自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

|  HOME  | SL写真展 ( INJEX )  | 田辺のリンク集 |  
(メールは上の  SL写真展 ( INJEX )  にある送付先へドウゾ。)

…………………………………………………………………………………………………

・御殿場線の蒸気機関車
239.  かっての補機のメッカ「山北駅」 ・御殿場線/東山北〜谷峨

〈0001:10−8−11:「みかん」の実る酒匂川の谷を登る687レ貨物〈〉
昭和43年1月

〈0002:10−9−2:上り旅客列車 928レ山北駅発車〉
昭和

〈0004:bO51026:夕暮れの山北発車〉
シールドビームが


〈0003:bO60316:山北駅を豪快に発車する下り列車。昭和42年3月撮影〉
切り通しの跨線橋「三良橋の辺

…………………………………………………………………………………………………
〈紀行文〉
 憧れの東京神田の交通博物館に行くと、大ホール中央に鎮座しているのが巨大なマレー式蒸気機関車で、押しボタンで6軸もある動輪が回ったし、機関車のボイラーの内部構造が判るように切開されていた上に、機関車を真下から観察出来る通路が設けられていて、これほど身近に蒸気機関車に接することのできる場所はなかった。それ故に蒸気機関車と云えば、御殿場越えで活躍したマレー式蒸気機関車が真っ先に念頭に浮かぶほど親しかったのだった。
この思い入れの強かったマレー機関車が活躍したと云う御殿場線の山北駅に向かったのはSL写真を撮り始めた最初の昭和40年からであった。それには未だ夜の明けきらぬ早朝に国道246号(東京−沼津間)に乗り出して、厚木、秦野(はだの)を経て小田急電鉄と御殿場線が接続している松田駅に向かうのが常であった。このサイトでは松田駅から谷をさかのぼって山北駅の周辺を訪ねた情景をたどって見た。
ここの辺りは相模湾に面した足柄平野が西端の谷間に入り込んで松田駅から県境の町「山北町」へ近づいて行く所である。
松田駅を出ると10‰程度の上り勾配になり、しばし切り通しを走り抜けると、右側から丹沢の山が迫って来て、左窓には酒匂川が、それに富士山がちらりと望むことができるようになり、右には国道246号が併走していた。右にカーブすると程なく築堤上に設けられた東山北駅を過ぎる。大きく左にカーブする。この辺りの山の斜面のあちこちには「みかん」の果樹園が営まれていた。しばらくして左側にこんもりとした山が現れ、川が流れている。川と線路との間に住宅地が並んでいる。川を渡って山北駅まで一直線である。左右に土手があるが、かつての引上げ線の跡のようで、それに左には単線化と共に取り壊された旧下り第3番ホームの痕跡が見えると山北駅に到着した。
かって東海道本線時代には、例外的に國府津駅で補機のC53を連結した特急「燕(つばめ)号」を除けば、全ての列車は御殿場までは急勾配を登るための後部に補機を連結しなければならなかったから、下り旅客列車は必ず山北駅の下り第3番ホームに停車するのであった。そこで、この駅の駅弁である『鮎の姿寿司』(アユのすがたずし」を乗客たちは先を争って購入したと云われており、東海道名物の最大なものの一つであったとの評判だった。最盛期には1日150回にも及んだ補機の連結・解放を行うため、山北駅には機関區をはじめ東京車掌区山北支区などの現場機関が設けられ、鉄道省の職員がおよそ600名以上が従事していたと云う鉄道の街だったのである。そして、現在のホームと駅舎の間には、現在ある2本を含め6本と、反対側は現在留置線となっている側線が下り本線で機回し線を含め7線、
さらに東側にターンテーブルと扇形庫14線、上り方/下り方に引き上げ線各2線があったとする大規模な鉄道施設であったとか。それに比べて、山北駅の駅舎は舎は趣のあるこじんまりとした懐かしい雰囲気を持っていた。廃止された機関区の跡地は御殿場線の電化後に、町の鉄道公園となり、D5270号が静態保存されることになる。
 さて、山北駅を出ると直ぐに勾配は25‰となり堀割の切り通しに入った。そこには駅の脇にできた空地や、昔の上り線の跡地を使って沼津方へ約500mにわたって両側に植えられた130本の「ソメイヨシノ」が咲き誇る季節がやってくる。この切り通しには駿河小山へ向かって、三良橋・中橋・青橋・山北橋の4本の跨線橋があり、特に三良橋と青橋が桜と列車を撮る最高のホイントになるのである。(D52の頃は、植えられた桜は成長の真っ最中であった。)
そして、この先の駿河小山までの距離は8.7Kmであるが、この間にトンネルが7本、鉄橋が8本もあると云うけわしさの地形であった。かっては、この間の線路は上り線と下り線とが別々のルートであったのは、上り線の方が後から10年も費やして敷設されたからである。単線に戻った今でも、旧上り線のトンネル坑門や橋台が残っている。この狭い谷間に酒匂川・元東海道本線の御殿場線・よ国道246号がひしめいており、加えて透明高速道も同様に上り線と下り線が離れて建設中であった。
