自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・八高線の北部を訪ねて(高麗川以北)
404. 「新しき村」より・八高線/毛呂−高麗川

〈0001:春の淡雪の残る新しき村よ築堤を行く下り貨物列車〉


〈0002:白煙をなびかせて葛貫(つづらぬき)峠を登る上り貨物列車〉
「新しき村」の入り口付近から。八高線

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紀行文〉
 関東平野の西のはずれにある毛呂山(もろやま)近辺の八高線沿線を撮りに出かけた。断っておくが、決して「げろやま」とは読まないように。何はともあれ、高麗川駅からDCに乗ってロケハンをして見よう。高麗川から川越線がほぼ直角に右手に分かれてゆくが、川越線との間に約45度の角度で分かれる線路は日本セメント埼玉工場(現、太平洋セメント)への専用線で、それを右に見て八高線はそのまま北上する。やがて上路プレートガーター桁7スパンの全長約90mの高麗川を渡り、また直ぐに支流の宿谷川橋梁を渡るとやがて、短いが20‰の葛貫峠 (つづらぬきとうげ)の切通しを越えると、その先は葛川の谷を横切るように築かれたら高い築堤を通り過ぎた。この峠の標高は約100mほどなので、付近の平地が約60〜70mほどだから宿谷川と葛川との間の尾根の先端の辺りを越えているのであろうか。この尾根には、当時幕府のあった鎌倉から北関東の下野(しもつけ/栃木県)や信州へ向かう鎌倉街道の「上道」と呼ばれた古道が越えており、飯能越生間の県道が明治26年に開削された。この北麓には「宿谷舘(やどたにやかた)」と呼ばれる鎌倉時代の城跡が畑の中に土塁や空堀を残しているとのことだった。そして毛呂へ向かう列車の右の車窓から一両の路面電車らしい姿をチラリと里山の中に見かけた。これは後に訪ねてみたところ、「新しき村」と云う集落の幼稚園に使われていた東京都電7022号のなれのはてであって、ブロックの上に据えられていた。
再び列車に戻すと、その先にある松葉台地を切り通しで抜ける八高線の真上に架けられていたのは、古レールで構築された長瀬陸橋で、その下を走り抜けると、次の谷を流れ下ってきた大谷木川筋に開けた平地に踊り出た。やがて、左手に埼玉医科大学と付属病院の白い大きな建物が見えると、毛呂駅は近い。その先は越辺川(おっぺがわ)の支流の毛呂川橋梁を渡って、低い丘陵を越えれば越生梅林で名高い越辺川の谷の中心地、越生(おごせ)駅に到着である。
この高麗川駅から毛呂を経て越生駅へ通ずる八高線は秩父山地(武蔵丘陵)と関東平野が接する八王子構造線にまたがり、西部の緩やかな山地は標高約300 〜400mの外秩父山地の東縁から張り出してくる多くの尾根と、その間を流れ下る小さな谷が櫛の歯のように並んでいる地形を横断するように走っているのである。その尾根と谷とは南から宿谷川、葛貫峠、葛川、松葉台地、大谷木川、もう一つの丘陵、毛呂川と続いていた。これらの尾根が尽きた先は越辺川(おっぺがわ)と高麗川に挟まれた標高約60m前後の関東ローム層に覆われた平地が広がっていた。
この毛呂山の南部に当たるの葛川の流れる丘陵地帯の約10ヘクタール(10万平方m)の土地には白樺派の文学者の武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)とその同志たちが1918年(大正7年)に創設したユートビア(理想的社会)建設を目指した「新しき村」が昭和14年(1939年)に宮崎県から移住して来て、養鶏・稲作・畑作・椎茸・茶の栽培などの農業を基盤とした自給自足の共同体の集落を営んでいるのであった。その「ユートピアの三要件」を、「全ての人が健康で長生きできる社会、全ての人が個性を発揮して天職を全うできる社会、全ての人が生きる喜びを感じ、趣味良き遊びを楽しむことができる社会」として、その実現のための「人間らしい生活」とは、「衣食足りて礼節を知る」の教えのとおり衣食住をまず自分達の手で確保し、その後に、「自己を正しく生かすことにより他人を生かし、またお互いに助け合って自己を完成する」よう生きることであり、その根底をなすものは「人類愛」である。と実篤は述べていると云うのだった。
