自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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にある送付先へドウゾ。)
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・八高線の北部を訪ねて(高麗川以北)
306.
上武鉄道(元 日本ニッケル鉄道)の古典SL
・丹荘駅
〈0001:13126:上武鉄道 6号、昭和43年3月24日撮影〉
〈0002:13134:上武鉄道 6号 フロントビュー」
〈0003:13124:上武鉄道 6号 製造者銘板〉
〈0004:DC101号に牽引されて丹荘駅へ向かう貨物列車〉
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〈写真撮影メモ〉
最初の〈0001〉は1965年(昭和40年)の廃車ごも西武化学工業前駅の脇にある車両基地に取り残されていた6号蒸気機関車のポートレートである。この先輪は、シリンダの後部、動輪の前に配され、主連棒は第1動輪に接続されていた。運転室は、比較的大型のものが備えられ、側水槽、背部炭庫・水槽と一体のデザインとなっていた。その優雅な曲線をつないで構成したキャブ側面、それにサイドタンクのリベットは横一直線となっているのが特徴のようだった。
砂箱は側水槽前部のランボード(歩み板)上に設置されており、そこから弁装置とシリンダ上部の弁室までを覆うカバーが設けられていたことのようだ。
次の〈0002〉は真正面からのフロントビューである。一目で明治中期の最もポヒュラーなタンク機関車の“A8”と判る風情である。
三枚目の〈0003〉は6ごうのビルダース プレート(製造者銘板)である。
1902年、bU39.と清三年と製造番号が記されている。
楕円形をしたナスミス・ウイルソン社の美しいデザインである。
「0004」は、帰りの途中で待ち伏せして撮った貨物列車である。この列車を牽引しているのは、DC101号の液体式L形機関車である。
これは1966年昭和41年)に建設省から譲り受けたもので、元々は1954年三菱重工業製の出力 190psてあった。このDLは非力ではあったが、使い勝手が良かったらしく、本線での運用に重宝されていた。もう3年早ければ明治の古典SLの長くて高い細身の煙突から煙を噴き上げて快走する姿が見られたのだったが。
最後の〈
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〈紀行文〉
関東平野の西縁に連なる外秩父山地から櫛の歯のように並んで平地へ張り出して来た丘陵の山すそを縫うようにアップダウンを繰り返して北上して来た八高線が秩父山塊の北部に当たる埼玉県から群馬県に入ろうとして上武山地の山裾を抜けて桑や小麦の畑が広がる平地に下って来ると終点の高崎も近くなる。この埼玉/群馬の県境には上武山地を水源とする神流川(かんなかわ)が東へ流れており、清冽な水を武蔵野台地の北部に当たる本荘大地の田畑を潤して豊かな農産物を育んで、利根川へ注いでいた。この川の名を世間に知らしめたのは、1985年(昭和60年)8月12日の夕刻に起こった日航 ジャンボジェット機 羽田発伊丹行:JAL123便の世界最悪の墜落事故であった。その場所が群馬県と長野県の県境にある標高1,978mの高天原山(たかまがはらやま)の群馬県側の尾根(後に「御巣鷹の尾根と命名)であって、その近くにある御巣鷹山(標高 1,639m)は神流川の水源の一つであった。その奥深い山中の墜落現場へ向かう多くの救援隊の人々は、この川筋をさかのぼって急いだのであったからである。
私が八高線の神流川橋梁を最初に訪ねたのは1968年(昭和43年)3月24日の春たけなわと云う頃であったから、あの事故より相当に昔のことになる。私の勤め先が八高線の高麗川に近かったこともあって、八高線の南部には足しげく通っていた。今度は北の方から撮ってみたいと考えて手始めに、神流川橋梁を最初の撮影ポイントに選んだ。それは、五万文の一の地形図を眺めていると、神流川に沿って藤岡の先に鬼石、万場などの谷間の町々が続く「十石街道(じゅっこくかいどう)」が中山道の脇街道として信州の佐久へ通じていると云う歴史の香りに魅せられたし、また神流川橋梁の右岸(埼玉県側)から東へ約400mほどしか離れていない丹荘駅(たんしょうえき)からは日本ニッケル 日丹線と記された専用鉄道らしい路線が伸びているのを発見したからでもある。実は、私の専門はクルマの光り部品に金属光沢を与えるための「ニッケル・クロム・めっき処理」の生産技術だったから、この社名にある希金属の“ニッケル”と、この土地の風土との結びつきに興味を覚えたからでもあった。
