自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・関西本線の「加太(かぶと)越え」の風景・加太〜柘植
406.  中在家信号場俯瞰と加太隧道の扁額 ・中在家(信)−柘植

〈0001:中在家(信)俯瞰風景・NORTH DRAFTさま、1973−4−2撮影〉
スイッチバック引き込み線に上り貨物を退避させての下り貨261レのプッシュプル編成はなかなか見事だった

画像の典拠:稲穂茶屋 画像掲示板:571.関西本線 中在家信号所
NORTH DRAFT/11月25日(木) 19時37分。
http://www.geocities.jp/sc252890/200411.html

〈0002:4-1-2-3:引き上げ線に待避中の上り客レを背景に下り貨物列車発進〉
手前の引き揚げ船を下り貨物が発車すると、背後に待避していた客レが現れた

〈0003:4-1-3-3:信号場へ近づく下り客レ〉


〈0004:加太隧トンネルの扁額『加太』〉
柘植方の坑門の上部に掲示されている。書は地元の政治家で、明治の三筆と云われた書家の巌谷一六さま

この写真は「ル・シエル いつか見た空」の管理人さまより転載の許可を頂きました。ここで厚く御礼を申し上げます。
出典: 「思い出のキハ58系集約臨 関西本線編」
http://blogs.yahoo.co.jp/photoofficekiha/5739582.html

