自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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SL写真展 ( INJEX )
にある送付先へドウゾ。)
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・軍事路線だった川越線を巡って
292.
安比奈のE型コッペル
・西武鉄道
/安比奈線
〈0002:4−2−1−4:2号機前面から〉
〈0003:4−5−2−2:2号機サイド〉
〈0004:4−5−1−5:2号機足回り〉
〈0001:昭和30年代の安比奈のコッペルよ姿、休止中か〉
この写真は川越鉄道創立111年記念乗車券(西武てつどう)の台紙に印刷されてあった画像から転載。
〈参考リンク:ユネスコ村で展示中の1号機(E18)と3号機(E103)〉
この写真は下のリンクでご覧になれます。
「地方私鉄 1960年代の回想:安比奈のコッペル 2 」
http://umemado.blogspot.jp/2011/11/2.html
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〈紀行文〉
今回は、昭和40年7月に業務で入間川右岸の河川敷を巡回していた時に、西武鉄道安比奈線の終点の付近で、『ドイツ こっぺる社製のE型タンク蒸気機関車』の二輛が直列に並んで留置されているのを偶然発見して撮った写真をご覧に入れたい。実は、この頃の私は川越市と狭山市に掛けて造成された川越狭山工業団地の東南に立地したホンダの乗用車組み立て工場の狭山製作所に勤めていて、産業公害対策の責任者であったから、この工場団地から入間川に直接排出される工業廃水の流れ下る入間川右岸を査察するのが月例であったからである。当時は既に荒川右岸下水道計画が既に策定されていて、入間川右岸もこの地域に含まれていたからこの下水道が完成するまでは各事業所の責任で工業団地から入間川への専用排水管を経て排水することが認められていた。それに、この下流で東京都+埼玉県の水道用水の秋ヶ瀬取水堰が設けられていることから排水の水質管理には慎重な管理を心がけていたからである。
この写真を撮って間もなく、本屋の店頭に並んだ「鉄道ファン誌 1965年9月号」に「鉄道ファン・フォトサロン」に「コッペルのE」と題する記事がのって、この機関車の素性が明らかになった。
当時の撮影メモを見ると、SL撮影を始めたばかりだったので写真を撮る観点が定まらず、僅か3枚撮っただけであった。この時点に留置されていたのは2号機(E16)、3号機(E103)であって、1ヶ月前には1号機(E18)も留置されていたようである。そこで、注目したのは、5軸あるはずの動輪が外から見えず、フレームの外側にクランクとバランスウエイトだけが見えると云う異様さに引かれて、足回りを一枚とった。この時に既にサイドロッドが装着されていなかったようで、一層奇妙に思われたのだった。
ここで、暖めて来歴をまとめておこう。
この機関車の誕生の背景と特徴は次のように云われている。我が国の旧陸軍の鉄道連隊が保有していた野戦用軽便機関車であるA/B形双合機関車の193セット386両(1901年にドイツから輸入)っは勾配区間での取り扱いなどに難があったことから、1両での牽引力の増大と曲線通過性能の維持の両立を図って輸入したのがE型機関車である。それは1921年にE1 - E25の25両、1925年にE101 - E106の6両で、合計31両である。
この機関車の軸配置は0-10-0(E)形で、600o軌間の飽和式単式2気筒サイドタンク式蒸気機関車である。主な諸元は、全長: 5,772o、重量(運転整備):15.0t、性能(動輪周馬力):90PSである。
そして、急曲線通過を容易にするため、第1・5動軸にはそれぞれ第2・4動軸から左右に首振り可能な密閉式ギアボックスによって動力を伝達する方式が採用されている。さらに、第3動軸が左右にスライドできる動軸遊動機構を採用している。(ここでは第3動輪をフランジレスとする方式は採られていなかった。)このため、動輪が台枠の内側に収められた外側台枠方式となり、水タンクも標準的な台枠の一部を水タンクに利用するウェルタンク式ではなく、サイドタンク式となっているのが特徴である。これらの特殊な機構はドイツ コッペル社の特許権が成立していた。そして、弁装置は一般的なワルシャート式で、メインロッドは第3動軸に、サイドロッドは第2~4動軸にそれぞれ掛けられている。この機関車もドイツ陸軍の野戦軽便機関車としてコッヘル車が供給していた形式をルーツとしていた。