このシリーズでは「上武鉄道(元 日本ニッケル鉄道)探訪記」、続いて「逆光の神流川鉄橋」をお届けしたい。
さて、 東京都との北境に接している埼玉県和光市にある自宅から、当地では川越街道と呼ばれている国道254号線に乗って北上する。この道路は江戸時代には川越・児玉往還と呼ばれた中山道の脇街道として内山峠(標高:1066m)を越えて信州の佐久へ通じていた街道筋であって、鉄道で云えば東部鉄道の東上線で終点の寄居まで沿って北上し、そレからは八高線に沿って群馬県へと通していた。春3月の早朝に、川越、東松山、小川、寄居、児玉と関東系屋の西喜多の街々を抜けて埼玉県と群馬県の県境を流れる神流川に近ずいた。その埼玉県を縦断して来た八高線の最北の駅は丹荘(たんそう)駅へあって、懐かしい感じのする木造の赤屋根の可愛い駅舎であった。その西側の山寄りは貨車の留置してある数本の側線を挟んで上武鉄道の単式ホームがあったが、列車は朝晩の通勤用が設定されているようであった。これが元・日本ニッケル専用線の日丹(にったん)線だなとうなずいた。
この埼玉西北部には本荘とか、児玉、丹荘などと昔ゆかしい地名が並んでいるように思える。この「丹荘」は江戸時代からの元阿保村が1889年(明治22年)の町村制施行によって、付近の多くの村村々と合併して“丹荘村”としたことで誕生しているようだ。この地域を、その昔から治めていた阿保氏は平安時代から鎌倉・室町時代にかけて関東に勢力を持った武士団である武蔵7党のひとつである「丹党」の氏族であることから、丹党の荘園を意味する村名が選ばれたと云われている。所で、“丹”の文字の起源は、丹党の先祖は平安時代に関東に下って来た丹治氏(かじし)だとされており、その子孫には鍛氏や鍛冶氏(加治氏)などが主流を形成しており、音の同じ“丹へと転化したとの説のようだ。この丹党の主流は飯能から秩父に勢力を持っていたが、南朝方に味方したことから、その後に没落してしまったのに対して、その氏族である阿保氏だけは足利氏に属したことから、その所領を長く維持することができて、今も“阿保”名が地名や用水の名称に残している。そして、昭和6年(1931)に八高線が倉賀野から児玉まで開通した際に、村名が駅名となったのであった。その後の1954年(昭和29年)の町村合併で消えてしまい、今や駅名と、駅の北側にある鬼石街道踏切の脇に立っている丹荘村道路元標の石柱に刻まれた“丹荘村”のみが歴史を物語っているのだが、それに比べて「日本ニッケル」の名は今では全く痕跡を留めていないようだ。先にも触れた鬼石街道は中山道(なかせんどう)の宿場である本荘から児玉、そして丹荘を経て鬼石に至って、そこで十石街道で合流して信州へ向かう重要な道筋でもあって、今は埼玉・群馬県道22号上里鬼石線となっている。この丹荘は古くは中世の鎌倉街道も通っていた交通の要でもあった。ここに顔を見せた「十石街道」とは、中山道の新町宿から分かれ、藤岡宿を経て神流川の谷をさかのぼって、鬼石、万場、中里、上野を経て十石峠(標高 1,351m)を越え、信州の佐久に至る信州・武州を結ぶ脇往還として重要な街道筋であり、今の国道462号線がこれに相当している。この“十石”の名は、上州側の地域では全く米作ができないので、峠を越えて信州の佐久米が一日に十石の割合で搬入されたことに由来すると云うのであった。当時は信州から米、味噌、醤油などが、上州からは炭、紙などが運ばれていたが、明治初期になると養蚕業が佐久でも盛んになり、この街道は“絹の道”ともなって、谷口に位置する鬼石宿は絹の取引の中心地として栄えたと云うのだった。
丹荘の集落を出て桑畑の広がる中を西へ進むと、養蚕農家独特の煙抜きを備えた屋根をもつ家などを見ながら、山すそから神流川に沿ってさかのぼり、対岸に渡り鬼石へと続いているのだった。その途中の右手に1960年(昭和35年)に日本ニッケル(株)から西武化学工業(株)と名前を変えた若泉製鋼所の構内が現れた。やがて山に突き当たった所に格式の高い武蔵の国二の宮と敬われる金鑽神社(カナサナじんじゃ)が鎮座していた。この「カナサナ」と云うのは金砂のことであり、製鉄にちなむ地名であった。多分、渡来系氏族によって営まれた鉄や銅の鉱石を採掘した山を神として祭っていたのであろう。この付近に多くの古墳が見られることからも、早くから開けた中心地域であったようだ。珍しく本殿がなく、「お山 御室嶽」が御神体である。この社は丹荘駅のスタンプの図柄になっていた。そして、拝殿の左横から御神体の山に連なる(御嶽山」へ至る登山道があって、しばらく登ると、国の指定天然記念物となっている「鏡岩」がまつられており、これは高さ4m、幅約9m、北向き30度傾斜している巨岩であって、地質学的には約1億年前に八王子構造線が出来た時の岩断層活動のすべり面であるというのであった。これは鉄分を含んだ褐色の岩肌が磨き上げられたように平滑で、実用的な兵器や農耕具に適した鉄鉱石であると云う。その平面は光を反射して遠くから鏡のように光ったと云うので「鏡石」と名付けられている。こんな話を聞いて来ると、日本ニッケルがこの地に鉱山を営んだ地縁が感じられて来た。
