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・関西本線の「加太(かぶと)越え」の風景・加太〜柘植
060.  加太の北在家集落から見える加太大築堤 ・加太−中在家(信)

〈0001:〉
北在家の板壁の間から見た大築堤 関西本線・加太−中在家信

〈0002:「水まんぼ」(水路)の上の大築堤を行く列車風景〉
列車のガラス窓が透けてみえる築堤の上の風

〈0003:bQ90643:水鏡〉



〈撮影メモ〉
北在家の集落の民家を点景に大築堤を行く列車を撮ろうとして撮影ポイントを探しまわっていたら、偶然に水の張った稲田に築堤の姿が映っているのを発見した。
そこですかさず列車を狙ってみたのだった。これが加太の最後の訪問となってしまった。

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〈紀行文〉
  ここでは関西本線随一の撮影ポイントである“加太のダイカーブ”の誕生の逸話(いつわ)と、その築堤が横断している北在家と呼ばれる何となく中世的な趣(おもむき)を感じさせる集落を前景に撮った写真をご覧に入れたい。
 先ず明治22年(1889年)に関ヶ原−米原−草津−大津間が開業して神戸〜−東京官の官設の幹線鉄道である東海道線が鉄路でつながって全通した。その時に琵琶湖東岸に東海道線の草津駅も開業した。関西本線の前身である私鉄の関西鉄道はこの草津駅を起点として三重県の四日市に向かって建設されたのが始まりであった。早くも明治23年(1890年)に開業した関西鉄道の第1工区のルートは、草津駅から東海道線に分かれて、鈴鹿山脈の御在所岳(標高 1,212m)に源を発し北流して琵琶湖に注ぐ最大の川である野洲川(やすがわ)に沿って南進し、水口町(現在の甲賀市)町からは旧 東海道の通じていた鈴鹿峠へは向かわずに、そのまま支流の杣川(そまがわ)をさかのぼって、源流の森林地帯を15.2‰の勾配で登って行った。この先は「油日越え(標高 256m)」の峠越えであって、東ては鈴鹿山脈ノ最南端である油日岳(あぶらびだけ 標高 693m)であり、そこからの尾根が低い鞍部を作って西の甲賀山地へ接しており、ここが」三重県と滋賀県の県境であった。この小さな峠を下ると伊賀盆地の東端となり、36.7kmの行程で柘植駅に到達した。
この地は奈良時代の東海道が通じていたところで、明治以後は大和街道と呼ばれていて奈良から伊勢へ通じる交通の要所でもあった。
 続く第2工区は柘植から「加太越え峠(標高 309m)」の難路を抜けて加太川の谷を下って、東海道の鈴鹿峠の麓にある関へ出て鈴鹿川に沿って亀山から四日市に至るルートがけいかくされていた。関西鉄道では明治21年(1888年)に、難工事が予想される
第2工区の担当監督に明治20年に帝国大学工科大学を卒業した井上徳治郎技師を任命して着工へと進めた。この人物は関西鉄道が名古屋から大阪を直結した時の支配人として、官設の東海道線と激烈な旅客争奪戦を成功に導きた人手合った。その後、複線電化計画を立案し当局に出願した所で国有化に遭遇して実現できなかったが、我が国の電気鉄道の発展に尽力された人として知られている。
