自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・八高線の北部を訪ねて(高麗川以北)
347.  外秩父山ろくを行く U  ・小川町〜寄居

〈0001:bP30112、627レ、竹沢−折原〉


〈0002:bP30113、627レの回想9600、竹沢−折原〉


〈撮影メモ〉
竹沢から折原へ向かう627レ。列車の後尾に回想の逆向きの9600が連結されていた。この9600は寄居から高麗川行の石灰石専用列車を引いて戻る仕業となっていた。

〈0003:bO90714:朝日を浴びて、折原−寄居〉


〈0004:bO90624:荒川鉄橋を渡る278レ〉




〈0005:bP3854:荒川鉄橋遠望・寄居→折原〉


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〈紀行文〉
 ここでは比企丘陵の最北部に当たる八高線の小川町駅から寄居駅まどの山越えと荒川
を渡る鉄橋のある区間を訪れた。この区間には東部鉄道東条線も走っており、道路では国道254号(東京〜松本 間)が県道30号飯能寄居線と重複指定でほぼ東上線に沿って通過しており、最近バイパスも開通している。
先ず地形のおさらいから始め蝋。奥秩父山地の一角の埼玉・山梨・長野の三県が境を接する甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)の埼玉県側の標高2,475mの山腹に発する「真の沢」を源とする荒川は秩父山地の水を集めながら秩父盆地まで東に流れる。ここから長瀞渓谷まで北に流し、その後東に流れて寄居町で関東平野に出る。そして熊谷市で南南東に向かい川越市を経て河口の東京湾に向かっている。この荒川へは外秩父山地や比企丘陵に源を発した槻川、都幾川、越辺川、毛呂川、高麗川などが最も南からの入間川と合流した上で川越市付近で合流鵜しれいる。その荒川の右岸に沿って横たわる外秩父山地は比企三山の一つである大霧山(おおぎりやま:標高 767m)からから北へ伸びる長大な尾根上にあるのが釜伏山(標高582m)である。この山のすそが荒川を横断する場所が長瀞渓谷である。その外秩父山地の東側に沿った比企北丘陵の官ノ倉山(標高 344m)・石尊山(標高 344m)などから次第に高度を下げた山並みは荒川右岸に達している。外秩父山地と比企丘陵とが接する谷間には東西性の稜線を南北に切断する低地があって、その低地を国道と東武東上線が通っている。その谷の南では兜川が小川町で槻川に注いでおり、北へは長久院川が谷を刻んで荒川に注いでいた。
一方の八高線は外秩父山地の中を通っており、八高線と東上線の間には標高 264mの金勝山(きんしょうざん)に連なる尾根が横たわっていた。
さて、小川町駅を発車し住宅地から農村風景の中を左に東上線と国道254号を並走させながら緩やかな上り勾配を
北上する。この小川町からは谷間を流れ下る兜川に沿っていて、先ず長さ15mのトラフガーダーの第2兜川鉄橋を渡ってから、続いて北の金勝山、南の官ノ倉山から流れ出る多くの小さな支流の流れを横断する線路には短径間の橋梁が連続していた。そして約1qほどの所で、東部東上線から左へ分岐した引き込み線が国道を踏切で横断して腰越の石灰石採取場(日本セメント)へ通じていた。さらに1qも走ると東上線が左に分かれて八高線をオーバーパスし向きを北に変えて再び八高線と並走となる。やがて八高線のガードをくぐってきた国道が現れると八高線との並走はなくなり東部竹沢駅となる。八高線の竹沢駅とは離れている。再び八高線と出会うのは寄居駅構内となってからである。この東上線の次の駅は難読駅で知られる男衾(おぶすま)駅であり広い構内がめについた。ここからは戦時中には南西方にある三山の山中に鉢形航空廠と呼ばれた陸軍の弾丸工場への軍用引き込み線が伸びていたようだ。この跡地は「三ケ山緑地公園」と「県産業廃棄物最終処分場」として活用されていた。
さて八高線に話を戻そう。やがて、国道が八高線の架道橋をくぐろうとする直前に直進する山道があり、道は一時的に線路を離れて坂道に入った。この先は標高150mの「プチ峠」を越えると、切り通しを抜けて来た八高線に再開して山村風景の広がる中を標高 118mの折原駅へ向かって下った。この竹沢−折原 間の4.0kmはちょっとした山岳路線を思わせる区間で曲率半径250mのカーブと、20‰の勾配の線路が続いていた。
折原急落の近くの山中に戦時中に活躍した高射砲の台座を載せたターンテーブルの円形のコンクリート基礎が残っていたのを見つけた。これは、山を東側にあった陸軍の砲弾工場を守るために設けられた防空陣地跡であった。
やがて3‰の勾配上に設けられた単式ホームの折原駅に付いた。この一帯は元 折原村であって、戦国時代の鉢型城の大手口に面していて、侍屋敷や城下町が配置されていた地域であったと云う。この折原駅を降りて踏切へ出ると、八高線の東側を蛇行しながら延長わずか4qと云う近沢川が流れており、この下流は素晴らしい渓谷を作って荒川に注いでいた。その東側岸野小道を北上する。先で県道294号坂本(東秩父村)寄居線に合流して水石山良秀寺を過ぎると鉢形城歴史館があり、この先で深沢川の谷を渡ると鉢形城跡内に達することができた。城の話題は末尾にまとめました。
