自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・御殿場線の蒸気機関車
315.   ぷろろーぐ:東海道線の箱根越え ・御殿場線/国府津機関庫

〈0002:初めての御殿場線:bO20621:富士岡駅、S41年秋〉


〈0001:在りし日の国府津機関庫(らうんどはうす)〉


〈写真の解説 & 写真の転載典拠〉
・国府津機関区の写真の扇形庫への訪問
 私が御殿場線に通い始めた昭和40年頃の御殿場線と云えば蒸気機関車は国府津機関区所属のD52であった。
 まず、明治20年(1887年)7月11日に東京ト京阪神を結ぶ東海道線ガ横浜から西へ国府津まで延伸開業しテ、国府津駅が開業した。ここは2年後の明治22年までは東海道線の終着駅となっていた。ソシテ、ここには国府津機関庫が設けられタ。ココノ扇形機関庫(ラウンドハウス)は鉄道施設として建設が我が国第2番目であり、日本初の鉄筋コンクリート工法を用いた記念すべき建造物であった。これはサンゴニッチさんと云うフランス人技師の設計で、そのデザインは中世ヨーロッパの古城や教会を模した優雅なものであった。
そして明治22年(1889年)に国府津〜御殿場〜沼津(静岡)間が結ばれ、東海道線として開通してから丹那トンネル開通の昭和9年(1934年)12月までの45年間も箱根越えの基地として全盛を誇った。その後、昭和43年(1968年)7月の御殿場線電化まで約10両のC11,D52が配置されて御殿場線の基地として活動していた。そして廃止後は、D52 70は山北機関区跡の公園に記念展示されたが、D52 72号機が庫内に留置かれたままで放置されていたが、昭和53年(1978年)になって御殿場の湯沢平公園に保存されて行った。残された歴史的建造物である扇形庫は保存すべく検討されたものの、実現せず、1982年頃まで残っていたが、結局解体されてしまった。
私が未だ幼かった息子を伴って機関区を訪れたのは昭和42年のことであった。国府津駅の改札を出、ホームに沿って東京側へ歩いていくと、道が駅下へ吸い込まれるように下りになり、やがてホーム下に対岸の山側に抜ける通路が現れた。「国府津駅架道橋」という名の地下道だった。コンクリート打ちっ放しの薄暗い地下道を進んで行くと、目の前に蘇我丘陵の山すそをしっかりと守る古い石垣が見えて来た。ここをさらに東京寄りに進むと機関区の構内となった。その頃は、未だ初心者の頃だったッ野で余り構内へ入るのを遠慮して、遠くからスナップを試みただけであった。
ここでは地元の小田原鉄道歴史研究会さまのホームページから写真を一枚お借りして、往時の国府津扇形庫の素晴らしい造形を偲(しの)ぶことが出来た。
・典拠:  web資料室 - 小田原鉄道歴史研究会
 http://odawara-rail.sakura.ne.jp/03.html
上のサイトの中の「第3回 国府津機関区 解体時期の様子」から転載しました。
ここに、厚く御礼を申し上げます。
〈国府津機関庫の寫眞〉
地方私鉄 1960年代の回想: 御殿場線 国府津機関区
 http://umemado.blogspot.jp/2013/01/blog-post_14.html

〈0003:bT1062:給水タンクのある風景〉




〈0004:bT1053:入れかえ中〉


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〈紀行文〉
