自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・軍事路線だった川越線を巡って
341.  荒川鉄橋辺り ・指扇−南古谷

《荒川の水面に映るSL列車の“水鏡”の競演三点》
〈0001:151011:短い貨物列車が水面に陰を落としている。〉


〈0002:bO9541:荒川の水鏡、その2〈




〈0003:bO90542:左岸に近ずく〉




〈0004:bO90852:荒川堤防へ駆け登る上り通勤列車〉


〈撮影メモ
川越からの荒川鉄橋へのアプローチは新河岸川沿いの荒川低地に広がる水田地帯から曲率半径500mの左カーブノ築堤を20‰の登り勾配で駆け上がって行く。この辺りは古谷本郷の集落の一部で、由緒ある鎌倉初期の薬師如来(にょらい)像を蔵する薬師堂の境内(けいだい)を分断までして開通させたところである。

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〈紀行文〉
 近年になって国電の埼京線が都心から大宮を経て川越線の川越駅まで乗り入れてがら、その途中で荒川を渡る荒川鉄橋が北西からの強い季節風によってしばしば運休となる事態が発生して、この長い荒川鉄橋の存在が世の中に知られるようになった。(

しかし、平成10年(1998年)に上流側に横風を低減する高さ2mの有孔鋼板製の防風柵(防風ネット)が設けられて風速20 m/sで速度規制、30 m/s以上で運転中止となるまで緩和されている。)
この路線は戦前に東海道本線や中央線と東北本線とを東京市内を経由せずに結ぶことが軍事的に必要となって急きょ建設されたルートであった。その地形的特徴は利根川西側に広がる大宮台地から荒川を渡って東京の山の手に続く武蔵の台地の北西部端に位置する川越台地を横断し入間川を渡って外秩父の山並みから関東平野へと続く武蔵丘陵の東縁を南北に走る八高線に接続している。それ故に荒川とその大支流の入間川の二つの大河を渡る鉄橋がシンボル的な風景を見せてくれている。ここでは大宮台地と川越台地の間を流下る荒川に架かる荒川鉄橋の辺りの風物を訪ねた。この荒川橋梁は川越景観百選の1つにもなっているとのことだった。
その主役の荒川は、遠く関東地方(埼玉県)と中部地方(長野/山梨県)とを分ける秩父山地にある埼玉・山梨・長野の三県が境を接する甲武信ヶ岳(こぶしがたけ、標高 2,475m、奥秩父)に源を発し、秩父山地の水を集めながら秩父盆地まで東に流れる。秩父盆地から長瀞渓谷まで北に、その後東に流れて谷口集落の寄居で関東平野に出る。そして東熊谷で東南東へ向かい、川越付近で入間川を併せて南下し、戸田市から再び東流、埼玉・東京の都県境を流れ、北区の新岩淵水門で隅田川を分ける。その後再び南流しさらに東京湾に注いでいる延長 173kmの大河である。ところが、江戸時代の初期には、荒川は関東平野に出てからは熊谷付近から東北へ流れて、現在は元荒川と呼ばれている川筋を取って越谷から吉川付近を流れていた利根川に合流し、東京湾に注いでいたのであった。それが、1604年(慶長9年)に関東に江戸幕府を開いた徳川家康により領地の荒れ地や湿地帯などを肥沃な農地への改良と、その拡大を進めるため河川の大改修に大きな努力を始めた。そこで家臣の中で土木技術に明るい、関東郡代、伊奈備前守忠治(いなびぜんのかみただはる)に利根川の流れを東に転じて、太平洋側へ流れ込むような流路変更する工事をを命じた。彼は、その手始めに、1629年(寛永6年)に利根川に注いでいた荒川を現在の熊谷市久下で河道を締切って、新しい河道を開削して和田吉野川・市野川に付け替えて入間川筋に落ちるような流路変更を成功させた。
この荒川の流れを受け入れることになった昔の入間川は
武蔵丘陵の大持山(おおもちやま標高 1294m)の南東斜面を水源として、清流で知られる名栗川となって南流し、谷口集落の飯能で関東平野に出ると入間川とに名を改めて周辺の台地を潤しながら南西に向かい、やがて左岸から高麗川などを合わせた越辺川(おっぺがわ)を合流すると、間もなく川越の北西をかすめて南下し、今の隅田川を経て東京湾に注いでいたのであった。それが川越の北西部で荒川が合流したことから、ここから下流は荒川と改名され、入間川は荒川の大支流となったのであった。
