自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・伯備線の阿哲峡を行く
014.  矢羽根付き転轍機標識のある風景 ・伯備線/備中神代駅
〈0001:D51備中神代駅発車〉
D51・矢羽根標識のある中在家(信)

〈撮影メモ〉
撮影場所を忘れてしまい、今まで関西本線中在家信号場だとばかりおもいこんでいたが、国鉄時代の編集長 山下さまから、「背景から伯備線の備中神代(こおじろ)駅であろう」との指摘をいただいた。
矢羽根の背後に後補機の煙が見エル。右手にカーブして分岐する線路は芸備線であろうか。
いかめしい面ざまえのD51 651号は米子へ向かって発車しようとしている。
この写真は1980年代に「塗装技術」誌の表紙を飾ったことでご存じの方もおられることであろう。
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〈1紀行文〉
ここに掲げられている作品は、D51型蒸気機関車が関西本線の中在家信号場へ進入すると云うありきたりのシーンである。この写真の主役は左下に見えている「矢羽根」と呼ばれている手堂転轍器標識である。これは運転士が遠くからでも現場で捜査を行うポイントの開通状態を確認するために設けられている標識であった。その表示は、定位(直進)は青地の円板に白い横線の形で、夜間は青色灯であり、反位(曲がる方)はオレンジ色の矢羽根に黒い線の形で、夜間は橙黄色灯となっていた。この標識の鮮やかな色彩は鉄板に「ほうろう(琺瑯、せらみっく)」のコーテングによってもたらされており、その耐久性は抜群であった。この方式を最初に採用したのは現在の東北本線の前身である奥州線を運営していた日本鉄道が明治30年(1897年)以来使用した。これは定位・反位がはっきりしている点で、官設鉄道作業局の方式より優れていたことから、国有化後には正規に採用されている。また、青地の円板に白い横線とS字の入っている形式はスプリングポイント用の転轍器標識である。 通常の分岐器は人の手によって進路を変えるが、スプリング転轍機は原則的に定位に固定され、列車通過時もポイント操作が行なわれない。分岐側からの列車は車輪によってポイント部のトングレールを押し広げて通過し、通過後はスプリングによって自動的に定位へ戻るようになっているけいしきであった。
 ところで、鉄道発祥のイギリスや鉄道大国のアメリカのポイントの標識に比べると、ソの色と形のデダインは一歩も二歩も抜きん出ていると思われる。
それにしても、み日本の鉄道の様式や技術は、欧米で創世期の苦難時代を乗り越え、成熟した形のものが文明開化と共に入って来て定着したと考えられているが、その中にあって、数少ない日本的デザインを主張し続けた希なる様式があった。それが場外腕木式信号機や転轍器標識の矢羽根のデザインで、その由来は破魔矢(はまや)に通じるものであろうし、それは鉄道の安全を祈願する日本人の心から出ているものではなかろうか、そしてはたまた、使われている鮮やかな青色と橙(だいだい)色のルーツは弓矢を篤かった武士の鎧(よろい)に用いられていた組紐(くみひも)の色にあると思うのは私の幻想であろうか。矢羽根をモチーフにした矢絣(やがすり)の着物や卒常識に着られる矢羽根模様の袴(はかま)なども同じような意図が感じられるからである。しかし、近代化の進む鉄道の世界では、矢羽根付き転轍機標識は灯火式や文字式に置き換えられてしまって、あの色鮮やかな矢羽根に出会うことは難しくなったようである。
 蛇足ながら、「破魔矢」についての経験を述べてみたい。東日本の関東平野の武蔵野のと云われる地域では、男子誕生のあった家の初正月には、嫁の実家から贈られた破魔弓と矢を飾って、その子の健やかな成長を祈願する風習が広く行われていることを知った。それは武蔵村山に嫁いだ娘に長男が誕生して教えられたからで、私の郷里の新潟では聞いた覚えがなかった。東京の多摩地域から埼玉にかけて、初節句の雛人形だけでは片祝いになるから、初正月に、この祝をすると云うのだとか。私の住む狭山市もその地域に入って居るようで、地場産業として人形作りが盛んなところでもある。
歴史書の説く起源によれば、平安時代に朝廷で男子が誕生した時に、魔除けとして弓矢を用いて、「鳴弦の儀」を取り行っていた。その後、鎌倉時代になってから、今のような形になり、武士や町人の間でも行われるようになった。当時は、男子を無事に育てることが難しかったので、このような風習が生まれたのであろうと云われる。その弓で悪魔を外に追い払うことを祈願したもので、赤ちゃんに、ピッタリの大きさに整えられたミニチュアサイズに飾られた弓と矢がガラスケースに納まっている。その矢羽根には中国産の雷鳥の羽などが用いられている豪華なものもあるとか。
 話題を写真に戻すと、このシーンは、東海道で云えば鈴鹿峠に相当する関西本線の加太(かぶと)超えと呼ばれる峠路の中間地点にある中在家信号場での登り列車の出発風景である。昔風にいえば、伊勢の国から伊賀の国との境をなす加太峠であり、伊勢湾に面した四日市工業地帯と関西方面や琵琶湖方面とを結ぶ交通の難所と云ったら判り易いであろうか。この峠は亀山から加太(かぶと)、中在家信号場を経て、加太トンネルを抜けると柘植(つげ)に至り、草津線が分かれる。このあいだは急勾配とカーブが連なり、大築堤や山頂への煙抜きで知られる加太トンネルによって難所を征服している。トンネルの東側に中在家信号場があり、本線に対して斜めに交差したスイッチバック線が配線されている。通過する列車は別として、回避する列車は東西いずれかの引き上げ線に待機した後、本線上に戻ってから、この矢羽根様式のボイント信号標識を確認して再出発することになる。この本線と聞き上げ線との交差点はダイアモンドを構成した上に、それぞれ本線との渡り線が設けられた「シーサス クロッシング(両わたり付き交差)」てあって、その廃線と構造は複雑であった。
このSLの煙突の周りには、トンネル内で煙突から吐き出される煙を後方に乱れることなくスムースに押し流し去るためのいかつい排煙装置が付けられており、この烏帽子(えぼし)のような、また兜(かぶと)をつけた古武士の風貌を思わせるD51が天王寺と名古屋の間を往復していた頃の中在家信号場のでのシーンであった。
撮影:1971年
発表:「塗装技術」誌・1991年2月号表紙

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・『関西本線の「加太(かぶと)越え」の風景『シリーズのリンク
018. 早朝の加太の大築堤を登る ・加太→中在家(信)  
060. 加太の北在家集落から見える加太大築堤・加太−中在家(信)
406. 中在家信号場俯瞰と加太隧道の扁額・中在家(信)付近
148. 板壁と白壁の民家のある風景二題・加太−柘