自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・関西本線の「加太(かぶと)越え」の風景・加太〜柘植:

018.   早朝の加太の大築堤を登る 加太→中在家 (信)


〈0004:4-1-4-2:初の加太ダイカーブに挑戦:昭和40年秋撮影〉
初めて成功した憧れの加太大カーブ、無

〈0001:松の木の上から俯瞰撮影、県道のトンネルが築堤の下に見えた〉
松の巨木に昇ってのプレスカメラでの俯瞰

〈0002:再び俯瞰撮影〉
加太峠(関西本線・

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〈紀行文〉
 私は昭和36年にホンダに転職して埼玉県和光市の埼玉製作所に勤めはじめていたがその頃には既に三重県の鈴鹿市にオートバイ工場が元帝国海軍の四日市燃料廠(ねんりょうしょう)の跡地に完成していて、そこで開かれる会議に出張することが多くなった。やがて昭和40年初頃からSLの写真撮影の世界に入ってみたところ、この鈴鹿製作所の近くを走っている関西本線の関〜柘植(つげ)間にある「加太(かぶと)越えの大カーブ」で撮ったSLの峠越えの写真が鉄道趣味誌のグラビアを飾っているのを発見して、私にも撮るチャンスが巡ってきたと狂喜したのであった。それからは、遠路クルマで出張しては、暇を見付けては撮影に出掛けたのだった。その頃は未だ名坂国道は工事の真っ最中であったから、国道1号線にでて亀山から関町の西の追分から国道25号線に入って関西本線に沿って「加太の大カーブ」へと足繁く通ったのだった。
このシリーズでは加太駅から柘植(つげ)駅間の“加太越え”を5っのサイトにまとめて展示しました。そこでプロローグとして、「加太大カーブの俯瞰(ふかん)」の写真をご覧に入れた上で、この沿線の風景や、前身の関西鉄道(かんせいてつどう)の建設の歴史などについて触れている。
 まず、ハイライトの「加太の大カーブ」の所在をおおまかに説明してから写真のキャプションに入ろう。
 起点である名古屋駅を発車した関西本線の下り列車は南に向かい市街地を抜けると、海抜ゼロメートル地帯に広がる豊かな水田の中を快走、木曽川・長良川・揖斐(いび)川と続けて架けられた長い鉄橋を渡って伊勢湾岸を南下して桑名から臨海工業都市の四日市へ到着した。この先は、今までいつも右の車窓に遠く眺めていた鈴鹿山脈の南端を源に全長約40qを東に流れ下って伊勢湾に注いでいる鈴鹿側の左岸に沿って伊勢平野の内陸へと西へ向かった。やがて紀勢本線を南へへ分岐する亀山駅が近づくと、広々としていた沖積平野も尽きてきたようで、いずれ鈴鹿川の両側から山々が迫ってきて、扇状地を登るようになる。その右手は本州の中央部から伊勢万に並行して来た鈴鹿山脈が西南に好きを変えた南端の山々であり、左手は伊勢平野と伊賀盆地をへだてる布引山地の山々であった。次いで、亀山駅を出ると先ず鈴鹿川に沿い、

