自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ保存 & 日本現役
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・軍事路線だった川超線を巡って
342.
夢の川越中央駅
―幻の西武鉄道・国鉄川越線連絡線--
〈0001:bO70764:川越駅の朝の情景〉
〈撮影メモ〉
昭和40年のSL撮りを始めた頃の写真です。大宮行きの通勤旅客列車が到着。手前は下りの貨物列車を牽引している96です。この頃は、1面2線の島式ホームだった。
〈0002〉bO20223:晩夏の夕暮れの発車〉
〈撮影めも〉昭和41年に試に撮ったカラーネガの寫眞です。
川越駅へ進入した貨物を引く96。
線路の両側に懐かしい腕木式信号柱が見える。
手前に咲いている夏草は朝鮮朝顔だろうか。
こちら側はローカルの駅、背後は郊外電車の東武東上線です。
〈0003:bO40452:川越駅発車、矢羽標識がうつくしい。〉
〈撮影メモ〉
手前に色鮮やかな矢羽根標識と夏草。左側は貨物用の側線。
遠くに小さな駅舎。川越市街の裏手を正面にした国鉄川越駅のたたずまいは、いかにも後発のてつどうらしく取ってつけたような構えであった。
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〈紀行文〉
ここでは、川越市内ににおける鉄道の発展の経緯を考察し、将来の夢を期してみよう。先ずお断りですが、ここで使っている“中央駅”はドイツ語のHauptbahnhof(ハウプトバーンホフ)の訳語である「中央駅」のこどでして、その都市の交通の中心となる旅客駅のことです。近年の日本では“○○中央駅と名付けられた駅が多く誕生していますが、その多くは単に都市の中央に位置していることからだったり、また既存の中心駅とは別に新駅が生まれた際に未来の街の中心となることを期して命名されていることのようですが、それとは趣が異なります。
さて、各地で武士が荘園の実権を掌握するようになった平安時代末から鎌倉時代にかけての川越の地では、桓武平氏・秩父氏の流れをくむ河越氏は上戸に居館を構え、この地に地盤を固めていた。そして鎌倉幕府の御家人として重用され、河越一族は武蔵国の有力武士として繁栄していた。しかも、この川越の地は武蔵国の中央に位置し、古来から軍事上の要所でもあった。その後、上杉持朝の命で家宰の太田道真・太田道灌父子によって城が築かれると、上杉氏、後北条氏の武蔵支配の拠点の地位を持ち続けた。その後徳川家康が関東に移封されるに伴い、三河譜代の酒井重忠が1万石で川越に封ぜられ、川越藩が成立し、川越発展の礎をきずいた。その後も大老・老中など幕政の重職についた有力譜代大名や、親藩の越前松平家などが入封している。江戸の北の守りとしての城下町川越は江戸と新河岸川の舟運や川越街道で江戸と結ばれ、「小江戸」と称される程の発展振りであった。明治に入り、廃藩置県により川越藩は廃されて、今の埼玉西部には入間県が設置され、川越城に県庁が置かれた。そして
城下町の伝統と地理的条件により、穀物の中継地や織物、箪笥の生産地として埼玉県最大の商業都市となり、県内初の市である“川越市”となった。
そのような輝かしい歴史にもかかわらず、国鉄の「川越駅」が設けられたのは、何と戦時色の濃くなった昭和15年(1940年)と云うから驚かされる。
明治書記、農工品の東京への輸送を担っていた川越を軸とした新河岸川による舟運を握っていた川越の資本家たちはこの水運の繁栄を維持するためか、鉄道の接近や通過を好まなかったようであった。その結果であろうか、明治初期、国有鉄道の通過が見送られた川越は、政治、経済、文化的にも他より遅れが目立って来た。
