自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・御殿場線の蒸気機関車
237.  富士山の裾野を登る ・御殿場線/沼津〜富士岡

〈0001:4−3−7:早暁の沼津駅にて、昭和40年7月4日〉
コ側線が空いていて、ホームから沼津機関区の様子が良

〈0002:1-0-0:富士の冬景色の中を登る上り旅客列車 928レ〉
昭和40年(1945年)12月1日:岩波→富士

〈0003:15−9−4:急カーブをバンクしながら登るD52〉
線路は勾配を抑えるためカーブを描いてひたすら登って行く。昭和43

〈0005:2-6-2-2:スイッチバックの富士岡駅〉
カラーフイルムでなかった

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〈紀行文〉
 最初の頃は沼津から御殿場の間でD52を撮りまくっれいたが、富士山バックの写真は銭湯の看板のようなものしか撮れていなかった。やがて、晴天の空に富士山が確実に姿を見せる季節が到来した。そこで、御殿場線の岩波−富士岡の駅間で冬晴れの富士山をバックにSLを撮ろうと決めて、12月に入った金曜の東京駅発の大垣行夜行に乗り込んだ。実は凍った雪道をドライブする自信がなかったからであった。この時が背景を考えてSLを撮ろうと試みた最初であったようにと思うのだが。 ここで当時の沼津からお目当ての富士岡までの沿線風景を述べておこう。
沼津を出てすぐに東海道本線から分かれて左へカーブしながら市街地を縫うように北上する。すぐ脇を国道1号線から分かれて東京へ向かう国道246号が走っており、大岡駅となる。その先で黄瀬川を渡るとR400mの急なカーブとなり、前方には国道1号バイパスが見える。やがて右手に大きな製紙工場があって、そして新幹線と交差するとすぐに下土狩駅となる。ここは元 東海道本線であった頃は三島駅であった所だ。しばらく街なかを走るうちに勾配が強くなって24‰となった。この辺りは工場の進出が目覚ましく、住宅地も切れ目無く続いているうちに裾野駅に近づいた。ここには側線があって貨物の発着が盛んのようであった。その名のとおり、正面に富士山、右には箱根外輪山、左には愛鷹連山と云う名だたる山々の裾野が広がる豊かな自然に囲まれた工業都市であって、街の中央を黄瀬川が流れ、その周囲の平地に市街地が続いていた。気候は温暖で、周辺の広々とした裾野は豊かな田園の広がる農村地帯となっていた。駅を出ると一直線だが勾配は25‰となり、やがて連続するカーブの後、田園地帯に挟まれた直線区間が続いていた。やがて跨線橋が現れると、右カーブに続いてR380mと云うきつい急カーブの連続する区間があって、D52も空転する場合がしばしば見られた所だとか。ここを抜けると、そこから先は水田地帯に挟まれた直線区間が続くが、線路から左側の先に国道246号が走っていた。この富士の裾の一帯に広がる豊かな稲田が営まれているのも、江戸時代に完成した「箱根用水」で知られる深良(ふから)用水によって、芦ノ湖の水が外輪山の下を貫くトンネルを通って黄瀬川の支流である深良川に注がれていると云う恵みのたまものであった。この用水が作られたのは、御殿場から裾野に掛けての山裾一帯は水持ちの悪い火山灰土で覆われていて、降った雨水の大半は地下水となって遠方に湧出してしまい、山麓では川の水流が少なく狭い稲作しかできなかったからである。やがて“岩波大カーブ”と呼ばれていた箇所を過ぎると、左にスイッチバックの待避線の築堤がが見えると岩波駅に到着した。この駅も信号所がスイッチバック駅となった所である。岩波駅を出ると直ぐに黄瀬川橋梁を渡る。富士山の溶岩流が流れた場所であり、川原は大きな岩だらけになっている。左前方には関東自動車の工場が見えてくると踏切があり、やがて急なカーブが続く先には森の茂った切り通しの区間に入った。しばし直線になり、次いで逆S字カーブからS字カーブが続き切り通しを抜けると踏切がある。その左手は自衛隊駒門駐屯地である。左側を川が流れていた。しばし直線の後、大きく左にカーブスルト富士丘駅が近ずいてきた。左側にスイッチバックの待機線の築堤が迫っている。この御殿場〜裾野間は25‰の連続勾配が続いているので、ここもスイッチバックでなければ止まれないのである。ホームから富士山を難の障害もなく眺めることができるのが、この駅の自慢である。また線路の右側一帯は水田が広がっていた。ここはもう御殿場市の領域に入っていた。
 ここで写真の撮影メモを紹介しておこう。
・一枚目は、未だ夜の明け切らぬ沼津駅構内には高い照明柱に卵型の電灯が輝いていた。朝の上り蒸気列車である928レを撮ろうとすれば早朝に沼津方に到着していなければならないから、どうしても
泊まりがけとなってしまう。速くも始発仕業を担当するD52は準備に入っているようで、黒煙を少し上げ、ヘッドランプも点灯していた。その斜め後ろには機関区の給水塔が見えていた。今日も暑い日になりそうだ。
・二枚目は12月の声を聞いて、冬の富士山の全容が姿を見せる確率が高くなったのを狙って出撃ちた時の成果である。何しろ富士岡駅付近は「富士山を何にも妨げられることなく撮れる場所」で知られていたから、当然のことながら「銭湯の富士山」の絵」らしくなってしまうのはヤムを得ないのだが。棚田のように等高線に沿った豊かな水田には積雪が広がっていた。沼津からの午前中唯一の上り蒸気旅客列車である928レが岩波駅を出て積雪の富士山の裾野を登って来て富士岡駅にむかって力行していった。日本で最大の貨物機であるD52が普通客車のスハ32 6輛の旅客列車を従えて、富士山と箱根外輪山との間の25‰を駆け上って行くのは大して苦にはならないだろう。この岩波駅も富士岡駅も当時はスイッチバック式の駅であって、遠くから汽笛の合図が風に乗って聞こえて来て、列車の動きが手に取るように判ったのだった。この日の富士山の姿に見せられて、このポイントから移動するのが惜しくて午前中は腰を落ち着けてしまった。
・三枚目は、大きなカーブを描いて距離を稼いで勾配を25‰に抑えた線路をバンクしながら登って来たD52である。急勾配ながら強力なD52には6両の客車では余裕十分のようで、かなりの速さで駆け抜けて行った。当日は富士山は姿を見せなかった。場所は岩波駅手前の通称“岩波大かーぶ”ではなかろうか。
最後の1枚は、云わずと知れた発冠雪の富士山をバックにしたスイッチバックの富士岡駅のショットである。

撮影:昭和40年7月〜12月

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・「御殿場線の蒸気機関車」シリーズのリンク
315. ぷろろーぐ:東海道線の箱根越え・御殿場線/国府津機関区の扇形庫
238.足柄平野を行くD52・御殿場線/国府津〜松田
239.かっての補機のメッカ「山北駅・御殿場線:東山北〜谷峨
240.酒匂川をさか登ってサミットへ・御殿場線:山北〜御殿場