 実は、関西鉄道の創立前の準備段階で建設ルートの調査が完了しており、この第2工区の中の最も難工事の予想されるさ「上柘植村から加太村間」については、明治19年(1886年)3月から関西商工学校土木科卒の太田六郎技師たちの手で再三にわたって実地測量がおこなわれて、全長 1207mの加太隧道(トンネル)を掘削して、加太川の支流である大崖川の谷を左に巻いて下るルート案が予定されていた。しかし、本免許が下付されて実施計画の段階に入ると、会社では建設費の軽減と工期の短縮を目指した建設ルートの見直しを技術陣に迫った。それに応えて明治23年(1890年)の末に柘植駅〜四日市駅間の42.85kmを無事に開通させたのが現在のルートである。それには最も建設費の掛かる隧道の全長の短縮と、勾配を当時の再急勾配とされた25‰(1/40)まで許容することを前提にして再度の実測が行われた。その結果、勾配を緩和しながら大回りしていたルートを25‰の際急勾配を維持しながら山を下るルートが計画され、特に大崖川の谷に広がる水田を“ひと跨ぎ”する高くてカーブした急勾配の大築堤が設けられ、それに続いて次第に高度を下げて行くための長く続く築堤が必要となったのである。
正に、このルート変更が“加太大カーブ”の生みの親なのであった。
もしも、この路線が官設鉄道として建設されていたら、おそらく勾配のより緩い当初のルートで実現していたことであろうから、撮影名所となっている「加太の大築堤」やスウィッチバックの中在家信号場」での名場面は出現しなかったことであろうと感慨深く思えるのだった。
 次ぎに、この「加太の大カーブ」付近の地形を述べるため、伊勢湾に注いでいる鈴鹿川に沿って伊勢平野をさかのぼってみよう。この広い沖積平野を国道1号線で西南西にたとって亀山市に入ると、鈴鹿川の左岸には次第に標高を下げてきた鈴鹿山脈が西南に向きを変えながら近づいて来たし、一方の右岸には伊勢と伊賀を分ける布引山地の北部の山々が大きく見えて来た。広かった伊勢平野が尽きた先は、両側の山地に挟まれた鈴鹿川水系の流れ下る細長い谷間の地域となり、ここは地理的に加太地溝帯と呼ばれておりそこには鈴鹿川、その支流で本流よりも流量が大きく延長の長い加太側が東へ流れている東西に続く谷間なのであった。ここは太古の昔は大きな湖沼であったことが古代貝の化石の発見で判ってきている。そして、北側に連なる鈴鹿山脈の鞍部である鈴鹿峠の源流から流れ下ってきた鈴鹿川と、この加太地溝帯を峡谷や細長い小さな盆地を東流して来た支流の加太川が合流する地点の北側の河岸段丘の上に栄えたのが関の宿場町なのであった。そして、この谷筋は都であった奈良から伊勢を経て東国に向かった古代官道の東海道が通じており、平安時代に鈴鹿峠越えの東海道がひらかれてからは、奈良と伊勢を結ぶ奈良道となり、江戸時代は脇か異同となり、明治になって大和街道と名付けられ、な関西本線の前身の関西鉄道も街道に沿って建設され、街道は国道25号線に引き継がれている。今もって関西と中京を直結する交通の要路となっている。この街道を有名にしたのは、かつて徳川家康が本能寺の変によって危機にさらされた時の命からがら山越えを果たした「伊賀越え」の逸話からであろう。それは天正10年(1582年)に起こった本能寺の変い際して、徳川家康の堺(大阪府堺市)見物後の滞在先から本多忠勝ら僅34名の供回りを連れて領国の三河に帰国するため、明智光秀の軍や混乱に乗じた落武者狩りなどとの遭遇を避けるために、山城から近江(甲賀)、伊賀のけわしい山道を経て「加太峠」を越え、伊勢の白子(三重県鈴鹿市)から海路で領国の三河へ戻り、岡崎城へ帰還したというのである。
それに、この加太の谷は優れた杉・檜(ひのき)材の山地であったが、今や良質の鉄道用バラスト・建築用材となる砕石の宝庫として知られるようになった。
特に特徴的なのは、谷底を東流する加太川の北側の鈴鹿三脈の南西端に当たる山々は懐が深くて、そこを源にした多数の支流が谷を作りながら加太川に合流しており、その合流点には僅かな平地ができて集落が営まれていた。その中で際奥の大崖川は規模が大きく、鈴鹿山脈の最西南端にある「お経塚山(標高 623m)」の東北面を巻くようにして流れ下り、谷底平野を形成しながら布引山地の山裾を流れ下っている加太川に合流するまでの両側には豊かな水田を潤していた。