〈0005:関西鉄道の社紋を刻印した煉瓦〉
ほとんどの煉瓦には単なる揮毫が刻印されているが、社紋は珍しいようだ

この写真の典拠は:
伊賀の街道風景 〈お宝風景 - 大和街道 (一ツ家)〉
5. 旧関西鉄道のレンガ 
転載に際し暑く御礼申し上げます。


〈紀行文〉
“関西本線のSL”と云えば「加太の大カーブの築堤」ばかりが有名でしたが、ここから1.5kmほど登って杉林の少し開けた所ににあるスイッチバック式の中在家信号場の回りにも素晴らしい撮影ポイントが散在していた。ここでは「加太越え」の中心でもある中在家信号場と、その先500mほど登った所に口を開けている「加太隧道(ずいどう:トンネル)」に関わる写真やテーマをまとめておきました。
 この関西本線の前身である関西鉄道が明治23年(1890年)の末に柘植駅から「加太越え」の難所を加太トンネルで抜けて加太川の谷を下って関駅へと開通して、東海道線の草津駅を起点にして、柘植(つげ)、亀山を経て四日市まで全線開業した。この時に柘植と亀山の間の駅は関駅だけであった。その難所と云われた「加太越え」のある関駅から柘植駅までの14.3qの間には駅も信号場も設けられてはいなかった。やがて、列車運転本数が増えて来ると、明治29年(1896年)に関駅から 5.4qの地点に加太駅が設けられて、ここには中線を備えた2面3線のホームがあって列車の交換が自由に行えるようになった。その後の昭和三年(1928年)になると加太駅から4.6km先の25‰の急勾配上に中在家信号場が設けられた。ここは「加太越え」のサミットである加太トンネルの手前訳500mほどの位置にあった。ここは列車の通過も可能な配線で、本線に対して上り引き上げ線と下り発着線がX字状に配されたスイッチバック方式の信号場であった。この体勢により、東京発の急行「大和」を初めとする優等列車、それに荷物列車、草津線経由の貨物列車を含めた多くの貨物列車、それに伊勢参宮や修学旅行の団体列車などが行き交う関西本線の最盛期を迎えたようであった。
 ここで、亀山から「加太越え」のサミットである加太トンネルに至るまでを列車に乗って沿線風景をたどってみたい。
 伊勢湾に注ぐ鈴鹿川に沿った伊勢平野も奥まってきた地点に開けた亀山市、その亀山駅を出て鈴鹿川を左手に、右は国道1号線と併走しながら鈴鹿山脈の南西武と布引山地の北部に挟まれた谷の出口に広がる扇状地を登ってゆく。やがて鈴鹿川左岸の河岸段丘の上に出た所で関駅の構内が見えて来た。そこには中線を備えたに面3線のホームの右手に関駅舎があり、その先に国道1号線を挟んで東海道最大の宿場である関宿の街並みが 1.75qの長さで残っていて、「関宿重要伝統的建造物群保存地区」として国の指定を受けていた。その東端は伊勢別街道との追分となっていて、標高 83mであった。一方の西端の大和街道との追分は標高102mであって、街並みは坂の町であった。わが関駅の標高は約90mほどと推定された。これから登って行く「加太越え」のサミットは標高 約274mであるから、標高差約180mを勾配25‰で延々と登って行く難所なのであった。
さて、関駅を発車した下り列車は、この先の右手に見れる一見独立嶺のような城山(標高 153m)の南側の断崖を見ながら走り、鈴鹿川を大和川橋梁で渡ると間もなく、右手に鈴鹿川の支流の加太川が見えて来る。この辺りでは、「加太越え」へ向かう国道25号線(旧 大和街道)は国道1号線(旧 東海道から関町の北の外れにある西の追分で分かれて鈴鹿川を大和橋で渡って西へ進むと、左手にに支流の加太川とその対岸を走る関西本線を見ながら緩い坂を登っていた。この高原風の道筋は江戸時代に脇か移動として整備されたようで、それ以前の街道は加太川に沿って鈴鹿川との合流点付近で鈴鹿川の対岸に渡ると云う難所であったようである。何しろ関は鈴鹿関と云う関所が置かれた所だから地形のけわしいのもうなずけるであろう。
やがて左から布引山地の北笠ケ岳の山麓が迫ってきて、加太川は蛇行する峡谷となり、ここを関西本線は古めかしい鉄橋で何度も渡ってひたすら西北西へとさかのぼる。ここは関駅から 3qほどで25‰の登り勾配に差し掛かっており、高らかなブラストの重奏音を谷間に響かせる。この辺りでの貨物列車の速度は40q/hを割り込んでしまうような急勾配と急カーブの続く難所の前哨戦とも云われていた。間もなく短い二つのトンネルを抜けると国道25号線の踏切を通り過ぎ少しカーブすると中仙を挟んでに面のホームを備えた加太駅に到着した。ここは標高 約158mだから、関駅からもう約70mも登ってきたことになる。
さて、この駅には下りのSLは必ず停車して、次の峠への備に余念がない。亀山〜柘植間の牽引定数はD51二輌運転では480トンになっている。定数を持っていたら、亀山を出て加太までにすでに1トン半の石炭をくべているので、機関助士はテンダーに登って石炭のかき寄せ作業に懸命である。この加太〜柘植間は8.9Kmもの距離があり、そこには「加太越え」が控えていたからである。
この加太駅辺りの遠く北側に連なる山々は鈴鹿山脈の西南端の山々で、鈴鹿峠(標高 373m)の鞍部から西へ高畑山(標高 773m)、那須ヶ原山(標高800m)、そして伊賀盆地に接する三国岳(標高 715m)、それに「お経塚山(標高 623m)」であって、意外に懐が深い森林でおおわれていた。底から尾根で南へ続いてはいるが、ほぼ独立嶺のように見える城山の牛谷山(標高 264m)の低い尾根が加太集落に沿ってそびえている。関西本線の加太駅は、この城山の山すそを削った急崖の下に開いた僅かな平坦地に設けられていた。この駅で体制を整えたSLたちは、崖下を発進すると間もなく右手の山々が去り、線路は左手に加太側の谷を見下ろしながら高い築堤で急勾配を保ちながら西へ登って行く。この辺りの右(北)手に広がる奥深い鈴鹿山脈の森林を源に南流してくる加太川の支流の作った谷が次々と現れ、その都度、その流れを通すための煉瓦アーチ造りの溝渠(こうきょ)が築堤の下に設けられていた。例えば東から、市場橋梁、屋渕川橋梁、大アーチの蛇谷川橋梁などが数えられ、それに高さを誇る板屋川鉄橋もあった。
列車は板屋(いたや)地区の集落北側にある築堤上を走り続ける。
この先で加太川に別れを告げた国道は関西本線のすぐ南側に寄り沿って少し北西へ進むと少し登りとなり次の谷へと向かった。この谷は北在家集落のある地内となる。ここは関の追分から約7kmほど来た所で、国道25号線は関西本線の築堤の下を「大和街道架道橋」と呼ばれる重厚なデザインの煉瓦造りのトンネルを抜けて北側の山すそへ出て、30分ほど山中を進むと北在家集落の家並へ入ることになる。この橋は明治23年(1890年)の関西鉄道の開業時に開通した。その規模は、アーチ橋のスパンが4.5mで、道路部分の長さは64mもあった。これは後に線路敷を拡幅したためと推定される。その形式は煉瓦+石ポータル(坑門)であって、赤煉瓦が用いられていた。アーチ部は長手積み、側壁はイギリス積みのよく見られる積み方であるが、その境目のスプリングラインだけ、ちょっとずれた積み方になっている。その要石(かなめいし)は五角形に整形され、扁額のスペースは採られていない。また、要石の下には豪華な装飾が施されていて、明治の主要街道である「大和街道」が通ることを意識していたものと思われ、往時の街道の賑わいを思い起こさせた。その西側坑口はコンクリートで延長されているのは残念ではあるが、土木学会が選定する近代土木遺産のAランクに登録されているだけの偉容が感じられた。
