自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役
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SL写真展 ( INJEX )
にある送付先へドウゾ。)
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・軍事路線だった川越線を巡って
340.
プロローグ:大宮台地を西へ
・大宮〜指扇
〈0001:bR114:大宮駅を発車する9600牽引の列車〉
〈撮影メモ〉
埼京線が川越線との直通運転をする前の大宮駅の11番/12番ホームから出発して来た下り列車を旧国道16号線の陸橋から撮影している。遠くに跨線橋が見えている。
〈0002:bR124:雑木林の残る風景〉
〈撮影メモ〉
関東平野の雑木林の脇を抜けて線路は続いていた。やって来たのは59669号であった。背後には外秩父山地から関東平野に続く武蔵丘陵の一角の低い山並みが見える。左側に昔懐かしい2段の腕木式信号機が活躍していた。
〈0003:bQ144:指扇を発車して荒川鉄橋への築堤のアプローチ〉
〈撮影メモ〉
夕暮れの指扇駅を発車する 2489レの貨物列車。牽引キハ 69636号だった。ここから勾配を駆け上がって高さ10mを維持しながら築堤を走り荒川堤防から鉄橋へと高麗川へ向かって力走する。
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〈紀行文〉
関東平野の西の山すそを巡って中央本線の八王子と高崎を結んでいるる八高線の高麗川駅と高崎セント東北本線の分岐点である
大宮駅を短絡する延長 30.6kmの川越線は埼玉県西南部の和光市の我が家から最も近い蒸気機関車に出会うことのできた線区であった。ここには頭書から9600型蒸気機関車がかつやくしており、私がSLを撮り始めた昭和40年頃から昭和44年9月末の無煙化になるまで朝の上り、夕の下りの一往復が96牽引の通勤用旅客列車が運行されていたから朝の通勤前に撮りに出かけることがしばしばであった。それにあやかって、私のHPのURLには「蒸気機関車9600型」を意味する“stmlo9600”を使っているのである。
このシリーズでは、小江戸 川越を中心とした鉄道の話題を集めた。プロローグとして大宮〜指扇間の寫眞と共に、川越線の建設の経緯と沿線風景を描写しておいた。
先ず川越線の建設の歴史であるが、その沿線の中心である小江戸 川越と呼ばれた町の歴史に比べて余りにも新しいのには驚かされた。
それは国が建設すべき地方の鉄道予定線を定めた大正11年(1922年)公布の「改正鉄道敷設法別表」の中には川越を通る予定線はリストアップされていなかった。それもそのはずで、その時までに既に3本の鉄道が各方面から川越に通じていたからである。
最も古いのは甲武鉄道(今のJR中央本線)の国分寺駅へ通じていた川越鉄道(今の西武新宿線+国分寺線)、次いで東北本線の大宮駅へ通じていた川越電気鉄道(後の西武大宮線)、三番目には山手線の池袋駅へ通じる東上鉄道(今の東武鉄道東上本線)であった。しかし戦時色が強くなった昭和9年(1934年)になって、東海道本線と東北本線とを東京を市街を経由せずに結ぶことが軍事的な危機管理政策から必要とされて、東北本線の大宮から川越を経て、昭和9年に全通した八高線(八王子−飯能−高崎)の飯能付近へ連絡する炉線として、『50−4. 埼玉県大宮ヨリ川越ヲ経テ飯能付近ニ至ル鉄道』として改正鉄道敷設法別表に急遽追加されたのだった。そして、この川越線は直ちに建設線となり、同年中に着工されると云う異例ののスピード振りであった。この背景には、もう一つの軍事的目的が期待されていた。それは関東大震災後に、東京市内に点在する軍事施設の郊外移転の一環として、弾丸や砲弾を製造する火工廠(しょう)を埼玉県の上福岡への移転が昭和2年に内定しており、昭和12年には、その移転が完了していた。ここには鉄道引き込み線がなかったので、川越線の南古谷駅との間に直線道路が設けられて物資の運搬が計画され、全盛期には学徒動員を含めて8500人ほどの従業員への通勤の便の一角を支えようとするものである。また、終点近いに高麗川村(現、日高市)には武蔵高萩駅の近傍に旧陸軍高萩飛行場も存在していた。
この路線のルート決定に先立って、昭和4年に鉄道省建設局では、は川越線の敷設について、大宮、川越を始め、日進、三橋、古谷、芳野、川越、入間川、金子などの沿線調査を行って、(1)大宮〜川越〜霞ヶ関〜高麗川(八高線連絡)、(2)大宮〜川越〜入間川〜所沢〜金子〜飯能(八高線連絡)の二案を策定していたが、着工直前になってやっと(1)案に決定したと云う経緯がある。その建設工事は昭和11年に大宮から始められ、荒川鉄橋の791mのある区間は鉄道省が直営工事を行い、昭和15年には9600型蒸気機関車が走り始めた。このルートは遠回りした分だけ路面電車の西武大宮線より3kmほど長い16.1kmとなっているのには先の軍事的な目的によるものと思われる。この線区の地形的特徴は、関東平野の矢や西部を東西に横断しており、利根川の西側に当たる大宮台地を西へ進み、荒川を渡って武蔵野台地の北西端に当たる川越台地を抜けて入間川を渡って外秩父山地へ続く東麓の在地の先にある高麗川へ通じている。この関東平野を流れる荒川とその支流である入間川を越えるための長い鉄橋の存在は川越線のシンボルとも云えるであろうか。