この大崖川の両岸に広がる水田を横断する築堤が「加太の大カーブ」と呼ばれる撮影名所なのである。
ここには列車を撮っていても写りにくいのだが、素晴らしい明治の煉瓦造りの構造物が築堤の線路の下に隠れて存在していた。一般に谷間を盛り土を築いて築堤を設けると、水路や道路などを切断してしまうため、築堤の幅の広いところではトンネルが造られることになるのだが、これを拱渠(キョウキョ)と呼んでいる。この加太の大築堤では中ほどの位置に大崖川拱渠(こうきょ)が設けられていたのであった。この規模は大きく、最大支径長は7.6mもあって、煉瓦橋梁としては当時最大級の“スパン”であることから、土木学会が選定する近代化土木遺産 Aランク に選ばれている。これは地元の人々から「水マンポ」と呼ばれて親しまれているのも、豊かな水田をもたらす潅漑用水を守水路トンネルであるからであろう。
ところで、この「マンポ」とは、鉱山の坑道のことを「マブ(間分・間歩・間府)」とよぶが、三重県の鈴鹿山脈東麓では鉱山の排水路にヒントを得て、
素掘りのトンネルを掘って、地下水を集めて棚田などの灌漑(かんがい)などに利用する施設が造られていた。それを「マンボ」と呼んだといわれている。だから北在家の人々もそれにならって「水まんぼ」と呼んでいるのであろうか。
 この築堤の南側を細道が北在家の集落から延びているのだが、大崖川を渡る橋は立派な切石積みのアーチはしであって、溝渠と一体の構造となっている。そのため、この橋の上からではトンネルの内部は見えないので、築堤を登って線路を横断して川を少し迂回すれば川面に降りる所がある。こちが側は、アーチ端部がRC(鉄筋コンクリートと鉄骨でがっちりと補強された状態になっている。近づくと、この全体がが石積と煉瓦積みで構成されており、水の流れる部分にも石畳が見えている。普段の水量はきわめて少ないようだった。また、
その内部の奥には、かすかにレンガ色の側壁が観察できると云う。
私の友人である宮川さまの主宰する「宮様の石橋」の中の「亀山市の石橋」:
〈 http://18.photo-web.cc/~miyasama2748/HOME/P62DWNkameyama.html 〉 
では、『このアーチは、ある意味大変すばらしい。まるで一点の曇りも無いというか、とにかく地下水の染み出しがほとんど見られない無垢のままのレンガ地肌そのままである。』との賞賛振りであった。さすがに「土木学会の選定したAランクの近代化土木遺産だけのことはある。
 ここで関西本線と国道25号線(旧 大和街道)に沿って加太川の谷間の風物を描いてみよう。
この加太川の谷の出口は鈴鹿川への合流点であって、そこは東側に連なる観音山(標高 222m)の西麓直下の高台を鈴鹿峠から東へ下ってきた旧 東海道(国道1号線)最大の宿である関宿の街並みの中央部の西側の谷に位置していた。国道1号線(旧 東海道)から「加太越え」のある国道25号線(旧 大和街道)への分岐点である関の西の追分は関の街並みの坂を登った西の街はずれにあって、平安時代になって東海道が鈴鹿峠越えに変更になってからできた経路で、奈良時代の東海道は鈴鹿川と加太川の合流点付近を通っていたようであった。この西の追分には「南無妙法蓮華経」と刻まれた古めかしい岩の道標があって、ここを西南に折れて、間もなく鈴鹿川を大和橋で渡って西へすすむと、左に加太川とその対岸に関西本線が走り、その背後には布引山地の北笠ケ岳からの山麓が迫っているのを見ながら、緩い坂を上って行く。
一方の関西本線の中線と二面3線のホームを持つ関駅は旧宿場街並から国道1号線を挟んだ西側に接していて、ここを発車した列車は間もなく鈴鹿川を大和川橋梁で渡って加太川の谷へと向かって行くが、間もなく峡谷をを蛇行するようになり古めかしい鉄橋を3回も渡って川に沿ってさかのぼっている。
