自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

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・日本鋼管鶴見製鉄所を訪ねて
229.  昭和ロマンのただよう鶴見線界隈(かいわい) ・国道駅
−鶴見高架橋/国道駅と鶴見川RCアーチ橋梁−

〈0001:在りし日の美しいアーチを見せる鶴見川橋梁:大野さま1979年9月撮影〉
鶴見線 鶴見川橋梁:大野さま撮影、726

〈0002:〉
鶴見線 鶴見川橋梁:大野さま撮影、722

・上の2枚の写真は次のサイトから転載をお願いしました。
「失われた鉄道情景を求めて」/「鶴見線界隈(かいわい)
http://silkroad2000.web.fc2.com/422.htm

〈0003:鶴見線の東海道線跨線橋のトラス〉
(典拠は下段に記載

歴史的鋼橋: T5-143 東海道線跨線線路橋  
http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/2003/bridge/T5-143.htm
写真  1727   
上からお借りしました。

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〈紀行文〉
 昭和43年の3月に京浜臨海工業地帯に操業していた日本鋼管鶴見製鉄所の専用線を訪ねて明治の古典蒸機にお目に掛かれることになって電車で出かけた。先ず、製鉄所を儀礼的に駆け足で見学してから専用鉄道の機関区の辺りで2時間ほど過ごさせてもらった。そして浅野駅から帰途についた。一度降りてみたかった国道駅に下車して、鶴見川右岸の下流に出た。そこからは、いささかくたびれた姿の6連コンクリートアーチの鶴見川橋梁を型通りに撮ってから、道駅のガード下で祝杯を挙げて本日の撮影行は無事に終わった。
それから何と43年も経った本年(2011年)、その初夏のある日に、
「地方私鉄 1960年代の回想」  
http://umemado.blogspot.com/
の風間さまから「愛知の明治村で動態保存中の元・日本鋼管鶴見製鉄所の9号の製造者銘板(ビルダーズプレート)についての疑問」のメールを頂いたのが契機となって日本鋼管鶴見製鉄所に関係するフイルムの一斉捜査となったのであった。
やがて、鶴見線に架かる鉄橋を土木学会の橋梁史年表で検索していた所、当のコンクリートあーち形式の鶴見川橋梁の設計者が、かの東京−万世橋間の高架橋の建設を指揮して、後に著名な建築家となった阿部美樹志(あべ みきし)さんであったことが判り、再度フイルム探しを見直すことになったのだった。しかし、私のアルバムからは、「遠目にも、黒く流れた「しみ」だらけの“よれよれ”の疲れきったような」姿のコンクリートアーチであったのには失望してしまった。
そこで気を取り直して、竣工間もない情景とは云わなくとも、設計者の名を汚さないほどの美しい写真を求めてwebを探しはじめた。その末に、「失われた鉄道情景を求めて」の中の素晴らしい写真に出会うと云う幸運に恵まれた。そして、その中の鶴見線界隈のなかの2枚の写真を管理されておられる大野さまにお願いして提供して頂けたのであった。ここで厚く御礼を申し上げる次第です。
なにしろ、鶴見川橋梁をSLが渡ると云うことは全く無かったから、一枚撮っただけで引き上げてしまったのは我ながら大失敗であった。従って印象が全く思い出せないのには閉口している。
そこで、小野田滋さんの「阿部美樹志とわが国における黎明(れいめい)期の鉄道高架橋」が「土木史研究」 21号(2001年)、113頁で見付けたので引用させてもらった。
『この橋梁は6径間連続の鉄筋コンクリートアーチ橋(形式:RC上路充腹アーチ橋)で、径間58ft(17.68m)×2径間+