さて列車に戻って、築堤で大和街道架道橋の上を過ぎると、すぐ先は曲率半径 300mの「加太の」大カーブの築堤」に差し掛かった。ここを登り詰めて杉林を抜けて大きく左にカーブし、次いで今度は右にカーブして約1.5qほど行って開けると手には建設工事中の名阪国道がすぐ近くまで寄って来ているようにも見えた。やがて、右上からスイッチバックの引上線を支える石垣と、信号機が見えてくると、中在家信号場へ進入することになる。この構内に入ると、右上から引上線が入ってきる。タブレットこうかんなどを行う業務用の短い簡易なプラットホームがある。右へ向かう線路は本線。左へ分かれるのは発着線である。
この先は25‰の勾配が500mほど進と、全長約928mの加太トンネルに突入した。ここのサミットは150mほど入った所であった。こちらの加太方の坑口では、蒸気機関車の煤煙が運転室内に充満することを防ぐために、トンネル入り口に遮蔽幕を設けて、列車通過後にこの幕を下ろして列車後方の気圧を下げ、煤煙を列車後方に集める工夫が実施されていた。
  そこで、トンネルはさておき、スイッチバックの信号場の説明は、「一見は百聞にしかず」との諺(ことわざ)もあるので、先ず写真の撮影メモから始めたい。
 第一枚目は NORTH DRAFT さまから転載の許可を頂いた「中在家信号場の俯瞰(ふかん)」です。この写真が投稿されている「稲穂茶屋画像掲示板」でのコメントには、
『 ザラザラの「コムラー効果」の見本のためスキャンしたのですが、もったいないのでスレ立てて見ました。このスイッチバックを見下ろす場所は、あまり作例を見ないのでお気に入りですが、いかんせん画質が最悪です。−中略−
でも、スイッチバック引き込み線に上り貨物を退避させての下り貨261レPP編成はなかなか見物だと思っています。』とありました。
この画像の引用を快く許可して頂いた NORTH DRAFT さまに、ここで厚く御礼申し上げます。
実は、私も信号場の俯瞰撮影は試みてはいるのだが、今ひとつ納得の行く写真がお見せできないでいる。この信号場付近へのクルマによるアプローチは難しい岳でなく、近くを通っている筈の国道25号線(大和街道)も、中在家集落から柘植へ抜けてにる677号中在家柘植線も信号場が俯瞰できそうな場所へのアプローチは容易ではなかった。結局の所、信号場から近くの山肌のけもの道などをよじ登ってのポイント探しであった。あのNORTH DRAFTさまは「それほど高くない俯瞰場所なので」と謙遜されておられるが、中在家信号場のX字状の配線を満足に撮るのには至難の修行が必要なのであろう。その居見てこの写真は見事な一枚と云うべきであろうか。
 二枚目は典型的なスイッチバック風景である。上りの普通旅客列車がとうちゃくし、くだりのプッシュプルの貨物列車が加太トンネルを目指して25‰の急勾配をダッシュして行く。
 三枚目は加太大カーブを登り切って山の谷間をはい登って来た下り普通列車の姿で、向かい側の山のうえにはスイッチバックの引き揚げ船が伸びている。
 ここから最後の加太隧道ずいどう)の話題に入ろう。この関西本線の前身である関西鉄道が創立された時の建設計画では、柘植の先の「加太越え」の峠の頂上付近には全焼 1,207mの加太隧道の掘削が見込まれていたが、実施段階に入ろうとした時に、会社は「さらなる建設費の軽減と工期の短縮」を目指しての建設ルートの見直しを技術陣に求めた。それに応えての再測量が行われ、隧道の全長を 928mに短縮した上で、最大勾配を25‰まで許容した建設ルートが立案され、それが実現したのが現在のルートである。そのためには数々の新しい工夫が試みられて成功しているので、その経過について述べてみよう。
その第1は工事機関短縮のための新しい工法の採用である。それは標高270mの加太方の東坑口から505mの地点に、山上から縦坑を掘り、そこから水平に東西両方向に掘削を行う法式で、日本で最初の鉄道隧道への利用であった。この縦坑には排水処理用のA区画と、掘削で出た残土を搬出する目的の巻き上げ機のためのB/C区画が設けられていた。そして、竪坑掘り下げは明治21年(1888年)11月27日から先行開始して、深さ29.4mの予定位置に到達し、ここから東西に向かって掘進を始めた。そして貫通は
竪坑−西坑口間が翌年の8月22日に、竪坑−東坑口間が10月7日であって、中心線、高低差の精度も抜群であつたと云う。この縦坑は隧道の完成後には煙抜き煙突として活用されていたが、無煙化後にコンクリートで蓋がされた状態で山中に残っている。
この記念すべき加太隧道の竣工に際して、東西の坑門(トータル)の上部に『加太』の文字が彫刻された扁額が飾られている。この書を揮毫(きごう)した人物は当時の関西鉄道(今の草津線)の貴生川駅沿線の水口町(現在の滋賀県甲賀市)出身の巌谷一六(いわや いちろく、1834−1905)である。この方は明治政府の役人から貴族院議員となった人で、明治の三筆の一人と称された能書家であった。
現在この「扁額」を鑑賞するには、柘植方の西坑くちであれば光線の回る時間帯を狙えば可能と思われる。加太方は落石防止シエルターの延長により観察が困難のようである。
 最後に、この長大な隧道の巻立てに使用された赤煉瓦はおよそ300万枚と推定されているが、この膨大な煉瓦ノ調達には現地の近くに煉瓦製造所を設けて、原料であ粘度は近くの山から採取し、燃料も近くの豊富な森林材を用したとされたと云う。確かに、加太トンネルの縦坑の付近の山の中に煉瓦屑が散乱している地域が存在しており、煉瓦焼成窯跡ではないかとの情報もあるが、その場所は未だ確定されていないようだ。
そして、煉瓦の中には、関西鉄道の“関”の文字を扇子型にデザインした車紋を刻印されているのが見られると云う。その実例の写真を掲げておいた。
そして、この沿線には、三ヶ所の隧道の他に、赤煉瓦を利用して建造された構築物が多数現役で存在していることを知ったので、その主なものを東から順にイストアップしておいた。
@市場川橋梁(近代土木遺産Bランク、水路と人道の併用、巻厚4層の煉瓦半円アーチ、スプリングラインの装飾帯がある)。
A蛇谷川橋梁(巻厚4層の煉瓦半円アーチ、1番目と4番目のアーチだけ焼過煉瓦が使われている)。
B屋渕川橋梁(水路、巻厚3層の煉瓦半円アーチ)。
C第165号橋梁(レンガアーチ、基部だけ4段の石積み)。
D大和街道架道橋(近代土木遺産Aランク)、
国道25号線を通す架道橋である。
E(仮)北在家西橋梁(水路、巻厚3層の煉瓦半円アーチ)。
F大崖川拱渠 (近代土木遺産Aランク、レンガ造りとしては最大級、径間7.53m、内高約7.1m(宮川さん実測)