国道に戻ると、やがて左手方向から関西本線や加太川が近づいてきて、国道は川沿いに大きく回って行き、旧道は左に分かれて踏み切りを渡り、小さな金場集落の中を抜け左に加太川を見ながら再び踏み切りを渡り国道に合流する。この踏切の間では国道は金場トンネル、関西本線も金場と坊谷(ぼうだにの二つの)トンネルで抜けている。この金場から先はしばらく人家のない山間を進み、やがて僅かながらも平坦地の広がる細長い小盆地に入ったところで、国道はS字カーブを描いて踏切を渡り、坂を下って加太の集落の中心部へ入って行く。その踏切の先のカーブの向こうは加太駅であった。その高見にある加太駅の前方には国道に沿った集落の落と加太川の先にはギザギサとした山容を見せる
錫杖ケ岳のと絶景が迫って見えた。一方の駅裏には城山の尾根が線路に迫って旧崖をなしていて、いかにも山間の駅と云う雰囲気であった。
この駅から坂道を下って行くと国道25号線に突き当たり、この辺りは加太の市場集落である。駅から国道を約100mほど西に進と、右に参道らしき脇道があって、坂を登って踏切を渡れば禅寺の神福寺がある。その裏山が城山の牛谷山(標高 264m)であって、この山頂は比高約100mほどの中世の山城である鹿伏兎(かぶと)城跡が残っていた。この山は尾根が北西と東に延びているものの、半ば独立した山塊となっていた。この城主は伊勢の鈴鹿川一帯を支配した戦国武将関氏の一族である鹿伏兎氏であって、秀吉に滅ぼされるまでの約200年余りの間を加太の谷一帯を統治していた。この鹿伏兎氏の城下に住まいした居館などの他に、街道沿いに高札場、問屋場、宿屋などの商業や政治の中枢が設けられていたようだ。それに、ここは道の集まる交通の要所でもあり、南へは加太の向井を経て柚之木峠(ゆうのきとうげ、標高 396m)を越えて津市芸濃町へ抜けて伊勢別路へ合流する近道が通じており、北へは中津を経て鈴鹿峠の
坂下に通ずる「バンドウ越え」
がつうじていて、加太川の瀬を渡る危険のない道筋として利用されていた。
この市場集落を過ぎてすぐに、国道25号線から旧道が左へ分かれ、複雑に折れ曲がり、加太川のたもとに出て、欄干の無いコンクリートの平板を並べただけの狭い橋(流れ橋)を渡った後、急坂となるのが梶ヶ坂の集落に至る「梶ヶ坂峠」であって、旧道の雰囲気を残していた。ここは蛇行する加太川をショートカットする道なので峠はそれほどの標高差はないようだ。ここを下って行くと国道2合流する。
さて、話を戻すと、国道は加太川を渡って少し歩くと板屋の集落に入り、石垣のそばに数体の地蔵さんが出迎えた。江戸時代になると脇街道「奈良道」の街道が整備され、加太宿はこの板や集落が中心となり、本陣が置かれ、周りには茶屋や宿屋、そば屋や鍛冶屋などの店が並んでいたし、街道素に沿った松並木が続いていた。
この辺りの関西本線は25‰の勾配で築堤を西へ向かっており、北側にそびえる城山の尾根続きとなっている観音山(標高 246m)の急な崖下を線路が通過していた。この山には関西鉄道の敷設工事で犠牲となった人々の鎮魂のための三十三体の石造の観音像が祭られていた。この付近での城山の崖下に線路を通すための岩を取り除く難工事には多くの石工たちが働いており、取り除いた岩石で石仏を彫って祭ったと云うのだった。やがて城山の尾根が尽きると、北の奥深い鈴鹿山脈の山々を源に南流してくるしりゅうたちが加太川に深い谷を作って注いでいたから、築堤の下には煉瓦造りのアーチの溝渠(こうきょ)が設けられていた。その中でも板屋川には高い鉄橋が架けられていた。
関から4qの距離にある板屋集落の本陣跡から少し西へ進んだ川沿いの街道から外れた国道沿いに森が広がり県指定の「ご神木の杜」)であり、
川俣神社という相撲の土俵がある古い神社があった。

