自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・御殿場線の蒸気機関車
240.  酒匂川をさか登ってサミットへ ・御殿場線:山北〜御殿場

〈0001:15−9−1:酒匂川水系の橋梁 T 、昭和43年6月〉
酒匂川か、その上流の鮎沢川の鉄橋を渡るD52、山北〜

〈0004:bU231:酒匂川水系の橋梁 U 〉
撮影ポイントが思い出せなくて困って

〈0002:「無理に富士山と」(大石幸雄さま1968年2月撮影〉
「SL Fantasy・煙の詩」の中の「御殿場線D52・冬」:駿河小山

典拠:
大石幸雄さまのHP 「The Room of Naturalist」
http://web.thn.jp/nature/
この中の「SL Fantasy・煙の詩」に収録されている「御殿場線D52・冬」に
所載の画像をご許可を頂き転載しました。

〈0003:15−9−5:牛とD52、昭和43年6月の電化直前〉
御殿場越えサミット近し・足柄-

〈0005:bU151:星模様に輝くシールドビーム前照灯のD52〉




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〈写真の撮影行メモ〉
先ず一枚目は、電化直前の御殿場線の鉄橋を行くD52牽引の旅客列車の風景である。撮影場所が、酒匂川なのか、その上流の鮎沢川なのかさえ、今となっては確かめるすべを失ってしまっている。
背景の遠い山が霞んでいる。左、手前に複線の橋台が残っているのが見える。
 二枚目の〈0004〉も一枚目と同様に撮影場所が思い出せずに困惑しています。
次の三枚目の〈0002〉は大石幸雄さま撮影の「無理に富士山と」と題する作品です。
墨絵のように姿を見せた富士山は白黒でなければ表現できないであろう。
撮影は1968年2月、御殿場−駿河小山間です。
典拠:
大石幸雄さまのHP 「The Room of Naturalist」
http://web.thn.jp/nature/
この中の「SL Fantasy・煙の詩」に収録されている「御殿場線D52・冬」に所載です。
大石さまの御好意により転載をさせていただきました。
私のアルバムには富士山を捕らえた写真が少なかったので、お願いした次第です。
この場を借りて、感謝申し上げます。
 四目は電化直前の御殿場線のスナップで、サミット付近ではなかろうか。牛の放牧が行われていて、牛の食べない夏の草花が咲き乱れていた。左手のどてより一段と低い線路をD52が登って来た。小さなシールドビームの前照灯に大きな煙室扉が対照的だ。
 最後の五枚目の〈0005〉はトンネルを出たばかりなのか星のように輝くシールドビームの造形は撮影している時には気がつかなかった。前の写真と比べて見て下さい。