そして、もっとも近くを通る鉄道は、北側では明治16年(1883年)に開業した日本鉄道高崎線で、上野から大宮を経て熊谷へ通じていた。続いて南側では新宿から八王子を目指して延伸して来ていた甲武鉄道が国分寺を経て立川ま明治22年(1889年)までには到達していた。この甲武鉄道が果たしていた東京や絹糸の貿易港であった横浜への貨物輸送ルートに眼をつけたのは入間川町(今の狭山市)、所沢町などの有力者たちや一部の川越の人々であった。それらの人々がお互いに呼び掛け合って鉄道建設の発起人として参加することとなり、ここの地域での蚕糸、織物、製茶、石灰などの物産の輸送をになう川越鉄道の敷設免許お明治23年に申請をおこない、そして川越鉄道会社を創立し、甲武鉄道の強力な支援を受けながら、5年後の明治28年(1895年)には甲武鉄道の国分寺駅から東村山、入間川を経由して川越駅までの間の29.7kmを全通させた。この開業に際しては、ドイツのクラウス社から輸入した2輛の車軸配置B型で整備重量25.5tのウエルタンクとサイドタンクを併せ持つ、飽和式2気筒タンク機関車が活躍し始めた。
そして入間川駅前からは馬車鉄道が豊岡(今の入間市)、飯能、青梅、霞ヶ関などを結んで物産の輸送や乗客の弁に貢献したと云う。(この馬車軌道の実物模型が狭山市市立博物館に展示されている。)
この川越初の鉄道が国分寺経由で東京へ通じると、大打撃を受けたのは新河岸川舟運を担っていた輸送業者たちであった。彼らは一転して馬車軌道を川越−大宮間、河越−坂戸間に建設する運動を始めて、川越鉄道に遅れること7年後の明治35年(1902年)に川越で第二番目の鉄道として川越馬車鉄道を大宮〜川越間に開業させることに成功した。それに力を得て、続いて川越市内への給電を目的とした川越電灯を設立して資金を集め、それを川越馬車鉄道に合併させた。そして火力発電所を建設して市内への宮殿と電車運行用の電力を用意する一方、明治39(1906年)には馬車鉄道を改築して、東京市電と同じ軌間 1372mmの全長12.9kmの路線を電圧600Vで、
大宮−川越久保町間の路面電車の電気鉄道に転身させた上で、社名を河越電機鉄道としたのであった。この際の軌道の建設には東京の中のにあった鉄道聯隊の訓練を兼ねた建設作業で行ってもらったり、車両も東京市電から譲渡を受けたと云う経営上手であったと云。これらの給電事業と電機鉄道は川越の近代化の先取製をしめす一例であると世間に評価されていた。やがて、明治39年(1906年)になると私鉄の国有化が始まり、甲武鉄道も買収され中央線となった。そのため河越鉄道は親会社を失い、東京への直通列車の運行ができなくなってしまうと云う苦境の時代を迎えた。
これとは逆に、河越電機鉄道はさらに傍系会社を設けて、埼玉と群馬の県境を流れる神流川(かんながわ)水系に水力発電所を建設して給電事業の拡大に務めた結果、大正2年(1913年)になると社名を河越電気鉄道から武蔵水電と改称し、大正末期までには荒川水系に浦山、大滝などの水力発電所を増やし、所沢や鬼石に火力発電所を設けるなどして、国鉄大宮工場や所沢飛行場、また秩父鉄道の電化などの工業用の電力需要にも答えると云う発電と給電の事業を拡大して行った。
一方、大正3年(1914年)になると東部鉄道に河越の資本家が参加して設立した東上鉄道が池袋から川越を経て霞ヶ関まで開通した。通常ならば後発の鉄道には既存の鉄道に接続する義務が免許条件として付けられているのだが、東上鉄道の免許条件にはこの適用がなかったようである。それは既存の川越鉄道は街の中心部に突っ込む形で川越駅を設けており、ここを経由するには市街を横断することの困難さが伴うことに直面することから、市街地を迂回する形で、市街地の盗難に川越西町駅(現在の川越駅)を、その西南に川越町駅(現在の川越市駅)の二駅を設けて川越を通過することになったようである。
そのけっか、東条鉄道が都心への最短ルートを築いたことから、既存の川越鉄道はお客を奪われて苦戦を強いられることになった。さらに、大正4年になると武蔵野鉄道が池袋〜所沢〜飯能間を開通させたから、都心への直通線を持たない川越鉄道は益々不利な状況となってしまった。それに対応するため河越鉄道は、先ず大正5年(1916年)に、箱根ヶ崎−吉祥寺間の鉄道敷設免許を村山軽便鉄道から譲り受け、都心への進出を試みていた。その4年後の大正9年(1920年)になると、電力供給域の拡大を目指す武蔵水電と、電化を考えていた川越鉄道の思いが合致したことから武蔵水電が河越鉄道を吸収合併することになった。武蔵水電は資本力にものを云わせて、路線の拡大に転じて、大正10年(1921年)に淀屋橋−荻窪駅南口間の路面電車(後に都電となる)を営業していた西武軌道を合併した。この会社は、新宿〜所沢間の路線免許を取得していたからである。