そして本流よりも水量が多く、遠くから流れくる支流の加太川に沿った細長いて谷間をさかのぼり、「加太超え」の峠を加太トンネルで抜けて伊賀盆地へ下り柘植駅に到着する。この先は木津川沿いに奈良方面に西進してゆくが、ここから琵琶湖岸を目指す草津線が分岐していた。ところで、この「加太の大カーブ」は峠のトンネルに入る手前約1qほどの所で、加太川の上流に注ぐ大崖川と呼ばれる支流の作った水田の広がる谷を急勾配のカーブした高い築堤が横切っている所にあって、正に山の奥であった。
 ここで、掲示した作品の撮影メモを紹介しておきたい。
 最初の一枚目は、SL写真駆け出しの昭和40年の晩秋に初めて“加太の大カーブ”で撮った記念すべき写真である。この撮影行では、前夜を亀山の駅前旅館に泊まって、早朝の列車で加太駅で下車し、線路の築堤を右手に眺ながら西へ約40分ほど歩くと、大築堤のすぐ下を通っている小道に出た。当日は中在家信号場の辺りまで市偵察して駅まで戻ったが、この時の交通の便の悪さの苦労から、これ以後はクルマで遠征することに決めたのだった。
 次の二枚目は本命の作品です。
或る時、今までのアサペンに続いて手に入れた「コニω6 7」と呼ばれたプレスカメラの“こにかぷれす”を携えて意気高らかに鈴鹿へ向かった。ここは関西本線の名古屋起点 キロポスト74地点の曲率半径300mの大カーブ、25‰の急勾配の続く大築堤を見下ろせる丘陵の格好の俯瞰(ふかん)ポイントである。そこの丘の上の松の大樹に登って手持ちのコニカプレスで撮ったのがこの一枚である。確か草津線へ向かう貨物列車で、運用の都合上であろうか、 信楽(しがらき)線の貨物仕業のためのC58が後部補機として付いている 1792レであったようと思うのだが。ショットをすましてホットしていると、本務機が通り過ぎた後、貨車のジョイント音が続くなか、徐々に後補機のブラストが近づいて来るのにしばし松の樹の上で酔いしれていたのだった。
後日談であるが、この写真を公開してから1年ほど経った頃、奈良市に在住の「宮様の石橋」を主宰されておられる宮川さまから突然メールを頂戴した。それには、私の撮った写真と同じ場所の近況をレポートした 「平成版加太の大築堤を登る」 をアップロードした旨のお知らせであった。その要点を下記に掲げてみた。
「宮様の石橋」/「三重県亀山市の石橋」
『1.平成版加太の大築堤を登る (かぶと)』
〈http:18.photo-web.cc/~miyasama2748/HOME/P3NKEIkabutodaichikutei.html〉
『2009年9月に私は鉄道レンガ橋梁に関する情報を求めて、いつものようにネット検索を行っていた。そして、とある一枚の写真に目が釘付けになった。それは、何とも言いようの無い興奮を沸き起こさせるに十分な迫力を持ち、私は思わずガッツポーズをしてしまった。真っ白な蒸気をたなびかせ必死に急勾配を登ろうとしている機関車の雄姿。それを大パノラマで撮影した一枚のモノクロ写真。まるで空撮だ。撮影したのは田邊幸雄氏。今からざっと40年ほど前の冬の早朝。私は、その日以来、いつか同じ構図で平成版加太の大築堤を登る、を撮ってやろうと思い続けていた。旧国道25号線(大和街道)のレンガアーチを潜り、大築堤を東へ抜けて右折。その先、大崖川のレンガアーチを越えた所で右手にP。うまい具合に線路へと続くステップが切ってある。ステップを登りきるとそこが線路面。さらに左手の丘の上に攀じ登る。そこは鬱蒼と茂る木々の簾。氏の撮影ポイントはここで間違いない。しかし、氏が攀じ登ったという松の木はいったいどこにあるの?ここからどうやって大築堤を見通すの?・・・約40年と言う歳月が私の前に立ちはだかる。氏と同じ構図で撮影することはもはや絶望的なのである。線路面に降り立ち、反対側(西側)の小丘に登ってみる。どうやらここは南側から大築堤を見渡せる唯一の場所のようだ。少し物足りないが、かろうじて大築堤の曲線を俯瞰できる状況である。天気はいいが、左頬に当たる風はまだまだ冷たい。』
是非ともサイトにある写真もご覧頂ければ幸です。
 続く1枚の作品は、その後に撮った数多くの写真の中から意表を衝いた構図を選んでみた。