ここから日本ニッケルの発祥の経緯について述べよう。あの太平洋戦争勃発の前から日本では軍需物資として重要品目の一つであるニッケルの国産化が進められていた。その鉱石となるのは日本にもスポット状に広く存在している蛇紋岩地帯に分布している含ニッケル粘土が注目された。これは僅か0.3%のニッケルを含む蛇紋岩の風化によりニッケル分が濃縮されて二次的に生成した珪ニッケル鉱などのニッケル 鉱物を含む粘土である。この粘土を採取する多野鉱山が戦前から戦中にかけて神流川左岸の群馬県鬼石町内に開発されて、これを採掘、特殊な選鉱法によりニッケルを濃縮した鉱石が生産された。この程度の貧鉱の処理に適したドイツのクルップ社の「クルップ・レン法」の技術を使って処理し、更に精練して特殊鋼やステンレス鋼の製造原料となるニッケル 20%以上含んだ
フエロニッケルを製造することが決まった。そして昭和11年に日本ニッケル(株)が創立され、多野鉱山にニッケル精錬所、神流川の対岸の支流三波川一帯の埼玉県渡瀬にに若泉精工所が建設された。その進捗により昭和16年には、福原料の
無煙炭や石灰の搬入、製品出荷のための国鉄八高線 丹荘駅に連絡する延長6.1qの専用鉄道線を開通した。日本ニッケルと丹荘を省略し日丹線(ニッタンセン)とも呼ばれるようになった。この年に飯山鉄道から1号蒸気機関車を譲り受けて建設工事にも使用している。この機関車は1921年日本車輌が製造した27t型、車軸配置0-6-0 (C) 形のサイドうえる式タンク機関車であった。この時に日本車輌がモデルにしたのは小倉鉄道が輸入して好成績を挙げていたドイツのヘンシェル社が1914年(大正3年)に製造した重量 25.7t、0-6-0(C)のサイド・ウェルタンク式機関車(後の国鉄1285形)であったと云う。この1号は1962年(昭和37年)まで使用され、1965年(昭和40年)廃車されている。
この専用線は、さらに上流への2.9qの延長も計画したが戦中の資材不足で断念している。
その6年後の戦後昭和22年(1947年)に地元から旅客サービスの要望に応じて、専用鉄道から地方鉄道への免許を得手、小型木造客車を貨物列車に連結して旅客輸送サービスを開始している。
そして昭和29年(1954)になると、日本ニッケルの工場敷地内で、尼崎肥料が操業を開始した。たしか、蛇紋岩が風化して形成された粘土は燐酸系肥料の原料となるといわれているから、これが関係しているのであろうか。
1960年(昭和35年)になると尼崎肥料を合併した朝日化学肥料(株)が日本ニッケル(株)の鉄鋼部門を吸収し、社名を西武化学工業(株)となった。それに伴って、日本ニッケルの一組織であった鉄道部が分離独立し、日本ニッケル鉄道となり、今まで終点であった若泉駅は西武化学前駅と変更した。
さらに昭和37年(1962)に上武鉄道と社名を変更したので、日本ニッケルの名前は消えてしまった。
その後、1986(昭和61)年で八高線丹荘駅の貨物取扱いが廃止されたことから、その年の末に上武鉄道は廃止となり、トラック輸送に切り替わった。
さて、日本にっける日丹線で活躍した蒸気機関車は極めて多彩で興味ふかいが他に譲ることとして、ここでは昭和43年3月に姿を見せていた6号蒸気機関車と同系の鉄道作業局制式の“A8型の系統”に属する鉄道員静制式の400型の系統である 「5号、4号、6号《」の来歴について述べてみたい。
最初は、1959年(昭和34年)に西武鉄道から借り受けた「5号」であった。
これは西武鉄道の前身である川越鉄道が官設鉄道局と同型の1B1タンク式蒸気機関車をイギリスのナスミス・ウイルソン社に1輛自社発注した機関車である。開業当時の川越鉄道は甲武鉄道(のちの中央線)が経営管理をしており、実績のある甲武鉄道K1形と同形の本機を導入したとされている。これは、
ナスミス・ウィルソン社1896年製(製造番号493)である。それは、川越鉄道 K2形3号であった。後に改番されて、西武鉄道5号となった。
