自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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(メールは上の
SL写真展 ( INJEX )
にある送付先へドウゾ。)
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・軍事路線だった川超線を巡って
343.
入間川鉄橋を行く
・西川越え−的場
〈0001:bO90763:入間川鉄橋822レ〉
〈0002:bO90765:上の水鏡〉
〈撮影メモ〉
上の二枚は朝の大宮行き通勤列車 822レです。
入間川の川越側の河原から撮影しています。
初冬の早朝は低い陽光が列車を照らしていた。
総省は頭の
〈0003:15104:入間川橋梁を行く大宮行セメント列車〉
〈撮影メモ〉
日本セメント高麗川工場の専用線から高麗川駅で編成されたセメント列車は川越線を経て隅田川貨物駅へむかうのであろうか。
〈0004:〉
C釣り堀のある風景
●sl400. filcs 0002:15-10-3:
〈撮影メモ〉
9600の牽く夕の高麗川行通勤列車です。
夏の夕暮れであろうか、釣り堀には菅笠をかぶった釣り人の姿がしえた。もう少し先で入間川鉄橋を渡ります。
〈0005:bP6142:農業用水の取水堰の水鏡〉
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〈紀行文〉
ここでは川越線の二番目のハイライトである入間川鉄橋を訪ねることにしよう。
まず、川越駅を出ると東部東上線と並行し、まもなく脇田陸橋で県道と西武新宿線を跨ぐと、やがて左方向へカーブして東条線と別れる。そのまま住宅地帯を直進し、県道15号川越日高線をくぐると左へカーブして西川越駅に到着した。ここを出ると入間川鉄橋へのアプローチの築堤を登ってゆく。やがて、県道15号の初雁橋を左手に、東武東上線のトラス複線鉄橋を右手300m下流に見ながら入間川橋梁を渡ることになる。ここはスッキリとしたプレートガーター13連の全長 238mの鉄橋であった。そして、緩やかな左カーブで築堤を下り続けながら住宅地を直進して次の的場駅へ向かっていた。
この“入間川”の名を聞いた関東の人なら、外秩父山地から流れ下る河川であることや、この川の中流に1954年(昭和29年)までは入間川の中流に埼玉県入間郡入間川町(現在の狭山市)が存在していたこともご存じであろう。一方、全国から見れば、大相撲の「入間川部屋」だったり、演劇好きの人には「表現 入間川」だったり、歴史好きには「入間川御所」などの方が良く知られていると思われる。
ちなみに、狂言 「入間川」のあらましは次のようである。
『舞台はあずまの国、入間川沿いである。
都に勤めていた大名が任務を終えて、太郎冠者を引き連れ、東国に下り、入間川に差し掛かり、渡り瀬を探します。入間川は、軍事的に重要な防衛線なため、もちろん橋は掛けられていなかったでしょう。そこで登場するは、ちょうどあたりを通りがかった「入間の何某」。
大名は、地元の何某に渡り瀬を尋ねます。
「このあたりは川底が深いから、もうすこしむこうで川を渡りなさい。」入間の何某は親切にも、渡り背を教えるのですが、大名は、まるで無視して、太郎冠者や何某の止めるのも聞かず、目前の川瀬を渡りはじめます。
案の定、深みの石に足を取られて、濡れ鼠になる大名。途端に、大名は激昂して、入間の何某に向かい刀に手を掛けます。
「入間の何某と名乗るなら、当然、「入間詞(いるまことば)」を使うはず。入間の者が、ここは深いというならば、浅瀬の筈。大名をまんまと騙して濡れ鼠にさせた罪は重い。手打ちにしてくれるわ!」
件の入間の何某は、これに騒がず大名に「弓矢八幡、成敗いたす」と誓わせて「やら心安や」と述べます。大名が入間言葉を持ち出したのを逆手にとって「成敗する」と誓わせたので逆に成敗できないだろうという理屈です。
ここから逆さ言葉を使っての応酬になります。
命を助ける、助けない。忝ない、忝なくもない。物を与えても、祝着にもござらぬ・・・などなど、やり取りが続いて、大名は様々な物を男に与えます。……』後者の「入間川御所」とは、南北朝時代になり、足利尊氏は文和27年(1353年)から入間川宿の徳林寺付近に設けた入間川陣城であって、4男の基氏(鎌倉公方足利基氏)が7年にわたり、ここで関東武士に「にらみ」をきかしていたのであった。