径間100ft(30.48m)×2径間+径間58ft(17.68m)×2径間の計6径間、橋長150mに及ぶ雄大なものであった。これほど大径間のアーチ橋は阿部の面目躍如(めんもくやくじょ)と云うところか。
』とあった。
ところが、その後の1981年(昭和56年)からの鶴見川の河川改修工事の際に撤去されてしまい、代わって全長 148mの鋼単純箱桁橋としてスパン=39.7m 4連に架け替えられてしまったのは残念であった。
 さて、京浜臨界工業地帯を縫うように走る国鉄鶴見線には、意外にも昭和ロマンのムードを感じさせてくれる「Bランク 土木遺産」に推奨されている鶴見高架橋こと、鶴見線国道駅とその界隈(かいわい)の風情が楽しめることで人気が高まってきているようだ。
私がそれを知ったのは、先にも述べた鶴見川に架かる優雅な6連のコンクリートあーち橋梁の設計者が「鉄筋コンクリート工学の父」として著名な建築家の阿部美樹志さんだったことからである。
調べが進むと、鶴見線の前身である鶴見臨海鉄道の鶴見高架橋は鶴見川橋梁を含めた鶴見-鶴見小野間の総延長2.1kmにおよんでいる一連の構造物で阿部さんが設計を移植されて完成させたことが判った。鶴見臨海工業地帯の貨物輸送サービスを成功させた鶴見臨港鉄道では念願の旅客サービスヲ東海道本線の鶴見駅から既に開通していた弁天橋駅までの間に旅客専用路線を建設しようと計画していた。このルートに当たる地域は鶴見駅界隈の最も混雑した繁華街を通過することになるから路線の建設は極めて難しかった。しかし、
その数年前の1919年(大正8年)には東京駅と神田の万世橋駅の間の繁華街を新しい技術を駆使したコンクリート高架橋で横断して路線を完成させたのがアメリカ帰りの阿部美樹志さんであることは世に知れ渡っていた。
一方、鶴見臨港鉄道の社長も兼務していた浅野セメントの社長であった浅野総一郎さんは以前から“セメント”と“コンクリート”との縁で親交のあった阿部さんに鶴見臨海鉄道の旅客専用線の建設を新鋭技術の高架橋方式で設計してもらうべく委嘱したらしいことが判った。
 何はともあれ、鶴見駅から鶴見高架橋をを電車に乗って鶴見小野駅までの「小さな旅(昭和43年)」の追憶をたどってみよう。
この間僅か1.5kmの間に東海道本線らを跨ぐトラス鉄橋、そして鶴見高架橋の国道駅、そしてアーチ橋の鶴見川橋梁と立て続けに三つの見所があるのだからたまらない。
1934(昭和9年)に開業した鶴見臨港鉄道の鶴見駅は今もJR鶴見線が発着しており、終端はの相対式ホームが設けられ、高架下は鶴見駅と一体化した駅ビルとして京浜百貨店(現・京急ストア)が入居しており、その柱にはスクラッチタイルが装飾として張付けられている。電車は出発すると、高架線を横浜方面へ向かって走り、途中、車窓から線路と線路の間にホームらしきものが見えた。これはかって存在した本山前駅の島式ホームの遺構であって、鶴見臨港鉄道が1934年(昭和9年)に東海道線を跨ぐ跨線橋を開通させて延長した時に仮の終点として開業した駅で、西側の山中に創建された曹洞宗大本山総持寺から付けられた液名であった。終点だった本山駅も、鶴見駅西口ビルが完成して0,2kmほどレールが延びると利用客が減って廃止になってしまったものである。乗った電車はしばらく京浜東北線と併走してから、左前方から、緩い角度で斜めに架けられたトラスの姿がとても大きく見えながら近づいてきた。左へカーブを切って、古めかしい鉄の橋は直ぐに、横須賀線(2線)、京浜東北線(2線)、東海道本線(2線)、東海道貨物線(5線)の計11線を長さ 64.9mの複線下路平行弦ワーレントラスと云う形式の東海道線跨線線路橋で右斜めにオーバークロスして海岸沿いへと向かった。この鶴見線の高架橋の構造は、3径間連続のビームスラブ式ラーメン高架橋を基本として、その間を単経間のエキスパンションスパンによって連続させるものであるとあった。