1959年に日本ニッケルが借り受け、1961年まで使用された。
4号が入線すると同時に休車となり、1965年で廃車。
1965年(昭和40年)に記念物として西武鉄道に返還され、以後保谷車両管理所構内の保谷教習所に保存されていた。そして2012年には、西武鉄道の前身である武蔵野鉄道の創立100周年を迎えるに当たって、西武鉄道100周年記念事業として 5号蒸気機関車の修復をが完成させて披露している。
次に入選したのは、1961年(昭和36年)に西武鉄道から借り入れた4号である。
これは明治中期に代表的なタンク機関車として知られる“A8型”の前駆として最初に導入された機関車であって、後に鉄道院制式では 400型となった4両の中の一両である。
ナルミス・ウイルソン社1 886年(明治19年)製、製造番号303)
動輪直径 : 1,321mm、運転整備重量 : 31.65t、動輪軸重(第2動輪上) : 8.48t
後に国有化により400型403号となる。
鉄道局→日本鉄道→房総鉄道→川越鉄道(西武鉄道)
川越鉄道 K2型 5号となった。
その後西武鉄道4号(2台目)に改番され玉川線で使用された。
1961年(昭和36年)に日本ニッケルが借り受ける。
1963年7月まで使用された。1965年(昭和40年)10月1日付で廃車となり、埼玉県所沢市のユネスコ村に静態保存されたが、閉園5は西武鉄道の横瀬車両基地で保存なかである。
最後が、1962年(昭和37年)に西武鉄道から借り受けたのが6号である。
この機関車は400型と同型を甲武鉄道が発注し到着後に、子会社の川越鉄道に入線した。
ナスミス・ウィルソン社 1902年製、製造番号639。
川越鉄道 K2型 6号となった。
1962年に上武鉄道へ貸し出されて1年間使われて、DLに交代した。
1965年廃車。私の訪ねた昭和43年3月には西武化学工業前駅に隣接した車両基地に存在していたが、その後の動勢は不明です。
さて、ここからは5号→4号→6号と後退しながらニホンニッケル→上武鉄道で活躍をツヅケタ明治の古典SLである鉄道作業局のA8型系2−4−2(1B1)型タンク機関車の前駆でもある400型の来歴を述べよう。
この機関車のルーツは古い。汽車が走り始めてから14年経た頃、従来から使用されてきた2型(2−4−0:1B)タンク機関車では鉄道輸送量の増大によって能力の不測が目立ってきたことから、国鉄の前身である内閣鉄道局では
より旅客用にスピードが出て貨物も牽出来るより大型の機関車を求めていた。そして、軸重が軽い軸配置 2−4−2(1B1)型のタンク機関車に着目していた。そして、イギリスのナルミス・ウイルソン社が1886年(明治19年)に製造した1D1型タンク機関車4輛(製造番号300−303)を輸入し、形式J(69,71,73,75)とした。直ぐに日本鉄道に転属させて、W2/4形(18、−21)となり、開通間もない奥州線の大宮-黒磯間に使用して優れた成績を挙げた。この機関車の先輪と従輪には、ロンドン北西鉄道の機械主任技師であったウェッブ が考案したラジアル軸箱が採用されていた。この軸箱は、左右の車輪を独立させて両輪の間を復元用のコイルバネでつなぎ、軸箱ガイドの内部を摺動(しゅうどう)させることによって車輪に横動を許し、曲線通過を容易にさせるもので、ここでは25oの横動が与えられていて、第1動輪の摩耗を防ぐと云う成果を挙げた。
この結果を受けて私鉄も含めて同型や類似の機関車が数多くどうにゅうされているのである。
官設鉄道では、軸中を許容限界まで引き上げた、「やや大型」の機関車を増備して実績を上げた。この機関車は“A8型”と称されて、官設鉄道ノミならず各私鉄にも採用されて、後の鉄道員500型、600型、700型となっている。この機関車は明治中期に活躍した大教的タンク機関車であった。その前駆である400型も含めて一族を“A8系”と呼んでいるのである。
私の訪ねた昭和43年3月にはすでに無煙化が完了して、6号機関車以外は姿がなかった。基地にはDLやガソリンカーなどが在籍して賑やかであった。
この項を制作するに当たっては各種の参考文献を参照させていただきましたことを感謝致します。
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・「八高線の北部を訪ねて(高麗川以北)」シリーズへのリンク
404. 「新しき村」から・八高線/毛呂−高麗川
346. 外秩父山地を行く T・越生〜小川町
347. 外秩父山ろくを行く U ・八高線/小川町〜寄居
186.
春の
神流川
鉄橋・八高線/小川〜群馬藤岡