この形式のアウトラインは、その後の国産化(川崎車輛製のK2形)のモデルとなった。
戦後の鉄道聯隊廃止の際には、国内に残っていたコッペル e型タンク機は西武鉄道に払い下げられて使用された。また西武鉄道では放置されていた多くの資材や車両も合わせて払い下げを受けて、山口線や安比奈線と玉川線の常久などの砂利採取線に転用された。
さて、ここから安比奈線と E型 コッペル 蒸気機関車についての経緯について話をすすめたい。川越と国分寺を結んでいた川越鉄道を傘下に修めて鉄道事業に乗り出していた武蔵水田は、その川越線の南大塚から入間川河川敷の安比奈良の間に貨物線の敷設免許を1922年(大正11年)10月に取得して、砂利運搬事業の拡大を始めたのが始まりであった。その背景には前身の川越鉄道が沿線に大正15年完成した東京の水瓶である村山貯水池の建設資材としての砂利やセメントの輸送を東村山駅を中心に担当していたじっせきもあった。それに加えて、入間川の対岸である左岸では1920年(大正10年)に入間川砂利会社が東武東上線の前身である東上鉄道の的場駅(今の霞ヶ関駅)と河川敷との間に軌間760o、2.4qの砂利運搬の専用鉄道(3年後には埼玉県営鉄道となった)を開通させて砂利事業を成功させていたことが挙げられよう。
そして、武蔵水田を合併した帝国電灯が傘下の鉄道事業を別会社として経営する方針で、西武鉄道(初代)が1922年(大正11年)11月に発足して、その新事業として南大束−安比奈間の貨物線の建設が始まった。そして、1925年(大正14年)二月には南大塚−安比奈間3.2qの砂利線(戦前は鮮明として登録されていたようだ。)が開業した。ところが、その年の9月に起こった関東大震災の復興のため必要な砂利などの供給に貢献し、戦前の輸送実績は年間2〜3万トンの記録を残している。
戦後になって、国土の復興のための砂利の需要に応えるため、従来の輸送に加えて、砂利の採掘、販売をも手がける健在関係の子会社として復興車(後の西武建設)を1946年(昭和21年)に発足させた。直ちに所沢に、砂利採掘船・砂利関係機会などの製造・修理なども担当する所沢車輛工場を開設した。そして現地では、砂利採取場の買収、砂利採取船の導入、入間川橋付近から安比奈駅までの砂利軌道の敷設、安比奈駅隣接地にクラッシャー、水洗、分級などの砂利関係機械、安比奈線への砂利積み込み設備などを整えての大規模な砂利事業の拠点である安比奈事業所が開業した。この際には、元鉄道聯隊から払い下げられたレール、貨車、機関車などが大いに活用された。特に3輛の蒸気機関車は1号(e18)、2号(e16)、3号(e103)と命名されて活躍することになる。そして、1964年に予定された東京オリンピックを前にした建設ラッシュ時の砂利の需要に応えることができた。その年間最大出荷量は1953年(昭和28ねん)に達成した 22.7万トンであった。やがて昭和38年頃になると、砂利採掘現場での資源の枯渇の傾向と現場環境保全の困難さが表面化し、それに入間川からの砂利採取禁止を求める同項もあり、事業を閉鎖することになり、西武安比奈線も休止に追い込まれた。
さて、ここで E型コッペル 機関車の、そのごの消息を記しておこう。その
実働については明らかではないが、昭和31年頃には休車状態であって、加藤製作所製のディーゼル機関車が就役していたようである。
閉鎖後の昭和40年前半までは全ての3輛が、昭和45年頃までは2輛(2号(E16)、3号(E103)が安比奈駅の東側境界側に留置されていた。その後は2輛(1号(E18)、3号(E103)が所沢市のユネスコ村に静態展示されていた。しかし、その時点で、2号(E16)の所在は不明であった。やがて、ユネスコ村の閉園後の現在(2013ねん)の消息は、e18(元西武1号機)は東京都練馬区のエリエイ出版部の玄関前に保存されている。他のE103(元西武3号機」はドイツへ里帰りした。それは動体復元を目的として、ドイツの鉄道保存団体である、フランクフルト軽便鉄道博物館へ譲渡・搬出された。2012年現在、ボイラーや台枠、ルッターメラー式動輪遊動装置をはじめとした走り装置等の再生、腐食の著しい運転室や水タンク、喪失したサイドロッド等の新製を含む大規模な保存作業が続けられていると伝えられる。