この入間川と荒川との合流点から東京湾への河口まで約44qほどの間の高低差は僅か20mほどしか無かったから河道は激しい蛇行を繰り返しており、上流で大雨が降れば洪水の起こりやすい暴れ川であった。そこで大正の末期から流れをスムースにするための河道の直線化と両岸の堤防の強化の大改修工事が延々と続けられた。その結果、例えば荒川鉄橋のすぐ近くの荒川右岸にあった古谷村(現在は川越市)では古谷上の「握津(あくつ)集落」が荒川左岸に取り残されると云う悲劇が起こった。それでも昭和初期までは「荒川の渡し場」として栄、約70戸を数えていたが、今では再三の洪水被害により無人の廃村となってしまっている。この荒川の最大川幅は1500mと云われるが川常に水の流れる河道は約100m足らずであって、残りの部分は河川敷となって残され、その多くはゴルフ場や公園などに利用されている。また、幅広い河川敷(堤防の内側)には荒川特有の横堤と呼ばれる独特の堤防が数多く設けられている。通常、堤防は川に並行して築かれますが、横堤は川の流れに対してほぼ直角に突き出しています。これにより上流からの洪水流を受け止め流速を減速させ河川敷や耕作地を保護することそれに川を直線化し連続堤を築いたことで、低下した遊水機能を確保する役割を果たしていると云う。
そして戦後の東京オリンピックの開かれた昭和30年代になると、首都圏は水不足に悩まされており、それに対して利根川系水道拡張事業が実施された。それは利根川上流部に巨大貯水ダムを建設し、埼玉県行田に設けられた利根大堰で利根川から取水された毎秒50m 3 の水道原水を武蔵水路(全長15q)を経て鴻巣(こうのす)で荒川に注ぎ、これを川越市の下流に当たる朝霞の秋ヶ瀬取水堰から東京都の
朝霞浄水場(都水道局の約4割を処理)、埼玉県の大久保浄水場(埼玉県企業局の約8割の処理)を経て昭和41年(1966年)末から広範な地域に上水道を給水し始めたのであった。この荒川が関東系屋にでる寄居での平均流量は30 m3/s(寄居観測所 2002年)とあるから、利根川から注がれる水道原水流量 50 m3/sが加わった荒川の流量はさらに川越で合流する入間川からの流量を加えるから、丁度川越線の渡荒川鉄橋の辺りでの荒川の水流の豊かさは眼を三春ものであった。それだけに風のない日には鉄橋を渡るSL列車の姿が美しい水鏡(鏡のような水面に反射により風景などが映ること)の写真を撮ることができた。しかし、この辺りでの流れの水勢は右岸に強く当たるようになって、やがて護岸用のコンクリート テトラポットが積み上げられてしまい、荒川の自然がすっかり損なわれてしまったのは残念であった。
さて、荒川と入間川の合流点のすぐ下流の広大な河川敷を左岸側に従えた辺りに川越線の荒川橋梁が架かっている。これは開通当時から健在の長さ791.22mの荒川橋梁であって、この線の役割からD51形クラスの蒸気機関車が通過が可能な設計で築かれていた。その構成は右岸(川越)側は4スパン、左岸(大宮)側が32スパン(合計36スパン)の1スパンの長さが19.2mの単線上路式プレートガーダー橋であり、その中間の渡河部分が1スパンの巨大な垂直材付きの単線下路式曲弦ワーレントラス橋である。トラス桁の支承からの高さは15mである。そして、下流右岸の堤防の上で、遠くから眺めると、やけに長いプレートガーダーの手前にただ一連のトラス橋が異様に大きく感じられたのが印象的であった。
さて、ここで川越線の荒川鉄橋へのアプローチについて調べてみよう。この堤内(河川区域外)側のアプローチ区間は両岸側とも築堤が設けられている。特に左岸では、馬宮第二横堤(西遊馬公園の南側)と馬宮第三横堤(現在の国道16号の場所)の中間地点に、横堤のような築堤を河道の向きに対して直角方向となる様半径600mの曲線で左にカーブして建設し、その天羽に線路を通して橋梁延長を短縮する工夫がなされている。それでも鉄橋の長さは 791mだから、この付近での荒川の川幅は最大値の1.5qに近いのではなかろうか。この鉄橋の架かるいちは荒川と入間川の合流点の直ぐ近くの下流に位置しているからである。
一方の右岸側のアプローチ区間は堤防から荒川低地に向けて20‰の勾配で下り、半径500mの曲線で右にカーブを描いて水田の中を南古谷駅へ向かっていた。
実は、この右岸の堤防の付近には自然堤防が存在していて古くからの集落(古谷本郷の一部)と信仰の中心である薬師堂が祭られていた。