 私のSLアルバムの第1巻(昭和40年:1945年)には早くも地元の埼玉県下を走る八高線や川越線に混じって御殿場線の“富士山をばっくのD52”の姿が撮られていた。それもそのはずで、私の勤めていたホンダでは浜松工場で生産し始めたばかりの「ホンダスポーツ800」を埼玉県の狭山の新工場で移管する業務を担当していて、足しげく狭山と浜松の間をクルマで出張していたからである。当時は東名高速道路は建設の真っ最中であったから、もっぱら大山街道(おおやまかいどう)と呼ばれていた国道246号(東京〜沼津間)を通って行った。それは秦野(はだの)を経て松田からは御殿場線に沿って沼津へ出て、国道一号線を浜松へ向かうと云うルートであった。ある時、富士岡付近で初雪を冠した富士山をバックにSL列車をスナップしたことがあった。それが冒頭に掲げた写真である。
 これを契機に本格的に御殿場線沿線の撮影に通うことになった。このシリーズでは僅か2年半ばかりの間に撮り貯めた写真を5回に分けておめに掛けたい。
ここではプロローグとして、最初の出会いの寫眞と、東の起点である国府津機関区の話題を掲げた。
そして東海道線が「天下の険」である箱根山地をいかにして征服したかの経緯を懐古しながら御殿場線の展望を試みましたのでご覧頂ければ幸いです。
 日本の鉄道は、明治2年(1869年)に明治政府が東京〜神戸間を結ぶ幹線鉄道の建設を宣言したことに始まる。当初は東海道と中山道の二つの経由ルート案があり未決定であったから、先ず人の流動の多い東京-横浜間を支線として先行開業させることにした。そして明治5年(1872年)に新橋-横浜間が開業した。また関西では、明治7年(1874年)の大阪-神戸間の仮開業を経て、3年後には京都-神戸間の営業を開始している。続いて、東京-高崎間の鉄路建設が決まった。当時、招かれて鉄道建築の技師長となっていた エドモンド・モレルさんは、直ちに工部省出仕の佐藤政養技師を伴って幹線ルート案である東海・中山の両道の比較調査を行って、建設ルート中山道を推奨する報告書を提出きている。
ようやく明治16年(1883年)に政府は当時の軍部から出された「海岸沿いの路線は防衛上の弱点が多い」という意見に押されるかたちで『中山道幹線建設』を決定した。その後、実際に工事が開始されて3年目に、「中部山岳地域は難工事が予想され、列車の運行上の問題も多い。工期、工費も、また完成後における列車の所要時間も、東海道に鉄道建設をした場合の比ではない。」との報告が上がってきた。そこで、当時の井上勝鉄道局長官は密かに東海道線を調査させ、営業上においても東海道線がはるかに有利なことを明確にした。そして明治19年(1886年)幹線鉄道の経由を中山道から東海道に変更する通達が出され、東海道線の全通の期限を明治23年の帝国議会開会前とし議員の往復に利用できるように取り決めて建設が再スタートした。東海道に変更された幹線の建設は東は横浜から府津まで、西は武豊から浜松までの開通が急がれていた明治19年(1886年)の末頃には、横浜-京阪神間の鉄道建設ルートの測量は既にほぼ完了していた。その中にあって、国府津付近から沼津に至る「箱根越え」は難工事が予想されるために、ルート選定の確定にに難渋していたのであった。
 ここで東海道線のルート選定を困らせている「箱根山地」のけわしい地形と、その成り立ちをあらかじめ略説しておこう。
 まず、原始の日本列島は南北に直線的であって、現在よりもユーラシア大陸に近い存在であった。約2,000万年前に、日本列島の近くの海底で二つのプレート(太平洋プレート、北アメリカプレート)の沈み込みに伴う背弧海盆の形成が始まった。これは沈み込んだプレートがマグマとなって上昇し、海溝の内側のプレートを押し広げてできるものであるが、これによって日本海が現在のように広がり、日本列島を大陸から離れさせてしまった。しかし、日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフと日本海溝の二つだあったため、日本列島は中央部が真っ二つに折られる形となった。そのため、折れた原始日本列島の間には日本海と太平洋を結ぶ海が広がり、大地溝帯となっていた。