 さて、ここで掲げた写真の撮影メモを紹介しておこう。
先ず一枚目は、秋を過ぎて冬に入った足柄平野の北西端にある谷間のふうけいである。この温暖な気候と、水はけの良い酒匂川の河岸段丘の斜面には、この地域の特産である「みかん」の果樹園が広がっていた。山の斜面を余り欲張り過ぎて登ってしまい、全景がオレンジ色に彩られた「みかん」の満艦飾となってしまった。次第に狭まってくる谷間には御殿場線と国道と建設中の東名高速道路がひしめき合っていた。
第二枚目は、山北駅を発車する上り客928レであって、午前中の唯一の蒸気牽引普通列車であった。真冬なので発射時には白い蒸気が良く映えた。
 次の三枚目の〈0004〉も上り列車の山北駅の夕暮れ時のスナップである。
フイルターに仕掛けをしてヘッドランプ(シールドビーム)の光をX状に放射させてみた。
線路周りには色々な道具がそろっているのは懐かしい。
最後の「0003」の写真は山北駅を御殿場方向へ進んだ所での下り列車である。
春の桜満開の季節には、この跨線橋の上から山北駅を遠望できる素晴らしい撮影ポイントとなっている場所である
D52を満開の桜並木をバックに撮ることが出来なかったのは残念。電荷が速すぎたね。
 さて、ここからは御殿場線建設の経緯をプロローグに続けて述べたい。この御殿場線は国府津駅から酒匂川沿いに谷間を登り、箱根と富士山の間を抜けて御殿場まで登り、富士山南麓を巻くようにして沼津へ下っていた。その国府津からおよそ100m登った山北を境にして、勾配は右肩上がりの急坂の度を強くしており、海辺の国府津から 35.5Km先の御殿場付近にあるサミットの標高が457mであると云うから凄い山岳鉄道なのであった。ちなみに、国府津〜山北間の平均勾配は約6‰だが、山北〜御殿場間では平均 16.7‰の登りが19.6Kmも続いていて、るその途中の駿河小山駅辺にはほぼ平坦な部分もあるので、この区間の大部分は国鉄幹線の最大勾配である25‰となっておりカーブも300m以下の急曲線であった。そして、列車は御殿場を過ぎてから沼津に向けて25‰という急勾配を徐々に下っていく。
ここお通過する各列車には、頭書は国府津と沼津で補機を連結し、サミットの御殿場駅で停車して補機の開放を行っていたが、機関車の性能が向上すると下り列車は山北駅で補機を連結するようになった。その補機となる蒸気機関車には、その時代毎に最強力の機関車があてられた。明治時代には、連結器の容量が不足するため、編成の途中に補助機関車を組み込む運用を行っていたほ云う。
一方、その頃の長距離旅客列車については、欧亜(ヨーロッパとアジア)連絡を意識した東京−下関間の最高レベルの特別急行列車を運行する計画が練られていた。その列車を牽引する機関車として、当時発明されて効果が認められ始めていた過熱式を採用した2C型蒸気機関車の導入を計画して、欧米への国際入札を行なった。それに応札した4社から明治45年(大正元年・1912年)には早くも輸入機関車が続々と到着した。先ずドイツのベルリーナ社の12輛は8800型となり、東海道西部で使われていた。この機関車は、次の時代の旅客機を担った8620型の開発の手本となるのである。
次いで、ドイツのボルジッヒ社の12輛は8850型となり、直ちに模倣国産機の12輛が製造され共に東海道の東部で使用された。特徴は機関車台枠上にボイラーを載せたので火室の幅の制限が無くなり強力な出力を発揮できたことである。この設計思想は次世代の貨物機の9600型の手本となった。
次のアルコ社からは32輛が導入されて、8900型となった。これは車軸配置が4-6-2(2C1)であって、求めていた機関車より一段と大型であった。火室を従輪上に置くため、火格子面積を広げることが可能であって、将来の日本の機関車のルーツとなったのだが、この時点では時期尚早(じきしょうそう)とされて国産化は見送られてしまった。
これらの機関車は、これから述べる御殿場越えの補機の強力化に際して、多大な技術的示唆を与えてくれた功績がある点に注目しておきたい。
ここで、御殿場越えに活躍した補機に付いての変遷を記しておこう。明治の末期になると、東海道本線や東北本線などの輸送量は増大していたが、箱根越えなど長距離にわたって25‰の勾配が連続する区間があり、輸送上のネックとなっていた。その対応策として検討されたのが、電化を行なって電気機関車を導入するか、軌道を強化してより大型の蒸気機関車を導入するかということであったが、いずれも多大な資金が必要であって、決断が遅れていた。
そのような状況下でアメリカン・ロコモティブ(アルコ)社の日本における代理店をしていた三井物産が、アメリカで『ベビーマレー』と呼ばれて“強力で軸重の軽いマレー式蒸気機関車”を売り込んで来たのであった。これを受けて、1911年(明治44年)に試験的に飽和式1B+B型の車軸配置を持つマレー式テンダー機関車が輸入され、9020形として実用試験が行われた。それが好成績を示したことから、翌年の1912年(明治45年)には、より強力な過熱式でC+Cの車軸配置のマレー式蒸気機関車を次の各社から輸入した。それは、アルコ社からの24両(9750形)、アメリカのボールドウィン社製の18輛(9800形)、それにドイツのヘンシェル・ウント・ゾーン社製の12輛(9850形の9850〜9861)の計54輛である。そして
