自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・関西本線の「加太(かぶと)越え」の風景・加太〜柘植
148.  板壁と白壁の民家のある風景二題 ・加太-柘植

〈0001:白壁の民家のある風景 1 柘植〉
白壁の民家のある風景 関

〈0003:白壁のある民家のある風景 2〉


〈0002:4-2-4-5:遠い山並みを背景に〉
撮影場所不明、背後の高い山は鈴鹿山


〈0004:bQ21133:加太駅発車しまもなくの所〉


〈撮影メモ:昭和45年頃撮影か〉
左奥から右手前に夏草の茂った高い築堤、D51 623 [亀]の牽くタンクしゃ15両の草津線経由の貨物列車。
黒い煙がなびく、左下からドレーン。
背後は近くの山、その手前に小学校が写っている。加太駅近くの市場集落の小学校ではなかろうか。

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〈紀行文〉
 関西本線の加太(かぶと)-柘植(つげ)の間は「加太超え」と呼ばれる峠があって、江戸時代の脇街道の「奈良道」(明治になって大和街道)が通っている道筋でもあった。その「加太の大カーブ」に足繁く通っているうちに、何とか昔の大和街道の雰囲気を前景にSLの姿を捕らえようとして、あちこちを探し回ったのだった。しかし満足のゆくシーンが得られないままに昭和48年10月の無煙化を迎えてしまった。そのアングルが得られなかったのは、峠の西の伊賀盆地側では、大和街道は峠を下ると早々と架道橋をくぐって線路から遠ざかって宿場の街並みのある上柘植集落へと向かってしまっていたからである。一方の太側では、線路は高い築堤の上を走っていて、大和街道の加太宿である板屋集落の街並みは築堤の南側を深い谷で流れ下る加太川を挟んだ低い位置を通っていたからであった。そこで、多くのネガのなかから、この地方独特のみんかが背景に写っている写真を二枚選んでお目に掛けたい。
それは、下半分を板壁とし、上武を白壁で塗り込めた土蔵や民家が多く目に付いたことに気がついた。これは、この地方独特の民家の建て方であろうと想われたので、これらの民家が混ざっている集落を背景に築堤を登る列車を撮った作品を柘植側と加太側の二枚を選んで掲げてみた。
先ず一枚めは柘植側の写真である。開通間もない名阪国道を柘植インターを降りて昔の宿場の名残を残す家並みを眺めてから、しばらく北へ進むと閑散とした柘植駅前に出た。繁盛しているのは関西本線と草津線の列車の扱いの方であろう。この駅には草津線を発着する機関車や、関西本線の補機としての役目を終えた機関車たちの休息を取るための機関区が構内のはずれにあると聞いていた。そこで、駅の南側を細い田舎道を山に向かって行くと、加太からやってきた線路が柘植駅に入る手前に側線が設けられていて小さな貨物ヤードと云うような雰囲気を持っていた。その西の端には、加太越に備えるためと、草津線への分岐駅でもあるので、
亀山機関区柘植機関車駐泊所
が設けられている。
数本の引き込み線に「すり鉢型の電動式ターンテーブル」、車庫、石炭積み込み台、コンクリート製の給水塔、燃料掛詰所、乗務員宿舎などがそろっていた。ここはしばしの休息を取る機関車たちの憩のスペースであった。そして、このヤードを出発して亀山へ向かってダッシュする列車をサイドから狙うことのできる場所が民家が数軒散在する集落のはずれで見付けた。
おそらく下柘植の集落ではないかと想うのだが。
撮影をおえて、この辺りの木陰で一休みしていると遠くに貨車の入れ替えや、機関車のざわめきが伝わって来て、時折強いドラフトガ山を登って行くのか尾を引いていつまでも聞こえていた。
 さて、加太側では今まで取ったことのない築堤の北側で、ほぼ築堤と同じ高さのつ山すそに登って逆光の中で築堤を登る旅客列車をサイドから狙ってみた。
この築堤の麓には北在家の集落の民家が点景としてはいっている。
こちら側の民家の土蔵では板壁の面積が小さいように想われた。午後の陽光が当たって白壁が鮮やかに見えた。
こちら側から眺めた築堤の風情もまた格別であった。それ故に、山の中腹から俯瞰したこの大崖川の谷は、段々に作られた水田が次第に幅を広げて行って、名阪国道の手前を流れる加太側に合流するまでの谷間は一面の水田が開かれていた。この谷の東の山裾には加太の北在家集落が営まれ、この豊かな谷一帯の水田を育んできていたのであろう。その幅の広い谷間に広がっていた水田に盛り土を築いて大築堤を設けて柘植への最短ルートを開通させたのが明治の関西鉄道の建設工事であった。その豊かな水田の水利をまかなっている大崖川は明治の大土木工事で切断されてしまう所だったのだが、当時の技術者は当時最大と云われるほどの最大支径長が7.6mと云うのレンガアーチ式水路トンネル(溝渠:こうきょ)を設けて大築堤の下を通過させたのであった。この大崖川が流れる拱渠は地元の加太の人々に「水マンポ」と呼ばれ、親しまれているのである。
 三枚目にお見せしたのは撮影場所が判然としないのだが、背景に写っている低い前山の背後に高い鈴鹿山脈の一角らしい山の姿があったからである。
おそらく柘植駅から0.5キロメートルほど北へ行った「油日越え」と呼ばれる低い峠に掛かる辺りではないかと思っているのだが。
この峠は昔風に云えば、伊賀と甲賀とのさかいであり、三重県と滋賀県の県境に当たっていた。

撮影:昭和48年
ロードアップ:2010−08.

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・『関西本線の「加太(かぶと)越え」の風景『シリーズのリンク
018. 早朝の加太の大築堤を登る ・加太→中在家(信)  
060. 加太の北在家集落から見える加太大築堤・加太−中在家(信)
406. 中在家信号場俯瞰と加太隧道の扁額・中在家(信)付近
014. 矢羽根付き転轍機標識のある風景・中在家信号