そして、新生代に当たる数百万年間、砂や泥などが堆積して行った。続いて、数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って日本列島に南から接近してきた。この時、真っ二つになっていた列島が圧縮され始めた。これによって大地溝帯の海底が徐々に隆起する事態が加わって、新生代の堆積物によって埋められた地溝帯は現在の陸地で見られる地層になったと云う。ここでは、それに海溝の割れ目から火山列が噴出して妙高山から志賀高原、浅間山から、八ヶ岳、富士さん、箱根山と続く火山列が作られたとされている。
従って日本列島はフイリッピン海プレート・ユーラシアプレート・北アメリカプレート・太平洋プレートと云う4つのプレートの上に位置しており、特に箱根山地は、その内のフリリッピン海プレート・ユーラシアプレート・北アメリカプレートの3つが重なり合う珍しい地域である。このプレートの境目は地殻活動が盛んな場所であり、箱根山地は日本有数の火山地帯なのである。
その箱根火山の活動は約40万年前に始まり、何度も噴火を繰り返して、約25万年前には古箱根火山と呼ばれる標高2,700m にも達する富士山型の円錐火山が形成された。その後も噴火を繰り返し、そして23万年前、十数回に及ぶ大爆発が起き、18万年前には空洞化した地下に山の中心部が陥没して箱根の大きな特徴である南北11q、東西8qにわたる巨大カルデラ(“鍋”というスペイン語に由来する火山の活動によってできた大きな凹地のこと)が誕生した。このとき周りに取り残されたのが塔ノ峰、明星ヶ岳、明神ヶ岳、丸岳、三国山、大観山、白銀山など海抜1,000m 前後の「古期外輪山」である。金時山は外輪山の一峰のように見えるが、古箱根火山の山腹から出た側火山である。
カルデラ誕生後の数万年は穏やかな活動を続けていたが、約13万年前から再び火山活動が活発になり、カルデラ内に小型の楯状火山ができた。約5万2000年前、この楯状火山が破局噴火を起こし、再び陥没して東部から南部に半月形に取り残されたのが浅間山、鷹巣山、屏風山などの「新期外輪山」である。
4万年前になるとカルデラ内で再び火山活動が始まり、台ヶ岳、箱根駒ヶ岳、上二子山、下二子山などの溶岩ドームができた。このときの火砕流により旧早川がせき止められ、現在の仙石原一帯に仙石原湖と呼ばれるカルデラ湖が誕生した。
約3000年前には、神山北西斜面で山体の多くを崩壊させる大きな水蒸気爆発が発生。これにより大涌谷が生まれ、水蒸気爆発によって引き起こされた土石流により仙石原湖の半分以上が埋没して仙石原となり、また早川の上流部(現在の湖尻付近)がせき止められて芦ノ湖が誕生した。この北部(箱根町仙石原)から流れ出る早川は芦ノ湖を源にしている。そのような箱根山地は、最高峰の神山(標高1437m)と内側には堰止湖の芦ノ湖を中心にして外輪山が囲むようにそびえている。
現在でも大涌谷などで噴煙や硫黄などの火山活動が見られる。山体の南側に大きく侵食された湯河原火山が接している。
このような箱根山地を東西に通過する街道の歴史を眺めてみた。先ず、7〜10世紀の律令期(りつりょうき)の都のある近畿から海沿いに東の国々とを結ぶメインルートであった東海道では、駿河(するが)国(静岡県東部)と相模(さがみ)国(神奈川県)との国境である箱根越えでは、沼津から北上し、御殿場を経て箱根山北方の足柄峠(標高:746m)を越え矢倉沢を下って、関本から国府津へ抜ける「足柄路(あしがらみち)」が開かれていた。この道が御殿場からその先の丹沢山塊を越えるのが困難だったから箱根外輪山を足柄峠で抜けるルートとなったのである。しかし、平安時代初期の富士山の延暦噴火(800-802年)によって足柄峠の駿河側が埋没して通行不能となったたことから、急いで三島から新たに箱根峠(標高:846m)を越えて箱根カルデラを縦貫する、よりけわしい箱根峠路(はこねじ)が開かれた。やがて足柄路は復旧し、こちらは距離が長いけれど傾斜がゆるく歩きやすかったからであろうか、両方とも東海道として使われるようになった。