かて、折原から寄居への3.6kmの八高線のアプローチは素直ではない。この折原から寄居の市街地に向けて直線的に路線を設計すると、両地域の高低差が大きいことから、荒川に建設する橋梁は大規模なものを架けなければならず、さらに急勾配な路線となってしまうため、寄居の市街地の西側に大きく迂回して勾配を緩和するようなルートがとられた。しかし一方には、国の史跡に指定された鉢型城址を避けるための処置だとする説もあるようだ。
折原を出ると、丘陵の畑作地帯を蛇行しながら進む、山間部が近くに迫ってくると左カーブで鉢形城跡を右手に見たところから視界が開け、右カーブすると雑木林の向こうに荒川と寄居の町が見えて来た。列車はしばらく上流に向かいながら次第に高度を下げて行く。川面が近づいたところで再び進路を北に向けて荒川右岸の段丘面から全長さ 137.8m、5連プレートガーター形式の荒川鉄橋を渡った。これは昭和9年の開通時のものであった。何故か左岸側2径間は支間長19.50メートルの古典的なポーナル型プレートガーダー橋で、他の3径間に比べて長さが短くなっているのは他からの流用ではなかろうか。最も南側の流心の箇所に存在した第1号橋脚は河床低下や流水による洗掘の影響を受け、根固め工の流失が生じたことから渡河部分である右岸側2径間のプレートガーダーと共に撤去され、代わりに1986年(昭和61年)に耐候性鋼を使用した川田工業製(現、川田テクノロジーズ)の1径間の下路式平行弦ワーレントラス橋に架け換えられていることを知った。
この鉄橋の左岸側は半径300mの曲線で右にカーブしていたのも珍しかった。その下には暴れ川特有の大岩がごろごろとした“玉淀河原”と呼ばれる河川敷が見えた。渡りきったところで、列車は掘割へと入り右にカーブして抜け、住宅地を東へ走り秩父鉄道の下をくぐと多くの線路が輻輳している寄居駅に到着した。右には秩父鉄道、その先に東部東上線のコームとなっていた。
さて、ここで八高線を大きく迂回させたともおもわれる鉢型城址について語ろう。この荒川が秩父山地から関東平野に流れ出る谷口に築かれた注世の鉢型城跡が国の史跡となっている。ここは三方を外秩父山地、比企北丘陵、上武山地(鐘撞堂山(かねつきどうやま:標高 330m)などの丘陵が取り囲んだ中にある荒川右岸の河岸段丘の上に築かれ、最高点は三の曲輪の122mと低く視界が狭いが、周囲の丘陵の主要な高台に物見台が置かれていた。城は荒川南岸の河岸段丘上に立地し、盗難は荒川に流れ込む深沢川に挟まれた三角形の地形で、西側には車山(標高 227m)と云う独立丘陵を横たえていて、この位置帯に本丸、二の丸、三の丸野曲げ輪(くるわ)を設け、虎口(出入り口)、土塁、櫓門、馬出し(木戸)、搦め手を配ししていた。ここは一見して東南、北側は堅固であったが、西側は開けた地形なので防衛上の弱点とされていた。この
西南の折原村の一帯を大手口、東の鉢型村地域を「搦手(からめて)」として3重の空堀を設けて防衛策を施した。西南部には侍屋敷や城下町、寺院、神社などが配置されていたと云う。
この城の東方には鎌倉と北関東を結ぶ鎌倉街道の「赤浜の渡し」があり、また中山道の熊谷と甲府を結ぶ秩父往還と云う街道が秩父方面から鍋伏峠(標高 533m)を下って来ると城の正面へ出てから切り通しを抜けて荒川の渡しをへて寄居へ通じていた。この秩父往還から城下町を横断して鉢型村を通る鎌倉街道へ出る道もあり、また小川道と云う小川から勝呂を通る車山の南方を西に折れ、秩父往還へ通じる道もあった。このように交通の要所を抑えていたのであった。この秩父往還があえて山越えをしていたのは、荒川沿いは長瀞渓谷を通る難路を避けるためであった。
この城は、文明8年(1476)関東管領(かんとうかんれい)であった山内(やまのうち)上杉氏の家臣長尾景春(ながおかげはる)が築城したと伝えられている。その後上杉家の持城として栄えた。そして室町時代末期に至り、上杉家の家老で、この地方の豪族であった藤田康邦が、北条氏
の三男氏邦を鉢形城主に迎え入れ、小田原北条氏と提携して北武蔵から北関東支配の拠点として、また遠くは越後や信濃からの防御拠点として重きをなした。
時代が下って、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原攻めの際に、秀吉配下の大軍に包囲され3か月後に開城した。間もなく廃城となってしまい、自然に戻ってしまっていた。昭和7年になって、
戦国時代の平山城の形態をほぼ完全に残していることから国の史跡として指定されたのである。
最後に、この寄居町は荒川左岸の河岸段丘上に形成された宿場町で、秩父往還と鎌倉街道が交わる交通の要として栄えて来た。江戸期に書かれた新編武蔵風土記稿によれば、この地名の由来は『鉢形城の落城のさいに、各地から落人が寄り集まって居住したことから生まれた。』とあることを教えられた。

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・「八高線の北部を訪ねて(高麗川以北)」シリーズへのリンク
404. 「新しき村」から・八高線/毛呂−高麗川
346. 外秩父山地を行く T・越生〜小川町
306. 上武鉄道(元 日本ニッケル鉄道)の古典SL・八高線/丹荘駅
186.   春の 神流川 鉄橋・八高線/小川〜群馬藤岡