最後に、関東平野での各架線で川砂利の採取事業が行われてきてお、その大部分が近くの駅の側線扱いで砂利の本線への輸送をおこなっていたが、この川越市の入間川では全く事情が異なっていた。それは、入間川左岸には埼玉県営砂利採取事業が行われ、軌間760oの専用軌道である埼玉県営鉄道が東上鉄道的場駅と砂利採取場の河川敷間に運行されると云う大規模さであった。一方の右岸には西武鉄道の貨物支線である砂利船(後の安比奈線)が運送業務を行っており、戦後になると子会社の復興車が安比奈駅付近に大規模な事業所をもうけて砂利の採掘と営業を担当した。そして軌間600oの安比奈砂利軌道が入間川橋付近〜安比奈駅間に設けられ、採掘した砂利を西武鉄道への積み替え駅まで運んでいた。
このような大規模な砂利採取事業がおよそ50年の長い期間にわたって維持できたことは入間川流域に埋蔵していた砂利の量と質が優れていたことを物語っている。
そこで最後に、この豊かな砂利層が入間川の川底に形成された過程を調べてみた。この川越の市街は関東平野の南西部に大きく広がる武蔵野台地の北端に位置する川越大地の端に位置している。その北西から東南に流れる荒川に隔てて大宮台地があり、西南から流れ下って来た支流の入間川が
荒川の右岸へ合流していて、入間川を隔てた西側は奥武蔵丘陵の群が見えた。そして南東部は遠く東京の山の手に続く武蔵野台地であった。西側の奥武蔵丘陵の奥には標高 2000mを越える奥秩父山系が連なっていた。その荒川の流れは奥秩父の甲州(山梨県)、武州(埼玉県)、信州(長野県)の境をなす甲武信ヶ岳(こぶしがたけ、標高 2,475m)に源を発し、秩父主連峰と奥武蔵丘陵との間の秩父盆地の水を集めて長瀞渓谷と北西に流れ、その後東に向きを変えて谷口集落の寄居で関東平野に出てからは、熊谷で南東へ向かい、川越付近で入間川を併せて南下し東京湾へ向かう。一方、支流の入間川は武蔵丘陵の大持山(おおもちやま、標高 1294m)の南東斜面を水源として、清流で知られる名栗川となって南流し、谷口集落の飯能で関東平野に出ると入間川とに名を改めて周辺の台地を潤しながら南西に向かい、やがて左岸から高麗川などを合わせた越辺川(おっぺがわ)を合流すると、間もなく川越の北西で荒川に合流している。
このように入間川が飯能から狭山を経て川越に流れて来たであろうと思われる河道跡に分厚い砂利層が発達したのは何故であろうか。
それは、今から1万1700年以前の洪積世の時代には氷河期が繰り返し訪れており、この氷河期には地球上の水は氷河として山の上に蓄えられるので海の水が少なく、海岸線が沖の方に後退するので、山と海の高度差が大きくなるので、山から流れ出る川は深く谷を刻んで、山を出た所で洪水になり、土砂や礫(れき)を堆積させて扇状地や河岸段丘を形作ることになる。その時代には、入間川より一つ南の谷を流れていた古多摩川が青梅付近を扇状地の頂点として河道が今の武蔵野一帯に広がっていたようである。また、その或る時代には現在の入間川の川筋へも古多摩川が流れて来ていたことが知られており、入間川の川底に多種多量の砂利を堆積させたとされている。その後に氷河期が終わり海進期になると海岸線が内リフの奥まで入り込んできてより細かい土砂を海岸線から海底に堆積させることになる。これらが数回くりかえされていたことが知られている。そのような時代に奥秩父山塊の西側を取り囲むように位置している箱根、富士、八ヶ岳、浅間山などの火山噴火活動による多量の火山灰などの降下物の堆積が行われ、砂利層の上に火山灰や土砂などが何段にも堆積することになり、関東ローム層と砂利層が交互に堆積している地層を作り出したと云うのである。しかし、その後に河道となった場所では堆積した細かい土砂や火山灰は川の流れで流し去られてしまい厚い砂利層が川底に残ったと云うことになっている。従って川筋の両岸には河岸段丘がでりることになり、これに土地の隆起などが重なって台地や丘陵が形成されて行ったと思われているのである。
私の勤めたホンダの狭山工場は入間川右岸から2qほど東へ奥まった武蔵野台地の上に立地しているが、この敷地に彫られた深井戸では、深さ150mの間に数段の砂利層を挟んだ関東ローム層(火山由来の赤土)で断面が構成されていて、砂利層からは豊富な地下水が湧出して来て優れた工業用水よ水源となっている。実際に狭山から川越に掛けての入間川の表流水は見たところソレホド多くはないのだが、大猟の流水は厚い砂利層の中を伏流水となって流れていることは確かであった。この豊富な入間川の砂利層からの砂利採取は昭和42年に禁止となったことから、現在の砂利の発掘は台地や丘陵の斜面を掘削して行われている。その最大の施設は八高線の金子−箱根ヶ崎間に側線を設けて積み出しが行われていたのが記憶に新しい。
撮影:昭和40年7月。
〈「軍事路線だった川越線を巡って」キリーズのリンク
340. プロローブ:大宮台地を西へ・大宮〜指扇
341.
荒川鉄橋辺り
・指扇−南古谷
342. 夢の川越中央駅
-幻の西武鉄道・国鉄川越線連絡線-
343.入間川鉄橋を行く・西川越−的場