鎌倉時代には箱根路を政治的にも軍事的にも鎌倉と京都を結ぶ最重要道路として開発を進めている。これらの動は推定平安・鎌倉古道して残っている。
 江戸時代の慶長6年(1601年)になると、徳川幕府の五街道整備において、距離の短い箱根峠ルートが重視された。そして、1618年には古道より南に寄って須雲川沿いに新たに(「箱根八里」(旧小田原宿から旧三島宿)と呼ばれる本道が開かれたが、そのけわしさはあいかわらずであった。そして、今まで東海道であった「足柄路」は松田から先の経路が江戸へと延長され、東海道とは別ルートの秦野、伊勢原、厚木、町田を経て江戸に入る経路が脇街道の「矢倉沢往還」として栄えた。
 さて、ここから鉄道の話題に入ろう。
明治19年(1886年)当時、未だ建設ルートロが確定できていなかったのは「天下の険」と云われる「箱根越え」を挟んだ国府津付近から沼津に至る区間であった。この区間を含めて横浜から沼津までを主任として指揮したのは工部省鐵道建設担当技師 原口 要(1851-1927年)さんと云う豪傑技師であった。この人は明治8年にアメリカのツロイ大学に留学し、続いてペンシルバニア鉄道会社の技師となってフィラデルフィア付近の鉄道建設工事を担当して腕を磨いた経歴を持つ新鋭の技術者デあって、後に鉄道院の技監を務めている。当初、考えられる最短ルートは箱根山の外輪山を越え、標高は846mの箱根峠を抜けるコースなのだが、測量を繰り返していたが結果が得られないのが現状であった。特に小田原−三島ルートでは、箱根外輪山直下に長大な隧道(ずいどう:トンネル)の建設工事が絶対に必要であったから、当時の我が国の土木技術では工事困難と判定され、このルート案は不採用と決定されたりしていた。それでもなお、原口さんは建設可能な地点の検分に努めていたが、箱根方面を探索していた際に、箱根塔ノ沢温泉に投宿したことがあった。その時に、土地の古老から箱根山の北西側の酒匂(さかわ)川上流に沿って御殿場に到る通過可能な軽道が存在する知見を得たの手あった。それは、小田原の手前の国府津から丹沢山塊と箱根山地との山あいを酒匂川に沿って登り、箱根外輪山を外回りして、箱根山地と富士の間を沼津へと下るルートであった。
直ちに測量がはじめられたが、中でも山北から御殿場間は十数回もの試験測量を行なって、山北〜小山(今の駿河小山)間のわずか8.7Kmには、トンネルが7本(合計の延長が約2qだが、最長は312m)と、谷間に架ける鉄橋が8本もあるルートが提案された。実は、昔の街道筋は箱根外輪山を箱根峠(標高:846m)越えや、足柄峠(標高:746m)越えなどの峠を選んで通り抜けており、ここに鉄道を通すには多くの火山の下に長大な隧道(トンネル)を掘削する必要があることになったのに反して、酒匂川の谷筋をさかのぼる御殿場越え(標高 457m)では、長大なトンネルの代りに、谷を何回となく渡るための鉄橋の架設と、蛇行する川をショートパスするためのトンネルの掘削が求められたが、これらは当時の新土木技術の粋を集めれば施工可能であると判断されたのであった。それで、井上勝 内閣鐵道長官に復命後、明治20年(1887年)9月に山北-御殿場間の建設経路が確定したのであった。そして約2年余りと云う驚くべき突貫工事の末に、国府津から山北、小山(今の駿河小山)、御殿場、佐野(今の裾野)を経て沼津に至る60.2qを明治22年(1889年)2月に開通させたのである。続いて、同年7月には東海道線 新橋〜神戸間が全通した。当初の旅客列車は1日4往復、所要時間は下り16時間50分、上り18時間15分で運行され、国府津−沼津間の所要時間は 2時間35分であったと云う。