さて、起点の大宮駅では、1985年(昭和60年)の電化以前の川越線は大宮駅の地上ホーム11番線・12番線から発着していた。現在は地上ホームから発着する川越線定期列車は設定されていないが、工事列車などのためにレールは繋がっている。ここで埼京線の電車が乗り入れた頃の川越線の沿線を眺めてみよう。
地下駅のなった大宮を発車して、しばらく地下を走ったのちに地上に出て、鉄道博物館を左に見ながら市街地の中を高崎線、東北・上越新幹線と並走します。やがて新幹線をアンダーパスし、左へカーブして高崎線と分かれ西へ向きを変えカーブが終わると日進に着する。ここまでは複線となっているのは、埼京線の前身の計画が大宮から北へは高崎線の宮原駅を終点とする計画だったことの名残だと云われている。この先は単線となり、街並みの中を下り勾配の直線を進し鴨川鉄橋を渡り、広々としたなだらかな丘陵地帯をゆくと宮前インターチェンジの下を通過、西大宮バイパスとしばらく併走し、西大宮駅に到着する。その住宅地を抜けて雑木林や畑などを横切って再び住宅が現れると指扇駅は近い。この指扇駅の線路配線は大宮方が両分岐、川越方は上りが本線、下りが分岐側の副本線となっていて、大宮方は一直線で住宅街を抜けるのに対し、川越方は緩やかに南へカーブしながら 築堤をはい登って旧国道16号線(埼玉県道2号さいたま春日部線)の架道橋を渡って両脇の水田を見下ろしながら約10mの高さを保ちつつ荒川の堤防をこえて荒川鉄橋に入り、幅広い河川敷に営まれるゴルフ場を見下ろしながら渡って行く。この途中で「さいたま市」から川越市へ入ることになり。これは、その昔の荒川は蛇行しており、その後に河道を直線化したことから幅広い河川敷が左岸に生まれたものて、この左岸には川越市の飛地が生まれて現在にいたっているからであった。
そして右岸に近い所に幅100mほどの河路が流れており、その上に架けられた“かまぼこ型のトラス橋”を渡って行く。ここは強風に弱いことで知られているが、冬の晴れた時には浅間山から日光連山、時には富士山も眺めることが出来るのは楽しい。
荒川を渡りきると、直ぐに20‰の下り坂で古谷本郷集落にある薬師堂の墓地を分断して大きく右カーブして、辺り一面の田園風景の中を走り、左手の川越車両センターを通過すると南古谷駅に到着した。ここの広い構内には単式ホーム1面1線、島式ホーム1面2線の計2面3線のホームがあると云うのも何かいわれがありそうだった。実は、この近くの上福岡に戦前に陸軍の弾丸や砲弾を製造する巨大な火工廠(かこうしょう)があって、そこへ通勤する人々や物資の積み卸しに多忙な駅だった名残なのだというのであった。ここを出て右手に南古谷の集落を見送り、再び田園風景の中を進む。国道254号富士見川越バイパスの陸橋の下をくぐり、その昔江戸と川越の間の水運で栄えた新河岸川を渡って川越市街に入った。この先には川越台地へ続く低い崖が迫ってきて、昔の江戸とを結んだ川越街道(国道254号)が岸町から大仙波新田へと登ってくる鳥頭坂(うとうさか)と呼ばれる急坂のある所であった。川越線は右にカーブしながら東武東上線の下をトンネルでくぐり、続いて国道 254号(旧 川越街道)と国道16号が交差する交差点の下をトンネルで抜けて東上線に並走して走る川越駅(東武東上線の管理駅)着く。
西武新宿線の本川越駅へは商店街を歩いて約15分ほど離れています。
川越駅を出ると東上線と並行し、まもなく脇田陸橋で県道と
西武新宿線を越え、東上線川越市駅手前で左方向へカーブし東上線と別れる。そのまま住宅地帯を直進し、埼玉県道15号川越日高線をくぐると左へカーブする。
しばらくすると西川越駅に到着。すぐに踏切を越え入間川堤防への築堤を登り始める。そして県道15号の初雁橋を左手に、東武東上線のトラス橋梁を右手300m下流に見ながら入間川橋梁を渡る。ゆるい左カーブで築堤を下りつつ住宅地を直進するうちに、右手に牛が一匹寝そべっているような形の的場牛塚古墳の脇を通り過ぎるが、これは 「入間川流域最大の前方後円墳で高さ3.75m、全長42mの規模で7世紀初めの遺跡らしい。それを過ぎて埼玉県道114号川越越生線を渡ると的場駅に至る。その昔は近くの帝国火工品川越工場からの火薬類が積み出されてい貨物の忙しい駅であったが今は東京国際大学への学生の駅となってしまっている。この先は入間川とその支流の高麗川に挟まれた緑の多いなだらかな地形の中を直線で西南に進んで行く。関越自動車道をくぐって小畔川を越えると笠幡(かさはた)駅、再び直線が続き日高市に入った首都圏中央連絡自動車道をくぐり左へ緩くカーブし国道407号を渡るとすぐに武蔵高萩駅となる。ここを出ると再び田園が続き南に大きくカーブして八高線と合流して、川越線の終点・高麗川駅に至る。
■追加資料
川越−大宮間には川越電気鉄道として、明治三十八年(一九〇六)に開通し、本県内で最初に電車を走らせた画期的な路線であった。
西武鉄道に合併し、さらに右のように国鉄に移管されて、今日に至っている。
国鉄は線路を敷くとき、川越−大宮間はすでに電車が走っていたのだから、その線路を利用すればよいものを、そうしないで、全く新しく線路敷を買収して完成させたのである。それも、軍の命令だといって、いやも応もなく強引に通してしまったという。これはそのときの話である。
〈「軍事路線だった川越線を巡って」キリーズのリンク
341.
荒川鉄橋辺り
・指扇−南古谷
342. 夢の川越中央駅
-幻の西武鉄道・国鉄川越線連絡線-
343.入間川鉄橋を行く・西川越−的場
292. 安比奈のE型コッペル・西武鉄道/安比奈線