ところが昭和に入って、川越線の線路建設ルート上に、古谷本郷地内の墓地と薬師堂がかかってしまった。そこを「軍の強権の下で」、買収して建設が進められた。その 線路を通すために薬師堂を東へずらし、墓地の一部を削って、真中に線路を通してしまった。つまり線路が通ることによって薬師堂と墓地は両方に分断されてしまったわけである。国鉄当局が、このルートに固執したのは、この先の南古谷駅の位置が陸軍の弾丸を製造する上福岡に設けられた火工廠(かこうしょう)への接近を容易にするために避けられなかったからであろうか。
 そして工事が完成し汽車が通るようになった。最初のうちは何事もなかったが、しばらくしたある夜、汽車が古谷本郷地内へさしかかると、前方に振り袖を着た若い娘の姿が浮かんできた。運転手はびっくりして、あわてて汽笛を鳴らしつつブレーキをかけた。これは間に合わないな、と思った瞬間、娘の姿は霧のようにかき消えていた。
 念のため列車を停車させて、よく調べてみたがどこにも異常は認められなかった。運転手はうす気味悪くなって、ふるえる手つきでふたたび列車を走らせ、四方八方に気を配りながらやっとのことで終点駅まで運転してきた。
 彼はさっそく上司や同僚に、恐ろしかった体験を話したが、だれからも一笑にふされ、信じてもらえなかった。
 ところが、次の日の晩のことである。最終列車が古谷本郷地内を通過すると、いつものように最後部に乗り込んでいた車掌が、何気なくうしろを見ると、驚くなかれ、女の親子連れがちょうちんを片手に持って、列車を追いかけてくるではないか。列車はフルスピードで走っているのに、負けず劣らずついてくるのである。口々に何か大声で叫んでいる。いやはや、びっくりした車掌は、腰を抜かしてしまった。
 やっとのことで非常信号で運転手に知らせ、列車をとめてもらった。運転手は不思議そうな顔であたりを調べたが、女の親子連れは影も形もなかった。「少し眠くなったんだろう」などと言われて、また車掌の席へ帰ったが、生きた心地もなかったが、やっと終点の灯が見えたとき、はじめてほっとして生き返ったような気持になった。
 それからというもの、毎晩のようにこうしたことが報告され、列車の乗務員も、夜の勤務は気味悪がって、だれもつく者がいなくなってしまった。国鉄当局でもすっかり困ってしまい、地元の人々に聞いたり、いろいろ調べてみると、古谷本郷の先祖代々の人々が永眠している場所を、線香一本供えずに削りとって線路を通してしまったので、霊がたたっているのではないかということになった。 さっそく近くにある濯頂院(かんじょういん)で関係者一同が出席して慰霊祭を行なったのである。それからというもの、そのようなことはなくなったという。
〈出典:新井博、「川越線のおばけ」、『埼玉県の民話と伝説・川越編』99-101頁、有峰書店、1977年2月刊)。
 後日談だが、川越線の開通から35年も経った1975年(昭和50年)の夏休みに郷土研究をしていた高校生の通報により川越市古谷本郷の薬師堂を初めとする3ヵ所の寺堂から9体の平安仏・鎌倉仏が発見された。これは平安から鎌倉時代にかけてこの 入間川(今の荒川)右岸の地には古谷庄(ふるやのしょう)と呼ばれた荘園があり、その在地領主層の経済力が大きく、天台仏教の浸透による薬師信仰が広まっていたことを示す証であるとされた。これらは 関東地方での中世彫刻の始まりを告げる資料として重要とされている。このような貴重な12〜13世紀の仏像が指呼の間に集中し、しかもそれまで特別の注意も払われず、指定文化財からもはずれて存在していたのは驚きであった。現在薬師堂の 堂内には薬師如来坐像を中心として両脇に日光菩薩・月光菩薩像、その前に十二神将像が祭られている。この 薬師如来は、現世に生きている人々を救済する仏であるとされており、八百年もの長い間、古谷本郷の人々の暮らしを見守って来たのである。この薬師如来坐像は埼玉県文化財で、鎌倉時代初期作とされている。また
日光・月光菩薩像は倉時代の作であると云われる。このような歴史的な事実が判っていれば、荒川鉄橋の架橋位置も変っていたことであろう。


〈「軍事路線だった川越線を巡って」キリーズのリンク
340. プロローブ:大宮台地を西へ・大宮〜指扇
342. 夢の川越中央駅
-幻の西武鉄道・国鉄川越線連絡線-
343.入間川鉄橋を行く・西川越−的場
292. 安比奈のE型コッペル・西武鉄道/安比奈線