東海道本線の山北−沼津間などの急勾配区間に集中投入された。それにより、今まで補機として活躍していた“B6”こと、イギリスのダズス社で明治22年ころから製造された2100型のC1タンク機関車と云う古豪機を置き換えてしまった。そのマレー機は旅客列車の場合は後補機を務め、貨物の場合は前後に付いたし、長大な貨物列車では前に2台、後に1台と云う場合もあったようだ。これが日本で唯一のマレー式機関車の採用例となった。
 このマレー式蒸気機関車は、スイスの技師 アナトール・マレーさんによって発明された「関節式機関車」の一種であって、一方の走り装置が車体の下に固定されており、もう一組の前側の走り装置が進行方向に沿って首を振るような構造のきかんしゃであった。その特徴としては、@一個のボイラーを有し、ボイラーの下に2組の走り装置(シリンダー・動輪など)を備えている。Aシリンダーは高圧と低圧の2種を前後2組備えており、合計4つのシリンダーを持つ。B後方の走り装置には高圧シリンダーを装備し、前方の走り装置には低圧シリンダーを装備する。ボイラーで作られた蒸気はまず後方の高圧シリンダに送り込まれてピストンを駆動し、続いてその蒸気が管を通り低圧シリンダーに送り込まれてピストンを駆動してから排出される複式機関車でもある。C後部の高圧シリンダーを備えた台枠は普通の機関車と同様にボイラーに固定されているが、低圧シリンダーを備えた前部台枠は後部台枠とは左右に首を振る関節でつながれ、曲線に沿って首を振る構造となっている。Dボイラー前部の荷重は左右にスライドするベアリングにより前部台枠に伝えられる。そして得られる利点は、1両の機関車に2両分の走り装置を持つため、出力は大幅に向上する。動輪数が多くできることから、出力の割に軸重を抑えることができ、さらに空転が生じにくい。また、動輪数の割に固定軸距を短くできるため、軌道に与える横圧が小さく、急曲線に対応できる。輸送力の大きい路線や勾配路線に向き、ヨーロッパ、アメリカで大発展した。一方の短所には、走り装置が2組になるだけでなく、複式であるから、高圧シリンダから低圧シリンダへの蒸気配管がある程度の「たわみ性」(フレキシブル性)を持たせて装備する必要があり、それらの構造が複雑で製造費が高く、保守点検がより煩わしいことが指摘されていた。急曲線のある山岳線などが多い日本には最適のはずだったのだが、実際には極めて短期間の活躍で終わってしまったのも、このメンテナンスの困難さにあったと云われているのだが、他にも理由があったのだろうか。
私はアメリカの保存鉄道に現役の大型マレー機が今もって復元し活躍しているのを見ているので、アメリカの用に長距離の勾配区間を踏破する条件下では、メンテナンス性の困難さより運用の利益が大きかったのであろうか。また、これに替え得る機関車が無かったのかも知れない。
 ここで、日本に唯一残存しているマレー式蒸気機関車である9856号の来歴について述べておきたい。鉄道50年を記念して開館した鉄道博物館は関東大震災で展示資料を失ってしまったが、1924年に東京駅−神田駅間高架下に再開することに漕ぎ着けた。
そこに展示するために、引退間近い9850型マレー式蒸気機関車の9856号が選ばれて1924年(大正13年)3月20日付けで僚機に先駆けて廃車となった。そして大宮工場で車体の各部を切開して内部構造がわかるようにしてから、1927年から展示されたのであった。その後に、鉄道博物館(後の交通博物館)が万世橋に移転してからは、ホールの中央で台座の上に載せられて、動輪とピストンを動かし、下からも観察できるようになっていたのであった。現在は 2007年(平成19年)に埼玉県さいたま市大宮区に開館した鉄道博物館に移され、昔ながらの展示がなされている。
その9856号の構造と主要諸元は次のようである。製造はドイツのヘンシェル&ゾーン社で、1913年(大正2年)製で、製造番号 1663であった。この型の機関車は、低圧シリンダにもピストン弁を採用しており、動力逆転器を装備していた。煙突はキャップのない単純なパイプ形であった。絶気運転時に大煙管内の蒸気の流れを停止させ過熱管の焼損を防止するダンパや、シリンダのバイパス弁などの新機構を装備していた。ダンパは蒸気の漏れが多く実用にならなかったが、バイパス弁は制式採用された。
主な諸元:
全長:18,933mm 
車軸配置:0-6-6-0(C+C) 
動輪直径:1,245mm 
弁装置:ワルシャート式 
シリンダー(直径×行程):419mm×610mm(高圧)、648mm×610mm(低圧) 
ボイラー圧力:14.1kg/cm2 
火格子面積:1.95m2 
機関車運転整備重量:69.21t 
機関車動輪軸重(最大・第2動輪上):12.65t 
水タンク容量:12.11m3 
燃料積載量:3.05t 