この先で加太川に別れを告げた国道は関西本線のすぐ南側に寄り沿って少し北西へ進むと少し登りとなり次の谷へと向かった。この谷は北在家集落のある地内となる。ここは関の追分から約7kmほど来た所で、国道25号線は関西本線の築堤の下を「大和街道架道橋」と呼ばれる重厚なデザインの煉瓦造りのトンネルで抜けて北側の山すそへ出る。
築堤の上の線路は架道橋の先ですぐに大カーブの築堤に差し掛かり、ここを登り詰めるとその先の山林を過ぎて大きく左にカーブし、次いで今度は右にカーブして進ンで行く。そこを登った先の左手には工事中の名阪国道がすぐ近くまで寄ってきており、中在家信号場があり列車がスイッチバックしている。この先は加太トンネルまで25パーミルの勾配が続きており、やがて、全長約928mの加太トンネルに突入、約150mほど入った所がサミット(標高 約274m)であった。
 国道へ戻り、この大和街道架道橋を抜けた国道25号せん(旧 大和街道)の地点からは、先ず関西本線、そして加太川、工事中の名阪国道が左手(南側)を西へ向かっていることになる。やがて関西本線の築堤から離れながら北在家の集落を抜けると、一層山中へ入って行く。
話を戻して、大和街道架道橋の方へ右折することなく、そのまま小道を西へ築堤の下を進と、鉄道線路に分断された南側に散在する北在の家々の間を抜けると、小道はT字路となり、築堤の下のトンネルに右折せずに、直進すると左側一面に広がる水田の中を南流する大掛川に架かっている切石積みのアーチ石橋を渡った。田舎道はこの先の丘陵の山すそを巻いて続いていた。その途中から築堤に上る階段が切られていて「大カーブ」を俯瞰する撮影ポイントへアプローチできた。この石橋は大崖川を築堤の下を潜らせるための大崖川溝渠(こうきょ)と一帯に作られていたのだった。この道を少し戻って、先のトンネルを左折すると国道へ戻って、北在家集落をを抜け、右手に谷を回りこんで、けわしい登りに掛かった。右の山肌がガレ場になっており、そのすぐ下に砕石が山に積まれている採石場が現れた。ここは鈴鹿山脈の最南西端にあたる「お経塚山(標高 623m)の南斜面であって、今から約150年程前、多くの子供が疫病で死亡していくので、困った北在集落の人たちが和尚にお願いに行くと、『部落の西北にある山頂にお経を埋め、その上に五輪の塔を建ててお祈りせよ』とお告げがあったと云う。今でも十二月三日の前の日曜日には、塔婆とお餅とお神酒を持って、お礼参りの行事がまもられていると云う由緒のある山であった。そこからしばらく行った所に不動滝への道標があって、加太から右に向かって(椿谷林道)の入り口があった。この先は滝までは1.1kmもあり、その途中から鈴鹿峠へ向かう東海自然歩道が分かれていた。この辺りでは関西本線からは相当に離れているらしい。さらに登って柘植との境界の切り通しを越えると、付近には旧道が残っており、また脇道を入れば関西本線の加太トンネルの上へ出ることも出来た。柘植側も遠くの山々の緑が美しいのに、またもや第2の採石工場が遠望出来て自然景観も台無しとなってしまった。
 ここで掲示した写真の撮影メモを記しておこう。
最初の写真は、加太駅の方から国道25号線を西へ向かって、大和街道架道橋の方へ右折せずに、細い道を右手に築堤を見ながら直進すると、築堤に分断された北在家の南側の集落の中へ入った。築堤はこの辺りから大築堤の大カーブに差し掛かって行く所である。この辺りの民家を前景に築堤を登る列車を追い掛けて撮るのも何と楽しいことであったろうか。特に風雪に枯れた板塀の質感はこの在家集落の歴史を物語るようであった。そして、この大築堤の内側を細い田舎道が続いて山すそを巻いて続いており、この幅広い水田の広がる開けたたにまは、稲の生育が表す季節感を前景に大築堤を登ってゆく列車を狙うのも楽しかった。特に大崖川に架かるアーチの石橋は見事な点景を演じてくれていたのだった。