ここでは、けわしい箱根の山々を嫌って大回りをしたとは云え、最大25‰、平均すると22‰前後の勾配が連続しており、補助機関車の連結が必須で、しかも連結両数の制限なども余儀なくされていたようだ。
この区間に投入された蒸気機関車は後に1800型、1850型と呼ばれたCタンク機関車であり、前者は明治14年(1881年)にイギリスノットソン社から京都−大津間の25‰の急勾配区間用として輸入し好成績を挙げた機関車であった。また後者は、1800型の増備としてイギリスのダブス社から続けて輸入した機関車であった。しかし、25‰登り勾配が連続する御殿場越えでは、この小型で小出力の機関車では牽引力、登坂力が不足がちであり、列車遅延の原因の一つとなっていたようだ。そのような運転上の遅れが発生し、上下列車の行き違いのための待合せによる大幅な遅延が多くなってしまった。そこで、この解消策として複線化が明治23年末に沼津から始まり、明治24年には御殿場まで完成した。しかし、小山〜山北間は複雑な地形に阻まれて10年も掛かって明治34年(1901年)になって全線の複線化が完成した。それでもなお、列車の本数の増加に対応しきれず、山北-小山間に谷峨(やが)、小山-御殿場間に足柄、御殿場-佐野間に富士岡、岩波の4スイッチバック信号所(後に信号場に昇格)が設けられた。これらには上り勾配側の線路から、加速線的に引きき出された待避線が一本、その待避線から上方に安全側線が1本、上下線間の渡り線を持つッチバック型であった。ここで待避線を使うのは、通常、上り勾配側の列車に限られており、登坂速度の遅い重量貨物列車が急行列車を待避するという具合である。一方、下り勾配側の列車が、優等列車をやり過ごすという光景は、ほとんどなかったようだ。
その後、明治42年(1909年)には東海道本線となり、やがて沿線の富士岡駅近郊に陸軍の富士裾野演習場が設けられている。
その後明治42年になると、鉄道院総裁となった後藤新平さんの指示で御殿場越え「山線」に代わり得る新線の調査が始められた。これは大正7年になって丹那トンネルの掘削開始で実現へと進められた。しかし地質が悪く工事が難航し、多くの犠牲と多額の費用をつぎ込んで、
昭和8にやっと貫通させた。トンネルだけで16年、調査開始以来4半世紀に及ぶ大工事となった。このじじつを顧みると、箱根山地の下を長大トンネルを掘削するルートを避けて御殿場越えを採択したのは英断そのものであったと賞賛されるべきであろう。

〈参考文献(御殿場線)〉
御殿場線・中央西線−なめくじ会の鉄道写真館  
http://home.a00.itscom.net/yosan/jyoki/gotenba/gotenba.html
・「 東海道本線時代の御殿場線」  
鉄道ピクトリアル No60 (1956/7)所載。
@:グラビア写真
U:(苦しい鉄路――御殿場線」、青木槐三(鉄道作家)
V:堀内敬三(音楽評論家)のHOME
この中のグラビア写真は次のサイトに収録されています。
東海道本線時代の御殿場線の写真集 
http://ktymtskz.my.coocan.jp/aoki/gotenba.htm
ここには「蒸気機関車時代の御殿場線の写真集」と題して、東海道本線時代と御殿場線時代の写真が多数掲載されていますので、ご参考に。
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・「御殿場線の蒸気機関車」シリーズのリンク
237.富士山の裾野を登る・御殿場線/沼津〜富士岡
238.足柄平野を行くD52・御殿場線/国府津〜松田
239.かっての補機のメッカ「山北駅・御殿場線:東山北〜谷峨
240.酒匂川をさか登ってサミットへ・御殿場線:山北〜御殿場