〈紀行文〉
 山北駅から御殿場線の最高地点(サミット)までが色々な意味で御殿場線のハイライト区間と云えるだろう。何と云っても、山北から御殿場に掛けての地形の変化には驚かされる。それは極めて複雑で、けわしい山北〜駿河小山間から、なだらかな高原風の駿河小山〜御殿場間とが複雑につながっているからである。それは今から10万年以上前い存在していた駿河湾の海を巡らした火山の地点で、約2万年前までの間に噴火が続いて標高3000mもの古富士山が生まれた際に、北側に位置する箱根外輪山や北の御坂山地との間の海が埋め尽くされて裾野となってしまった。そして相模湾に流れ下る酒匂川と、駿河湾に注ぐ黄瀬川との分水嶺となる鞍部は谷峨から駿河小山の付近にあったものと云う。時代が下って2万年から2000年前までの間に、古富士山のすぐ西に大噴火が続いて現在の新富士山が形成された時に、その溶岩流留や火砕流、火山灰、それに山体崩壊による岩なだれなどが駿河小山から御殿場付近に堆積して、酒匂川と黄瀬川の分水嶺である鞍部の位置が足柄から御殿場付近へと南へ移動してしまった。それにより今まで黄瀬川の最上流であった部分は酒匂川へ流れ下ることになり、その部分は今の鮎沢かわとなっている所とされている。従って酒匂川の上流の前半はV字たにとなり、最上流はなだらかな鮎沢川となっている訳であると云うのであった。
 この山北から御殿場の間には延長は短いものの7か所のトンネルと、谷間に架ける鉄橋が10か所を設けて踏破している。
先ず隧道(トンネル)であるが、当時はほとんどが煉瓦積工法で築造されていたが、山北-沼津間建設ではトンネルの坑門、内壁は勿論、橋梁橋台、橋脚に至るまで、煉瓦使用は極めて少なく、そのほとんどが切石積構築様式であった。これは沿線に根府川、真鶴、伊豆などから良質で、しかも安価な建築用石材が得られたからであろう。一方の鉄橋では、明治15年(1882年)に官設鉄道の技師長としてイギリスから日本に招聘されたチャールズ.A.ポーナル(C.A.POWNALL)設計のイギリスのパテント・シャフト社製の
錬鋼鐡混在ダブルワーレントラス構桁61.0m(200ft)
が大量輸入され使用された。しかし、この桁の門背が低位地に存在するため建築限界が狭く、後年の機関車の大型化に対応できずに早々と架替えられてしまっている。
このようにして、けわしい山北〜駿河小山間では新しい土木技術の粋を駆使して難工事をやり遂げて、明治22年(1889年)に東海道線が開通したのであった。
しかし、山北から佐野(今の裾野)間の連続25‰の急勾配のため時々列車の遅れが発生したことから、上下列車の行き違いの待ち合わせ時間が大幅に伸びてしまい、列車の運行に支障を起こすようになった。その解消策に複線化が計画され、工事は沼津から始めらレ、御殿場までは直ぐに完成したのだが、その先の小山−山北間の複雑な地形に阻まれて複線化工事は難航した。特に谷峨付近では鮎沢川(橋梁名では相沢川)を挟んで下り線の対岸に上り線を別ルートで敷設せざるを得なくなり、10年もの年月を費やして明治34年(1901年)になってやっと全線の複線が完成したのであった。ソレホド地形が複雑だということなのであった。
 がここから沿線風景の素描に入ろう。山北駅を出て長い切り通しを抜けると、右窓には酒匂川の銀色の水が岩に踊る急流となってきた。そして、箱根第1号トンネルが見えてきた。ここを抜けるとまたすぐに第2号トンネルへと突入する。左に見えるのが複線時代のトンネルである。ここを抜けて右にカーブするとすぐに第3酒匂川橋梁を渡る。この鉄橋は1889年の開通時にはイギリス製の錬鉄ピン結合の下路トラス橋であったが、D52の時代には2代目となっており、沼津方が1916年(大正3年)設置の川崎造船所製の98フィート下路平行弦プラット トラス橋となり、国府津方が1901年(明治34年)架設のアメリカのA. & P. Roberts社設計/ペンコイド鉄工所(アメリカン ブリッジ社の前身)製の複線、200フィートの鋼下路単純Schwedlerトラス橋が掛けられて活躍した。この大小二連のトラスの連なる第3酒匂川橋梁は撮影名所の一つであって、ここには小さな集落がある。
左カーブ後、すぐに第2酒匂川橋梁を渡るが、左側に複線時代の石積みの橋脚が見えるし、また、前後には複線時代のトンネル跡も見ることができる。かって、ここには明治8年(1875年)製と云う東海道線旧六郷川橋梁の錬鉄製ポニー・ワーレントラスを単線用に改造した長さ30.2mのトラス橋がて昭和40年まで活躍していたが、今は明治村に収まっているとのことだ。
左カーブ前方に見える信号機は谷峨(やが)駅の方信号機である。第1酒匂川橋梁を渡る。この鉄橋も開通時にはイギリス製の鋼下路ダブルワーレントラス橋だったが、1901年複線化の時にアメリカのペンコイド社製の200フイーと下路Schwedlerトラス橋が架け替えられたものであった。
 すぐに箱根第3・4号トンネルに突入する。このトンネルは、かつて2つのトンネルであったが、関東大震災の際に土砂崩落で谷間が埋まり、トンネルを掘ってつなげたものである。トンネルを抜けて少し行くと西丹沢の山や丹沢湖への玄関口となっている谷峨(やが)駅である。ここは酒匂川と国道246号に沿った元信号所の寂しい駅であった。