 さて、次の話題に入ろう。日本では珍しいフリーウエイ(無料高速道路)である名阪国道が関西本線の近くを併走している。この辺りのインターチェンヂには起点の亀山から5番目の「板屋インター」があって、その本線上の地名標示は“板屋”であってインター名と地名とは同一である。ところが、ここから1q先にある6番目の「南在家インター」では、その本線上の地名標示は“中在家”となっていて、インター名と地名とは異なっているからややこしい。
この加太は周囲をぐるっと山に囲まれた小さな盆地になっており、その一番低いところを加太川が流れ、集落は帯のように細長く東西に伸びている。街道も加太川に沿っており、その周囲に、僅かの耕地と家々とがあるというのが印象だった。その集落は加太駅近くの市場、加太宿の中心地板屋、峠の麓の北在家、それに中在家などの名があった。私は信号場の名となっている“中在家”は関西本線の線路に沿って散在している集落のどれかの名であろうと思い込んでいたのだった。その後に中在家信号場を見下ろせる俯瞰ポイントを探している時に、名阪国道の加太トンネルの上の辺りを越える蝙蝠峠(こうもりとうげ、標高 551m)を通る県道668号関大山田線が加太から伊賀上野へ通じていることを知った。そこで、板屋集落の細い街並みの国道25号線から、左に民家に囲まれた路地のような県道668号へ入り、集落を抜ければ加太川に突き当たった。川向こうには名阪国道が走っていた。川沿いを右に行き加太川を渡ると加太中在家の集落の民家に囲まれた。この先の田んぼの中を北へ向かって走ると、名阪国道南在家インター前の交差点に出た。この先で名阪国道の下をくぐって田んぼとなり、すぐに山に分け入った。この先の「こうもり峠」への途中で右後方へ県道677号中在家柘植線が分岐していた。この道からは北在家の集落が見渡せたのだったが、信号場の俯瞰はかなわなかった。この辺り一帯の地積は中在家となっていて、南在家と云う地名も集落も見当たらなかったのである。何れにせよ、この大崖川流域に広がる豊かな水田地帯は北在家と中在家の地内であるようだ。
 さて、この“在家”の文字の現在の意味は、“出家”した仏教徒に対応する言葉であって、家を出ることなく在宅の仏教を指しているようである。しかしかっては、「支配者にとって離れた所の領地」などの意味もあって、後に単に集落の意味にもつかわれるようになったようだ。この
加太の北在家・中在家はいつ頃からこのように呼ばれるようになったかは明らかではないようだが、加太駅の北側に鹿伏兔(かぶと城跡を残した鹿伏兎氏一族が加太村一帯を支配していた時代の在家制度から次第に形作られてきた集落であろうと云われている。その意味では、在家とは中世の屋敷とそれに付属した耕地を指すものであると云えるだろうか。
この加太(かぶと)が、その昔「鹿伏兎」の文字が当てられていたようで、その起源には、『それは仁徳天皇の頃とも、聖武天皇の頃ろも云われているのだが、天皇がこの土地をお通りになった時土地の人々が、鹿と兎を獲って献上したところ、天皇はたいそう喜ばれ、それいらいこの土地を「鹿伏兎」と呼ぶようになったと伝えられている。
撮影:昭和47年5月
ロードアップ:2010−07.

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・『関西本線の「加太(かぶと)越え」の風景』シリーズのリンク
018. 早朝の加太の大築堤を登る ・加太→中在家(信)  
406. 中在家信号場俯瞰と加太隧道の扁額・中在家(信)付近
148. 板壁と白壁の民家のある風景二題・加太−柘
014. 矢羽根付き転轍機標識のある風景・中在家信号