直ぐに国道15号線(京浜第1国道)を越えて、電車は左カーブの途中にある相対式のホームのある国道駅に到着した。鶴見駅から僅か 0.9kmしか走っていなかったが、先ず降りてここの雰囲気を味わってみようではないか。降り立った相対する2面のホームはカーブした曲線を描いている上に、それを覆っている屋根を支える鉄骨は曲げて造った曲線美のある柔らかなデザインのドーム、それを組むためのリベットがかもしだす風格には、開業以来から変わっていない構造物の魅力があふれていた。
この国道駅は橋梁にアーチ構造を採用し、コンコースを挟んで高架下を商業空間として利用するなど、独特の設計であった。これは昭和初期のコンクリート作りとして新しい試みで、大きな曲線を描く通路兼、商店街になっていて趣深い情景である。どこか昭和時代へタイムスリップさせるのか、映画から、テレビドラマなどでロヘ地に選ばれることがしばしばであると云う。そしてホームの上屋と同様に、高架橋を支える橋脚もまた、曲線美のあるデザインになっており、支柱のすそまわりをスクラッチタイルで巻くなど装飾が施されているのが外から眺められたし、高架下に一般住宅が入っていると云う光景も残っていたのには歴史を感じさせた。このような古い構造物が、21世紀の現役というのは、当時の建築技術を今に伝える貴重な存在であるに違いない。この高架駅の国道駅までがRCスラブ高架橋と云う形式の鶴見高架橋であって、この先僅か 50m走れば鶴見川を優雅なコンクリートあーち橋で渡って右カーブで築堤を下って地上に降りて鶴見小野駅となると工場地帯に入ったらしく一気に風景が変わってきた。
この鶴見高架橋こそは日本最初の鉄筋コンクリートン(RC)高架鉄道の設計者である阿部美樹志さんの面目躍如(めんもくやくしょ)と云うところであろうか。こで経緯を払って氏の経歴に触れておこう。阿部 美樹志(あべ みきし、1883〜1965)さんは岩手県一関市生まれ、明治38年(1905年)ニ札幌農学校土木工学科を卒業後、鉄道院で鉄道施設設計に従事した。明治44年(1911年)に鉄道海外研究生に選抜されアメリカのイリノイ大学大学院に留学し、鉄筋コンクリートの技術 と合理性を学び、博士号を取得して大正3年(1918年み)に帰国した。そして大正8年(1919年)に開通した、万世橋駅〜東京駅間の高架橋の設計を担当したことから、日本の鉄筋コンクリート(RC)エンジニアリングの開祖とされ、わが国の高架鉄道設計の権威と敬われた。その後、 官を辞して、大正9年(1920年)に阿部美樹志設計事務所を設立した。そして、親しい浅野セメント社長の浅野総一郎さんの仲立ちで阪急をを率いる小林一三さんと出会い、彼をパトロンに、梅田阪急ビルのほか、十三〜梅田間の鉄道高架橋、東京の日比谷映画劇場、旧阪急梅田駅、阪急百貨店、阪急西宮スタジアム、神戸高架橋、阪急三宮駅などを設計した。戦後は戦災復興院(現国土交通省)の第2代総裁などの公職を歴任した。それにアパートの、鉄筋コンクリート構造化による不燃構造公営住宅の理論を確立した業績も忘れられない一面であろう。
 さて、鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道が弁天橋駅から鶴見仮停車場までをかいつうさせ、全面電化して旅客さーびすを開始したのが1930年(昭和5年)10月のことで、それは浜川崎駅−弁天橋駅間の貨物サービスを開業してから4年半お経てからのことであった。また、その旅客サービスに占有する弁天橋駅−鶴見駅間の路線免許は開業の前の大正14年(1925年)に既に取得していたから、この遅れは単に鶴見駅界隈の繁華街を通過するための難工事岳が原因ではないのではなかろうかと推察した。探索してみると、そこには安田財閥を率いる安田善三郎さんの存在が浮き上がって来たのだった。それは