  この葛貫峠を越えた先の大築堤で上り列車を撮ろうとして、南北に通じている県道30号飯能寄居線を高麗川から北上した。高麗川の流れを越えて、右手に「埼玉医科大学日高キャンパス」(当時は単なるさとやまだった。)を過ぎて葛貫峠の切り通しを抜けるとやがて、「新しき村」への右折の看板が現れた。その角には前田農場と云う大きな養鶏場があった。これが後から判ったのだが、奇縁にも私の新潟明君中学時代の同級生であった前田圭一さんが経営していたとは驚いた。この養鶏場の脇の小道を行くと八高線の踏切りがあり、その先は「新しき村」の入り口であった。そこの木製の柱にはかすれかけた文字で「この道より我を活かす道なしこの道を歩く」とあり、茶色に塗られた柱のそれぞれに、白いペイントで、「この門に入るものは自己と他人の」 「生命を尊重しなければならない」と書かれていた。 幅2mほどの緩やかにカーブした小道を挟んで茶畑が広がり、その向こうには数件の平屋の家屋と柿ノ木が枝を茂らせているのがかい間見え、くぬぎの森もあるようだ。正に里山の風景そのものだったのだが、幼稚園に使っていると云う都電の姿が異様に感じられた。高台の下には広いは谷に開かれた稲田が八高線の大築堤の麓まで広がっていた。この谷を流れ下るる葛川は、八高線の築堤の西側にある葛貫辺りを水源にして高麗川の北側を平行に流れ下り、坂戸町で越辺川に合流する延長7kmほどの小さな谷を流れる川だが、昭和8年(1933年)に開通した八高線の築堤で分断されてしまっている。しかし、この谷の北側を流れる大谷木川の上流に今は鎌北湖とよばれれいる山根貯水池が昭和4年から10年に掛けて築造され、その用水の一部が葛川導水路の暗渠(あんきょ、延長428m径800mmコンクリート管)でで松葉台地の下を通って葛川の上流の谷間の湿地に開かれた「谷津田へ潅漑されたことから、下流に位置する「新しき村」の水田を潤して豊かなみのりを約束してくれているのは頼もしい限りであり、全く良い場所を選んだと感心させられた。
★写真の説明★
高麗川から南は蒸気列車の本数も多かったが、その本数の減る高麗川以北の区間へは足を向ける機会が少なかった。
それでも高麗川-毛呂には短いが20‰の葛貫峠 (つづらぬきとうげ) があり谷を越える築堤もあってた貨物列車を撮りに出かけた。迫力ある峠シーンとは云えないが、自然あふれる山里の風景の中を葛貫峠の大きな切り通しのサミットを目指してC58が白煙をなびかせて通り過ぎて行った。この八高線も1970年10月には無煙化の波が押し寄せてきてしまったのだった。★
 最後に「新しき村」に恩恵をもたらしている農業用貯水池である「鎌北湖」の来歴について触れておこう。1929年(昭和4年)にアメリカで起こった世界恐慌(きょうこう)の波が日本にも押しよせ、その不況対策として各地で公共事業が計画されつつあった。埼玉県でも、この不況にあえぐ農村を救うための「救農工事」として溜め池(ためいけ)の築造計画が進められた。この武蔵丘陵では日高市の宮沢湖と毛呂山の鎌北湖がそれである。この当初、「山根貯水池」と呼ばれた溜め池用のダムは昭和4年から10年まで掛けて工事が進められたと云う。湖の規模は、周囲約2km、水深20m、貯水量30万m3、そしてダムの規模は堤高 22.6 m、堤頂長 84.0 m、堤体積 7.9万m3で、中信コア型アースダムと云う形式であって決して大規模の物ではなかった。これは安全性の為に堤体内中心部に土質遮水壁(コア)を設けた上で、均一に台形状に盛り土を行っているもので、大規模なアースダムの典型であるとされている。周囲は外秩父山地に囲まれており、奥武蔵域の貴重な湖として多くの人々に楽しまれているのである。この「鎌北湖」の名は、この毛呂山一帯に痕跡が残されている鎌倉か移動「上道」の通過した地点の北側に設けられたことから県立自然公園の一環として命名されたと云うのだった。


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・「八高線の北部を訪ねて(高麗川以北)」シリーズへのリンク
346. 外秩父山地を行く T・越生〜小川町
347. 外秩父山ろくを行く U ・八高線/小川町〜寄居
306. 上武鉄道(元 日本ニッケル鉄道)の古典SL・八高線/丹荘駅
186.   春の 神流川 鉄橋・八高線/小川〜群馬藤岡