〈0004:9850型蒸気機関車の形式図〉
二組のシリンダーとドウリン

さて、マレー機の導入が行われようとしている頃、東海道本線の輸送力の増強と同時に高速化の要求が年々高まってきて、その最大のネックである御殿場越えの難路の抜本的な解決策の検討が鉄道員総裁の後藤新平から命じられた。この山越えのネックの解消策として、国府津-小田原−熱海-沼津を経由する“海線”と呼ばれた熱海線が検討され、熱海と三島の間にトンネルを建設する計画が明治43年(1910)から開始され、そして 大正7年(1918年)になって工期7年を予定して建設に着工した。しかし、トンネルの掘削を初めて見ると、予想外の地質の複雑な断層や湧水、それに溶岩や岩塊が温泉熱により変質して空気に触れると体積が数倍にも膨れあがる温泉余土に遭遇して工期が大幅に遅れそうな見通しが出てきたのであった。この増大する輸送需要に対応しながら長期にわたる御殿場越えを維持するためには、急いで補機の強力化と増備、それに補機の基地でである山北機関区の拡張が求められた。
先ず、下り列車への補機の運用を担っていた山北機関区での機関車増備が必要となり、大正9年(1910年)に敷地拡大を行ったが需要に追い付かず10数年後の大正11年(1922年)に再度施設拡張を迫られ狭い谷間を賑わわせた。
一方の補助機関車については
1914年(大正3年)に誕生したのが軸配置2-8-0 (1D)型の過熱式の9600型貨物用テンダー機関車であって、メンテナンスに手を焼いていたマレー機に置き換えることができたのである。この機関車はボイラーを台枠上に載せる設計を行って、火室の火格子が台枠上となることから広火室を装備して高出力を発揮できたからである。この設計思想は1911年(明治44年)に過熱式機の実証のために輸入したドイツのボルジッヒ社製の8850形機関車から受け継いでいたのであった。詳しく云えば、従来の台枠内に火格子を置く狭火室方式では、その面積を増加させようとすると奥行きが長くなり、機関助士は投炭作業に難渋することとなったが、火格子を台枠上に置く広火室方式では横幅を広く取ることができるので奥行きが減少し、機関助士の投炭作業の負担も軽減された。それに、4-6-0(2C)形蒸気機関車は、第2動輪を主連棒を連結するものであるが、本形式では火格子を台枠以上に置いたことから第2・第3動輪の間を広く取る必要がなくなり、その分第1動輪の位置を後ろに下げて、そこに主連棒を連結した。これにより、固定軸距離を縮小することができて、曲線通過が容易になる利点が生まれている。ただ、重心位置が非常に高くなり、動輪径の小さいこともあって常用最高速度は65km/hと高速走行は苦手であるのが短所であった。この9600型の登場によりマレー機は本線を外れ地方路線の山岳区間に移動して昭和5年(1930年)頃まで使用されたようである。
やがて、第一次世界大戦に伴う国内貨物輸送需要の増大を背景として、1916年頃から9600形の後継機が取りざたされた。ここでは、より強力な貨物機を投入し、輸送上の隘路となっていた箱根越えなどの勾配区間での輸送単位の増大を図ることが計画され、当初は改軌論争とのからみもあり、従軸を持たない9600形にそのまま1軸追加してデカポッド形軸配置(1E=先輪1軸、動輪5軸)に拡大した機関車が検討の俎上に載せられた。だが、長期にわたり議論が続けられていた改軌論争が狭軌に決着したことから、狭軌に最適化した設計の18900形(後のC51形)が大きな成功を収めたこともあり、貨物用についてもデカポッド機案を放棄し、18900形と同様に軸配置を従台車付きのミカド形(1D1とした9600形を上回る高性能機が計画され、D50形貨物用蒸気機関車として、1923年から1931年の間に380両が製造されて役目を果たしたのであった。 
