推奨されていますが、短いと日中眠気がさし、長すぎると頭痛と疲労、筋肉痛、体重の増加、記憶と思考力の低下、心臓と血管の病気の発症リスクが増えると言われています。

    13節の後半で「自分自身を死者の中から蘇えったものとして神にささげ、また五体を救いの義に役立つ武器として神にささげなさい。」と記されているのです。

 信仰者は、さまざまな欲を神様から与えられたものとして、主の僕として神の国の福音の福音を伝えるものとして有意義な時間としなさいと言われているのです。

 その理由は14節で「なぜなら、罪があなた方を支配することはないからです。あなた方は律法のもとにあるのではなく、恵みのもとにあるのです。」と記されているのです。

 確かに、主イエス・キリストを信じた者は、神様のみ教えを守りながら信仰者として与えられた生涯を歩んで行く者ではあるが、それ以上に信仰者は神様の恵みの中にあることを第一として思ってゆくことが、キリスト・イエスにあって生きる者だと言っているのです。     

   

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