  ここからは、この「加太越」に関わる沿線の風土と鉄道建設に付いての話題にふれてみよう。 先ず、地形の概略だが、本州を南北に全長約 60qにもおよぶ鈴鹿山脈は伊吹山麓の関ガ原の南から起こり、三重と滋賀の県境をなす山々が連なり、その南では伊勢湾岸に沿って石灰岩の藤原岳(標高 1,144m)、花の山で知られる御斎所岳(標高 1,212m)となり、その先は次第に標高を下げながら南西に向きを変えつつ仙ヶ岳(標高 955m)、そして国道1号線(元 東海道)が通じている鈴鹿峠(標高 373m)の鞍部となり、続くて高畑山(標高 773m)、那須ヶ原山(標高800m)を経て、伊勢・伊賀・近江(甲賀郡)の境をなす三国岳(標高 715m)に到達している。ここから南へは砕石の宝庫となっている「お経塚山(標高 623m)」から鞍部である加太越え峠(標高 309m)を横切って低い尾根が布引山地へと伸びていた。一方、この鈴鹿山脈の南西部に対して鈴鹿川、そこから分かれる支流の加太川の谷を挟んだ南側に連なる山々は伊勢平野と伊賀盆地をへだてている布引山地であって亀山に近い方から北笠岳(きたかさだけ、標高 767m)、して雨乞いの霊山で知られる錫杖ヶ岳(しゃくじょうがたけ、標高 676mがギザギザした山容をみせ、そこから次第に低くなった尾根が先ほどの「加太越峠に接していた。一方、この南は青山高原から紀伊半島の主稜へと低い山並みが続いていた。
さて、ここから関西本線の前身である関西鉄道(かんせいてつどう)の生い立ちに触れてから沿線の乗り鉄を試みることにしたい。明治時代の初期のことであるが、東京−神戸を結ぶ幹線鉄道の建設ルートは中山道経由と決まっていたから、京都から名古屋へのルートは長浜から関ヶ原経由のルートが先行して進められていた。そして、明治13年に京都−大津間が開業し、大津−長浜間は琵琶湖上の汽船によるれんらくとして、その間の鉄道建設は却下されていた。やがて長浜−関ヶ原−大垣間は明治16年(1883年)に開業し、さらに南への木曽川鉄橋が架橋工事中であった。
このような状況下で、幹線鉄道ルートから見放された旧本会堂の
東海道や元脇街道の奈良道の通っていた地域の人々にに幹線鉄道への便をもたらそうとする機運が私設鉄道を創立して鉄道建設を実現しようとする方向へと向かっていた。その地域とは、京都−柘植−亀山−四日市、そして亀山から参宮のための津方面への支線、四日市から桑名を経て熱田(名古屋)への本線の延伸、更に柘植から分岐して伊賀上野−なら・大阪方面が視野の中に入っていた。そのような計画案を抱いた関西鉄道の設立の動きに対して、鉄道建設の免許を与える国のかんがえ方は、 当時の明治14年頃としては、『官設鉄道局では自らが現在連絡航路となっている大津−長浜間(湖東線)の建設を早急に実施する計画とし、この途中に開業する予定の草津駅を起点とする関西鉄道を再検討してはどうか。』と云う示唆であった。実際に、幹線ルートが中山道から東海道ルートへと変更になってからも、名古屋から先のルートは既に開通していた中山道ルートの一部の延長上に敷設されることとなり、最終的に明治22年(1889年)には関ヶ原−米原−草津−大津間が開業して全通することになる。
そして、明治21年(1888年)に伊勢や伊賀の人々は関西鉄道を創立した。工事総監督には帝国大学工科大学 白石直治享受を嘱託に任命してスタートを切った。この白いし直治(1857‐1919:安政4‐大正8)さんは帝国大学工科大学土木科を卒業し、文部省の、アメリカ留学生となり大学で学び、ペンシルベニア鉄道会社や橋梁会社で実務を経験し、欧州を経て、明治20年(1887年)に帰国、ただちに帝国大学工科大学教授に任ぜられた。そして教授のままで関西鉄道の技師長も兼ねたのである。その後の明治23年(1890年)には大学の職を辞して関西鉄道の社長に就任し、名古屋への延伸開業、それに奈良・大阪への延伸開業への決断と実現に尽くされた。一方では土木学会の会長としての足跡も残しておられる。その氏が教授と技師長を兼ねていた時代のすざましい逸話が伝えられている。当所は横カマから四日市まで期線で週ごとに往来して鉄道建設の指導に当たった。その出張の夜の航海の船中では、工事上必要なる文書の整理検閲に費やし、或は海外への注文書を自ら執筆するなどの努力を惜しまなかった。そして四日市に到着するや、直ちに幹部より経過を徴し、終日自ら現場を巡視して、その進捗を点検するのであったと伝えられている。
そして明治23年(1890年)には早くも草津から柘植まで開通している。これ2より三重県の伊賀地域からの東京や大阪方面が鉄道交通の恩恵を受ける圏内に入る第一歩となった。続いて柘植からの延長は四日市方面が優先されて、最大の難工事であった「加太隧道(トンネル)」や「加太の大カーブの築堤」を克服して、明治23年(1890年)には四日市まで開業し、続いて桑名や津方面への延長に取りかかっていった。これらは明治維新後わずか20年で、あの険しい山中に鉄道をよくぞ通したものだとあらためて驚かされるのであった。
  ここから亀山→柘植間の乗り鉄を試みてみた。列車が亀山駅を出発し、左手に C50が入れ替えに励んで居ると云う高い証明鉄塔を従えた広いヤードを横目で見て、迫ってくる鈴鹿川の谷間へ向かって進み、やがて国道1号線、工事中の名阪国道などの跨線橋の下をくぐって鈴鹿川左岸の段丘の上の関駅に到着する。この先の左手にある城山(標高 153m)の南側を走り、鈴鹿川を大和川橋梁で渡ると間もなく、右手に鈴鹿川の支流の加太川が見えて来る。