その間の昭和5年(1930年)になると、日本の看板列車となった東京−神戸間の『特急;燕(つばめ)』では、電化されていなかった現在の御殿場線区間をいかに速く通過するかの工夫がなされた。その一つにはレールを「50kg/mのレールに取り換えて重軌条化することであった。もう一つは、電化されている区間を含めて全線をC51か、または新鋭のC53が牽引、国府津と沼津では30秒停車中に列車後部に補機としてC53を連結し、その解放は御殿場駅付近を走行中に自動開放することにより、東京−神戸間を9時間で走破する“超特急”ぶりを実現していたのだった。そして、その他の特急や急行列車でも御殿場付近での補機の自動開放が行われるようになった。
 そして時代が昭和に入った昭和9年(1934年)になって、計画から11年半も遅れて丹那トンネルが開通した。こんなに遅れたのは難工事に加えて、関東大震災や伊豆地震などにも遭遇すると云う不運に付きまとわれたからであった。すぐに東海道本線は電化された“海線”こと、熱海線を編入して、距離48.5km、最急勾配10‰の短絡・平坦ルートとなり、完全に箱根越えのネックは解消した。その一方で、国府津-御殿場-沼津間の“山線”は御殿場線と名付けられてローカル線に格下げとなり、御殿場越えの補機の時代はようやく終わりを告げることになったのである。
その後、しばらくの間は複線運転が行われていたが、国内幹線の1200トン貨物列車を牽引することを狙って新造された強力なD52型蒸気機関車の7輛が国府津機関区に配属されたことから、補機のD50と共に山北機関区も消えてしまい、余剰となった職員と配置されていた蒸気機関車は折りから貨物輸送が激増していた新鶴見機関區へと転属していったと云う。
やがて第二次世界大戦時の物資不足から、1944年(昭和19年)には不要不急線に指定され単線化され、その撤去した橋桁やレールなどは海軍から建設を強く要請されていた横須賀線横須賀-久里浜駅間や樽見線(たるみせん)建設に転用され、更に過剰な能力のある「50kg/mレール」は品鶴線(ひんかくせん)や高島貨物線の重軌条化に転用され、その代替えに高島線で使用されていた37kg/mレール」が御殿場線の格下げに回されたと云う。しかし現在もなおトンネルや橋脚などに複線時代の面影が残っており、D52の運行が本線以来の格式を保ってもいたのだった。戦後に、小田急電鉄の小田原線と御殿場線との間の連絡線が1955年に開通し、新宿−御殿場間のDCによる直通列車が開業している。その後の1968年(昭和43年)には全線電化が完成して、D52蒸気機関車は本州から消えてしまった。

撮影:昭和42〜43年

…………………………………………………………………………………………………
・「御殿場線の蒸気機関車」シリーズのリンク
315. ぷろろーぐ:東海道線の箱根越え・御殿場線/国府津機関区の扇形庫
237.富士山の裾野を登る・御殿場線/沼津〜富士岡
238.足柄平野を行くD52・御殿場線/国府津〜松田
240.酒匂川をさか登ってサミットへ・御殿場線:山北〜御殿場