関西本線の橋梁、とは呼べないぐらい深い場所にある)、。
G烏谷川橋梁(近代土木遺産Cランク、大口径のねじりまんぽ。巻厚4層)。
H第二後里見橋梁(車道、しかし下部に水路?、巻厚4層の煉瓦半円アーチ)。
I仮)柘植東橋梁(巻厚4層の煉瓦半円アーチ、北西側の坑門のみ煉瓦)。
J柘植駅構内のランプ小屋
列車の前照灯、尾灯、車内灯などの保管庫であって、火災を防ぐ必要から駅本屋から離して煉瓦で建てられている。

参考サイト:
・NORTH DRAFT(稲穂茶屋画像掲示板を主宰する服部さまのホームページ)
http://homepage2.nifty.com/c623/
・非電化鉄道メインの「 ル・シエル 〜 いつか見た空〜 - Yahoo!ブログ」 
http://blogs.yahoo.co.jp/photoofficekiha

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・『関西本線の「加太(かぶと)越え」の風景』シリーズのリンク
018. 早朝の加太の大築堤を登る ・加太→中在家(信)  
060. 加太の北在家集落から見える加太大築堤・加太−中在家(信)
148. 板壁と白壁の民家のある風景二題・加太−柘
014. 矢羽根付き転轍機標識のある風景・中在家信号