この辺りでは、「加太越え」へ向かう国道25号線(江戸時代の脇街道の奈良道、明治の大和街道)は国道1号線(旧 東海道から関町の北の外れにある西の追分(標高 102m)から分岐して、鈴鹿川を大和橋で渡って西へ進むと、左手にに支流の加太川とその対岸を走る関西本線を見ながら緩い坂を登っていた。それは、昔の奈良時代の東海道は加太川に沿って下ってきて、鈴鹿川との合流点の近くの低い位置で鈴鹿川を渡るルートが取られていたのが、鈴鹿峠越えの東海道が開通してから高い地点で合流するルートが開かれたとされている。
やがて関西本線は左からの布引山地の北笠ケ岳の山麓が迫ってきて、加太川が蛇行する峡谷を古めかしい鉄橋で何度が渡ってひたすら西へとさかのぼって行くのであった。もう線路は25‰の登り勾配に掛かっており、勇壮なブラストの重奏音が谷間に響き渡った。この辺は急勾配と急カーブの難所である。やがて
最初の短い金場トンネルに入り、出たかと思うとすぐに坊谷(ぼうだに)トンネルとなる。この辺りでは国道25号も線路に沿うようになりトンネルで抜けて西へ向かっている。その先でちょっとした池のそばを過ぎれば細長い盆地風な加太集落の谷間の入り口に迎えられたことになる。左にカーブが終わると、今度は国道がSカーブを描いて線路を踏切りで横断している所を過ぎると、直ぐ先の加太駅に到着する。ここからは南東方向に眺められるのは布引山地の錫杖(しゃくじょう)ヶ岳がそびえており、反対側には城跡のある鹿伏兔山(かぶとやま)の急崖が線路にせまっていて、いかにも山間の駅と云う感じである。旧大和街道の旧国道25号は狭い加太の市場、板屋の集落を抜けて西へ進む。
さて、強硬 150mの加太駅には加太越超えの標高 274mのさみっとへと挑むために、ほとんどの蒸気機関車は停車して、その備えのため石炭のかき寄せに忙しい。
駅を出ると右に左にと曲がりながら、本格的な峠越えが始まり、やがて加太の大築堤を登って行くことになる。この辺では南を流れる加太川へ注ぐ多くの支流を跨ぐ築堤にはレンガ造りのアーチ橋の市場橋梁、屋渕川橋梁、大アーチの蛇谷川橋梁などが設けられており、それに高さを誇る板屋川鉄橋などがある。やがて列車は板屋集落北側にある築堤上を走り、その先の山林を過ぎ大きく左に右にカーブを切って進んでゆくと、やがて国道25号線が大和街道架道橋で築堤の下をくぐって北側の山側へ出て行った。これは
重厚な石積と煉瓦み造りのトンネルデあった。やがて北中在家の民家の散在する中を築堤は加太大築堤へと登って行く。この中程には大崖川溝渠(こうきょ)と呼ばれる水路専用のアーチ式トンネルが口を開けており、その灰色の石積みの坑紋は高い築堤を登って来る列車を稲田を前景にサイドから撮る時の格好なアクセントとなっていた。その先の山林を過ぎると大きく左にカーブし、次いで今度は右にカーブして進ンで行く。そこを登った先の左手には名阪国道がすぐ近くまで寄ってきており、中在家信号場があり列車がスイッチバックしている。この先は加太トンネルまで25パーミルの勾配が続きており、やがて、全長約928mのトンネルに突入、約150mほど入った所がサミット(標高 約274m)であった。そして、後補機がトンネルに消えると同時に、煙の塊が列車にまとわりつかないように、加太トンネルの亀山側に詰める保線区員が巨大な電動式カーテンを閉める作業を行っていた。加太トンネルを出て掘割を過ぎて左に曲がり、遠く大坂湾に注ぐことになる柘植河をレンガ造りの烏谷川橋梁のアーチ橋で渡りそれに、沿って出来た細長い貯水池鴉山池を左に見て進む。やがて再び国道25号(旧道」と並走するが、道は線路を架道橋で潜って離れて行く。やがて柘植駅の構内が眺められ、左に大きく分岐するのが奈良方面と云うレイアウトであった。確かに前身の関西鉄道は草津から柘植へ、そして亀山、四日市に向かって線路を敷設したため、亀山方面から見ると草津線が直線で、関西本線が左へ分岐するような線形となっているのであった。到着した柘植駅のホームには標高 243mと書かれた標柱が立てられていて、ここが伊賀盆地の東端で意外と標高が高かった。いま通ってきた「加太越え」の柘植方は加太側に比べて緩やかな峠越えなのであった。それ故に、上り貨物列車の後部補機に取っては、25‰もの長い下り阪での制動機関車としての大役が課せられているとのことだった。

撮影:1969年頃
ロードアップ:2009−08−05
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・『関西本線の「加太(かぶと)越え」の風景』シリーズのリンク
060. 加太の北在家集落から見える加太大築堤・加太−中在家(信)
406. 中在家信号場俯瞰と加太隧道の扁額・中在家(信)付近
148. 板壁と白壁の民家のある風景二題・加太−柘
014. 矢羽根付き転轍機標識のある風景・中在家信号