未だ、浅野総一郎さんの鶴見臨海地域の埋め立て計画の陰も形も無い頃、旧東海道川崎宿に近い六郷橋から参詣人の多い川崎大師までの大師電気鉄道が開通するに当たり、安田財閥が人的にも資金てきにも援助したことから、同社が間もなく京浜急行電鉄(今の京急)となって1905年(明治38年)に品川〜神奈川間に電車を開通させるに至るまでの財政的バックアップを続けてきたことから、安田善三郎さんが社長として経営を進めていた頃の話題である。(安田財閥の伝記をうかがうと、安田産は神仏に対する畏敬の念が深く、寺社への山系の脚となる交通事業への菩提心としての出資の事例が各地の鉄道事業に見られると云うのであった。)
そして明治43年の頃、同社の支線を山谷−大師−鶴見を迂回する海岸線を計画出願したが、採算不確実のの理由で却下されてしまった。じつは、これの表向きは海浜の遊覧ながら、当地区で他社の進出を牽制するのが真の目的であった。やがて次第に、川崎、鶴見地区が工業地帯として有望視され始めたことから、安田社長は方針を変更して、大師以南を別会社の海岸電気軌道として、東京市電と同じ軌間 1,372mm、電圧600Vの路面電車を鶴見の総持寺−川崎の大師間9.5kmの免許を大正8年に獲得して建設を始めた。ところが、その最中に関東大震災に妨げられ、大正14年になってやっと総持寺−富士電気前が開通したのであった。
このような背景の中で、浅野総一郎さんの鶴見臨海埋め立て計画は着々と進行し、多くの工場が立地するようになり、一方では鉄道院の貨物線の浜川崎駅が開業したことから、埋め立て地に進出した工場と浜崎駅を結んで貨物の輸送を目的とした浅野総一郎社長の鶴見臨港鉄道が合わせたように同じ頃に貨物サービスを開業したのであった。しかし、それらの先行進出した工場の従業員の通勤や、取引先の往来が頻繁になったことから、旅客輸送サービスも始めようとして、追加出願したのであったが、並行する海岸電気軌道との競合となるため認可されなかったと云う経緯があった。そこは安田善三郎さんと浅野総一郎さんとの盟友の仲であり、昭和5年3月には、海岸電気軌道は鶴見臨港鉄道に吸収合併されて消滅することで決着した。そのような見通しの下で、鶴見臨港鉄道の全線複線電化による旅客サービスの計画が実現して行ったのであった。その後の鶴見臨港鉄道軌道線は、旅客が次第に減少してきたことに加えて、軌道の敷設してある産業道路の整備拡充を契機に昭和13年1月に廃止されて姿を消した。なお、海岸電気軌道線の川崎大師−小島新田間のみは今も京急大師線として営業を続けているのが唯一の痕跡であろうか。
蛇足ながら、あの弁天橋駅から鶴見川を渡って反映する鶴見駅界隈の交通を様猛ることのないように鶴見高架橋を架け、さらに長大な鉄橋で幅広い当該同線を渡って鶴見駅の中信へ乗り入れた鶴見臨港鉄道の旅客占有路線は今も毎日何万人の乗客たちに大きな弁と云う恩恵を与え続けている。この建設当時には新鋭技術であった鉄筋コンクリート構造物を縦横に活用した鶴見線界隈の実現には、単に資金の莫大さだけでなく、京急を率いる安田さんと鶴見臨海工業地帯の発展に尽くす浅野さんとの関係が重要な役割を演じていることが判った。正に対照的な風景には、開かずの踏切で名を馳せている『総持寺踏切』が並んで控えていたのだった。

アップロード:2011−09.

・「日本鋼管鶴見製鉄所を訪ねて」シリーズのリンク
188. 明治の古典蒸気機関車たち/専用線へのプロローグ
226. 富士身延からのボールドウイン 9,10号姉妹・日本鋼管鶴見製鉄所
227. 小湊から来たダベンポート 11号・日本鋼管鶴見製鉄所専用線
228.“はしれクラウス12号”・日本鋼管鶴見製鉄所