このように入間川の地は鎌倉街道(上道)が鎌倉から府中、所沢を経て入間川にでて、ここで「八丁の渡し」(川幅は約870m)で入間川の浅瀬を横断して上野(こうずけ、群馬県)から信濃(長野県)を経て都へ通じていた。一方、入間川を渡ったすぐ先で下野(しもつけ、栃木県)を経て東北へ向かう奥州道が分かれていたから、この地は交通の要所であった。そして、江戸時代になると鎌倉街道は衰退し、代わって江戸と川越を結ぶ川越街道、川越と八王子・青梅を結ぶ道が発達した。これに伴い、入間川宿も東西方面に発達し、室町時代に入間川御所のあったと云われる徳林寺周辺に豪商が多く移り住むようになり商業の中心地として栄えたのてあった。
この入間川は外秩父山地武蔵丘陵の大持山(おおもちやま、標高 1294m)の南東斜面を水源として、清流で知られる名栗川となって南流し、谷口集落の飯能で関東平野に出ると入間川と名を改めて周辺の台地を潤しながら南西に向かい、やがて左岸から高麗川などを合わせた越辺川(おっぺがわ)を合流すると、間もなく川越の先で荒川に合流している延長63qの大支留であった。その昔、江戸では火災が多発し木材が足りなくなると、入間川を使い、名栗村から大量の杉や檜(ひのき)の丸太を筏(いかだ)で運び入れた。その木材は、江戸の西の川から運んだことから「西川材」と呼ばれるようになった。
さて、この川越線の入間川橋のある辺りから上流の飯能の間の入間川は砂利川と云われるほど砂礫層が豊富であることは良く知られていた。関東大震災から戦後に掛けての首都 東京の復興に必要な砂利を大量に供給していた地域であった。
この川越線の直ぐ上流の両岸には砂利を運ぶ鉄道が長らく活躍していたことは未だ記憶に残っている。先ず左岸には東上線の霞ヶ関駅川越寄りに専用の側線と砂利集積場が設けられ、そこに埼玉県営鉄道専用線が入間川河川敷から接続する形になっていた。それは軌間 760mmの全長 2.4kmの路線で、途中で国鉄川越線がオーバークロスしていたカルバートが痕跡として残って居るのみであると云う。この前身は大正9年(1920年)に入間川砂利の専用鉄道として開通し、大正12年(1923年)に県営化されたものであり、Bタンク式蒸気機関車が使われていたと云われる。そして、昭和32年(1957年)に至って砂利資源の枯渇が明らかになり、砂利の輸送はトラックへ済ませる程度となったことから専用鉄道は廃止となった。
一方右岸では、西武鉄道南大塚駅から砂利運搬を目的にした貨物線、砂利線(後に」安比奈(あひな)線となった)が大正14年(1925)に入間川河川敷まで開通していた。その先の砂利採取場までは復興車 安比奈砂利軌道(軌間600o)のトロッコ線があって、元陸軍の鉄道聯隊から譲り受けたドイツ コッペル社製のE型タンク式蒸気機関車が3輛が活躍していたことが知られている。
このように入間川が流れていたであろうと思われる河道跡には厚い砂利層が埋まっているのは何故であろうか。
それは、今から1万1700年以前の洪積世の時代には氷河期が繰り返し訪れており、この氷河期には地球上の水は氷河として山の上に蓄えられるので海の水が少なく、海岸線が沖の方に後退するので、山と海の高度差が大きくなるので、山から流れ出る川は深く谷を刻んで、山を出た所で洪水になり、土砂や礫(れき)を堆積させ扇状地や河岸段丘を形作ることになる。その後にぢ地盤が隆起したりして台地をつくることになるとされている。
そのような時代には、古多摩川が青梅付近を扇状地の頂点として河道が今の武蔵野一帯に広がっていたようである。また、ある時代には現在の入間川の川筋にも古多摩川が流れていたこともあって多量の砂利を堆積させたと推定されている。そのような時代に八ヶ岳、箱根火山、それに富士山などの噴火が重なって、古多摩川が運んで堆積させた砂利層の上に火山灰を何段にも堆積させて、関東ローム層と砂利層が交互に堆積している地層を作り出したと云うのである。しかし、その後に河道となった場所では積もった火山灰層は流れ去ってしまい砂利層が厚く川底に残るいっぽう、川岸には関東ローム層に砂利層を挟んだ河岸段丘が発達することになったと推測されるのであった。
昭和40年代には川砂利の採取は禁止されてしまい、川の自然も次第に回復しつつあった。この川越線の鉄橋の下流約200mノ地レンに農業用取水のための小ケ谷堰が設けられていて、流れ落ちる白い水流を前景に鉄橋を渡る列車をとる好ポイントであった。またこの取水ダムのおかげで上流には水深のある川面が続いていて、丈流側からは朝の陽光を浴びた通勤列車の姿が水鏡となって映っているのを見つけた。
私は八高線の方ばかりに気を取られているうちに、川越線の無煙化は昭和44年の秋に足早にやって来てしまったのは心残りである。
〈「軍事路線だった川越線を巡って」キリーズのリンク
340. プロローブ:大宮台地を西へ・大宮〜指扇
341.
荒川鉄橋辺り
・指扇−南古谷
342. 夢の川越中央駅
-幻の西武鉄道・国鉄川越線連絡線-
292. 安比奈のE型コッペル・西武鉄道/安比奈線