やがて、大正11年(1922年)には武蔵野鉄道は池袋-所沢間をいち早く電化する積極経営を見せていたから、未だ蒸気機関車を走らせていた武蔵水電の川越線は見劣りを隠せなかった。そんな対応策の最中の大正11年(1922年)に武蔵水電は全国系の帝国電灯に吸収合併されてしまった。帝国電灯では鉄道部門を切り離して武蔵鉄道を設立したが、その直後に社名を西武鉄道(初代)に改名した。その“西武”の名は以前に合併した西武軌道から再活用したとされている。そして親会社からの余裕のある資金を得て積極経営に乗り出した。この時から河越−大宮間の路面電車は河越東線から大宮線と改められた。その3年後の昭和2年(1927年)になると、河越線の東村山−川越間の電化が完成し、合わせて念願であった東村山と省電山の手線の高田馬場を結ぶ複線化した路線を開業させて河越から都心への直結が一気に実現した。一方の競争相手の東上鉄道も昭和4年になってやっと池袋−川越市間を電化した。ここからしばらくは二つの鉄道が良い共存関係の平穏な時を過ごしていた。
一方、川越では明治時代の終わりごろから国有鉄道の誘致運動として大宮、川越、八王子を結ぶ路線の誘致が行われたようでした。そのまとまった要望が商業会議所により関東商業会議所連合会へ提出したのは大正9年であった。
しかし、大正11年(1922年)に公布された「国が建設すべき地方路線の予定線を定めた改定鉄道付設法」の予定線を記載したベ別表の中には大宮−川越-八王子の路線は選ばれてはいなかったが、八王子と高崎を結ぶ八高線が予定線に起債されていた。
その後、地元では国有鉄道敷設期成同盟会が結成され、昭和8年(1933年)になって初めて建議書による陳情が行なわれた。(川越商工会議所100周年記念誌)
しかし、計画された国鉄八高線の敷設ルートが川越を通過しないことに決まったことから、川越の地元では大宮、川越、八高線を結ぶ国鉄線の誘致に方向転換して運動を続けた。やがて東北線や中央線のバイパス路線としての機能を持たせるため、鉄道省により大飯線(大宮〜飯能)が計画されるようになった。そして遂に、改正鉄道敷設法の別表に川越線(大宮〜河越〜飯能)の追加改定さ行なわれた。そして直ちに建設線に指定され、異例のスピード工事が着工された。そして大宮〜川越間は路線が早く決まったが、川越〜八高線間の路線が地元町村間の誘致運動のため決着が送れていた。この間、川越駅の設置場所について思わぬ紛争が起こった。当初、市長・議長・商工会議所会頭などの関係者は川越市の将来を考慮して、川越駅は市の中央駅として、西武線、東上線、川越線の合同駅設置を国鉄に陳情していた。これは、東上線と西武線が交差する脇田町と中原町の境界あたりに一大駅舎を建設しようとするもので、3線利用者の乗り換えに便利であるだけでなく、周辺地域を含めた商業街の再開発を行おうとする大高層であった。
一方の政府は、並行路線である西武大宮線は廃止、その他の3線は川越西町駅に統合して新たに川越駅とする計画であった。しかし、現在の本川越駅周辺の商人の多くが駅がなくなることに大反対したのであった。その結果、国鉄当局は中央駅設置案を白紙に戻し、現在のように東上線と連絡するだけの駅の設置に決定して、物資の輸送のため西武線と他の二線との連絡線を設けるようにとの条件で、西武線はそのままとすることになった。(川越市史参照)。こうして、川越には“中央駅(合同駅)”が生まれなかったのである。
そして、早くも昭和15年(1940年)に東部東上線の川越西町駅の南に隣接して新駅を設けて全線が開通した。同時に「川越西町駅」を「川越駅」と改めた。この街外れに出来た国鉄駅に鉄道省の命により川越の駅名を奪われることになった西武鉄道では、本家本元や町の中心の意味を込めて 川越から本川越へと駅名を変更したのであった。また、川越線の開通の影響を受けて乗客数の激減した西武鉄道大宮線が次の年に幕を閉じたのである。