ここは明治40年3月に東西両端に上下線に渡る転轍機を設けて、ここで列車行違いができるように設けられた信号所であったが、直後の8月の水害で流失してしまった。そして復旧の際には、上り勾配側の線路から、加速線的に引き出された待避線が一本、その待避線から上方に安全側線が1本、上下線間の渡り線が1本を持つスイッチバック式信号所となった。そして昭和22年に「谷峨駅」に昇格したが、昭和34年(に列車の行違いの線路が設けられると待避線は早々に役目を終えていた。
 谷峨駅を出て、すぐに左にカーブするが、この区間では直線は少ない。次いで箱根第5号トンネル。右側には複線時代のトンネル坑口がある。
脇を流れる酒匂川は箱根第5号トンネルの横の辺で上流は二つの川に分かれる。一つは右から合流する西丹沢の山々を源とする河内川であり、他方は御殿場方の鞍部から流れて下ってくる鮎沢川(相沢川)である。奥に見えるのは箱根第6号甲トンネルである。続いて箱根第6号乙トンネルへ。次いで第3相沢川橋梁となり、右側に複線時代の橋台が見えると、直ぐに橋を渡りカーブを進み、やがて直線になり、次の箱根第7号トンネルが御殿場線最後のトンネルとなる。その先は直線で右手にひ桜の並木が見れると駿河小山駅である。昔は富士紡績への専用線があった。駅を出ると、川を渡った向こう側に役場や商店街などが集まっている。珍しく直線区間となり右は鮎沢川である。この先鮎沢川を渡る。ここから足柄まではカーブの連続である。足柄の集落は左の山の斜面を走る国道沿いに集まっているらしい。足柄駅場内信号機が現れ、足柄駅に入った。ここは明治36年(1903年)に設けられたスイッチバック式の足柄信号所であったが、戦後に住民の請願により昭和22年にスイッチバック式の待避線を廃止して、1.5kmも駿河小山駅寄りに移動して足柄駅として開業したものである。そのためか、駅舎はホームの下り側に線路と直角に配置されているのが奇妙であった。ここは昔ながらの東海道・足柄路の足柄峠(標高:746m)の麓に位置しており、標高は 330mなのである。
足柄駅を出ると、右にカーブすると、跨線橋が現れる。この辺りが昔の足柄信号場のスイッチバックのあった所であろうか。次いで鮎沢川を渡る。この辺りは山・森・畑・集落といった風景でなんとものどかな里山風景である。前方に見える踏切は撮影名所としても知られている桑木踏切のようだ。その先の線路は右にカーブして切り通しに入る。ここを抜け右手に富士山が見えてきた。この辺りではまだ登っているものの、なだらかな高原のような風景である。この辺りは舌状に伸びた富士山の裾野の鞍部に位置しており、御殿場線の最高地点であろうか。その標高は地形図の等高線から推測してす約460m前後であろうか。この分水嶺は同じ鮭科に属する「やまめ」の生息するむ酒匂川水系と「あまご」の釣れる駿河湾に注ぐ黄瀬川水系を分けていることで釣り人たちには有名だ。車窓左側(西側)には富士山が広がり、特に御殿場駅近辺では遮るものが全くなく、正面間近に迫ってくるのは宝永火口で迫力がある。そして、大きく右にカーブすれば御殿場駅構内が見えてきた。かつては補機の開放地点の駅として御殿場線最大の駅であったから構内は多くの側線を持っており、ホーム2面3線がある広い構内であった。
ここからは沼津まで黄瀬川に沿い、富士山の東麓斜面を相変わらず25‰と云う急勾配で下って行く。
 さて、ここで御殿場と云う地名の由来に触れておこう。昔から御殿場一帯の裾野地方を御厨(みくりや)と云って伊勢神宮の台所をまかなうための神宮領であったし、都のある近畿から関東や東北へ向かう東海道の足柄路が通っていて、足柄峠の手前の開けた道筋であった。そして、慶長12年(1607年)に大御所となった徳川家康は駿府城(今の静岡市)に罪状するようになった。元和元年(1615年)に幕府は鷹狩りの好きな徳川家康が江戸と駿府を往復する際に使用する宿泊所となる「御殿」を、この地に造営することを代官の長野九左衛門に命じた。その場所は御殿場駅から北へ1,7kmほどの位置で、現在の御殿場高校から吾妻神社に掛けての一帯の2000坪強の面積を有し、周囲は 高さ3mの土塁で囲まれ, 敷地内に水路を通して石橋を架け, 茅葺き屋根に松の柱などを使った豪壮な建物だったという。しかし 家康は元和2年(1617年)に駿府城で死去し、久能山に神葬されてしまった。その後、遺言に従って、一年後の元和3年(1618年)に久能山より関東の日光山へ御遺体を移送する際にこの御殿に安置しされたという。その後貞享3年(1686年)に御殿は取り壊されてしまった。その後、足柄峠へ通じる矢倉沢往還(東海道の脇街道)の宿場“御殿場”としての下宿・中宿・上宿の街並みが繁盛したしたと云う。
ところで、昭和43年には御殿場線の電化が完成して、蒸気機関車D52は引退して消えてしまった。しかし、2010年10月からD5272号蒸気機関車が御殿場駅前の「ポッポ広場」に静態保存された。それと同じ頃に、御殿場駅周辺の道路にあるマンホールの蓋は、「雄大な富士山をバックに疾駆するD52形蒸気機関車と、市の花・フジザクラ」を描いた“デザイン マンホール蓋”に取り換えられたという。これで、補機の基地として賑わった山北駅と御殿場駅の両端にD52が共に保存されていることになる。

撮影:昭和43年(1968年)電化直前

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・「御殿場線の蒸気機関車」シリーズのリンク
315. ぷろろーぐ:東海道線の箱根越え・御殿場線/国府津機関区の扇形庫
237.富士山の裾野を登る・御殿場線/沼津〜富士岡
238.足柄平野を行くD52・御殿場線/国府津〜松田
239.かっての補機のメッカ「山北駅・御殿場線:東山北〜谷峨