さて、戦時中のことになるが、西武鉄道では昭和19年(1944年)に戦時下の食糧不足に対応するため、沿線の耕地を利用した大規模食糧供給を目的に、食糧増産(株)を設立した。一方では、その年に東京都から武蔵野鉄道と西武鉄道と食糧増産の3社が一体となり、専用貨車と積込所・貯溜施設を造って大規模な糞尿処理にあたることを委託されて実行に入り、この糞尿輸送が行われている最中に三社は合併して西武「農業鉄道」となったのである。戦後になるといち早く“農業”の看板を外して、西武鉄道(二代目)に戻って現在に至っているのである。
さて、ここから西武新宿線と国鉄川越線とお結ぶ連絡線の話題に入ろう。前述したように、国鉄川越線の川越駅が設けられる際に取り決められた貨物の流通のための西武鉄道と東武鉄道、国鉄川越線との連絡線は直ぐには建設されていなかったが、戦争末期になってその必要性に迫られたのであろうか建設が始められた。その場所は、西武川越線(現西武新宿線)を新宿方の南大塚駅から長い直線の複線区間が終わり単線となる脇田信号場を過ぎて、国道16号旧道踏切を渡り左カーブして本川越駅構内向かう途中から右に分岐しカーブして県道(
川越駅と本川越駅を結んでいる)を渡って赤心堂病院前を通って川越線に向って行く。そして「アトレマルヒロ」の前の踏切付近で川越線に接続すると云う経路の約350mの路線であった。この路盤が完成し、バラストも散布された所で終戦を迎えてしまった。そして連絡線はレールを敷設することなく未成のまま中止となった。この連絡線が急きょ建設された理由には次の二説が伝えられている。
その第一は、上福岡に設けられていた弾丸製造所である陸軍火工廠(しょう)のは従業員が8500人を越えており、その通勤は東上線と川越線が担っていたが、西武川越線沿線からの輸送を直結するための方策として連絡線の必要性が生じたというのである。その第二は迂回用の特殊専用線としての用途であって、西武鉄道の国分寺−本川越間)には修武台飛行場(現入間基地)や、所沢飛行場、陸軍立川航空工廠所沢支廠(旧所沢車両工場)、陸軍兵器補給廠小平分廠(現 ブリジストン東京工場)などが立地していたからである。そして戦後は西武鉄道の所有地として、将来の乗り入れ計画用として確保されていたが、やがて市有地となった。1975年頃まではカーブした敷地が空き地や路地としてのこされていたが、現在は市街地再開発の代替え地として活用されたり、駐輪場としてカーブした建物に連絡線の痕跡が認められる程度であると云う。この連絡線については資料が見当たらず詳細は不明です。
さて中央駅のない現在の川越では、
この西武新宿線の本川越駅と東部/JRの川越駅は約950m離れているが、徒歩で移動する人は少なくない。しかも、周辺は踏切が多く、車の渋滞も激しい状態°なっている。つそこで、川越市では1972年(昭和47年)に3線連絡にもとづく中心市街地整備と将来構想の調査を全国再開発協会に委託している。その後の解決案として川越市中心部の3駅(川越駅(:JR川越線・東武東上線)と、東武東上線の川越市駅、西武新宿線の本川越駅)を一体化する統合案は現在も模索されている。
3駅の間で3線が交差する辺りの地下に統合駅を新設し、踏切をなくして地上部を
緑地空間に変える案、
または、東武の2駅を統合して、西武との交差地点付近にJRの駅と 別々に移し、各駅を共通コンコースで結ぶ案が定期されている。
共通コンコース案は、人の流れが変わることに伴う既存の駅前商店街への
痛手をなるべく抑えようと考えた案で、乗り換えの移動距離が200メートル程度で済むという。この西武と東武が接続していない基本的原因は鉄道会社の問題と云うより、住民の利害関係に負う所が強いのが事実であろう。この三線合同による中央駅構想は、川越にとってまさしく古くて新しいテーマなのである。
参考資料
1)川越市史
2)川越商工会辞書100年誌
3)鉄道ファン2013年10月号、「川越駅連絡線について」。
4)西武線 廃線、廃駅めぐり〜(西武)川越線−東武、国鉄川越駅連絡線(未成線)
とことこパンダのお散歩写真/ウェブリブログ
http://87786290.at.webry.info/201004/article_3.html川越線連絡線[編集]
〈「軍事路線だった川越線を巡って」キリーズのリンク
340. プロローブ:大宮台地を西へ・大宮〜指扇
341.
荒川鉄橋辺り
・指扇−南古谷
343.入間川鉄橋を行く・西川越−的場
292. 安比奈のE型コッペル・西武鉄道/安比奈線