自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

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・日本鋼管鶴見製鉄所を訪ねて
188. 日本鋼管8.  明治の古典蒸気機関車たち   専用線へのプロローグ

〈0001:日本鋼管鶴見製鉄所専用鉄道機関区前にて〉
機関車庫の前にたたずむのはゴールドウイン

〈0002:協三工業製産業用蒸気機関車 18,19号のそろい踏み〉
日本鋼管鶴見製鉄所専用線

〈0003:旭運河岸壁の貨引き込み線での船積み風景〉
鶴見線浅野駅前にある旭運河岸壁での製品積み出し風景 1

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〈紀行文〉
 SLを撮り始めてから1年半ばかり過ぎた頃、鉄道ピクトリアル誌に連載されていた専用線訪問記に触発されて、私も試みたいと願うようになった。そこで見よう見まねで専用線のメッカと云われていた鶴見線の弁天島駅辺り目星をつけて、予備知識もないままウロウロしていたが、日本鋼管鶴見製鉄所の門の奥の方にSLの気配は感じられたのだが、何故かこの日はなかなか姿を現さなかった。
そこで製品の積み出しをしているであろう旭運河の日本鋼管岸壁へ向かった。案の定、協三工業製のbP8号機が牽引して来た貨車から鉄板を船積みの最中の光景に出会うことができた。
そこで在籍しているはずの明治の古典機の探索はあきらめて、海芝浦支線を往復して浅野駅の辺りを見回して引き上げたのだった。そのような体験にこりたので、次は仕事上の関わりのある日本鋼管のエンジニアリング部があったのを幸いに、鶴見製鉄所の見学をお願いして、ついでに専用線のslも見せてもらいたいと申し添えておいた。昭和43年春になって鶴見製鉄所が京浜製鉄所に改称される直前に訪ねることができた。この日本鋼管とのかかわりは自動車用鋼板ではなくてLPG(液化石油ガス)のガス化装置であった。その数年前から、日本鋼管では製鋼操業の燃料を重油から液化石油ガスに転換して公害対策を進めていたこともあって、エンジニアリング部門ではLPG(液化ブタンガス)を蒸発させて空気で薄めて燃料ガスを製造する技術を開発して、一般工場向けに“NKKベーパーライザー”として発売して名をはせていた。このシステムを私が塗装乾燥炉の燃料のガス化計画に採用していたからである。
訪問が実現したのは昭和43年3月9にちであった。ここでは、本ページの「プロローグ」に続いて、明治生まれの古典機である、“ボールドウイン 9、10号姉妹機“、“ダベンポート 11号”、“くらうす 12号”たちのポートレートを4ページのシリーズでお目に掛けよう。
 戦後に復興を遂げた京浜工業地帯は国鉄の鶴見線をはじめとして、多くの工場の占用線では多種多彩な小型の蒸気機関車が活躍するメッカで知られていた。そもそも、この川崎から鶴見に至る臨海工業地帯の生みの親はコークス販売やセメント製造で財をなした浅野総一郎(1848〜1930)さんであった。その始まりは、1896年(明治29年に)東洋汽船を興して海運業に進出したのだが、この経営には自前の造船所が必要を感じていた。欧州視察で臨海工業地帯の利便性を認識したことから造船所の建設には海岸の埋め立て地を物色するようになっていた。
一方、浅野さんの娘婿の白石敬二郎さんらが民間の鋼管の製造を目指して1912年(明治45年)に日本鋼管を設立し、その工場を東京湾に面した川崎海岸に建設することにさだめ、大正2年には平炉からの出鋼による継ぎ目梨鋼管製造を開始し、間もなく工場は大拡張を遂げることになる。
この日本鋼管の工場用地のの先の遠浅の沖合が臨海工業地帯に適していることを見い出した浅野総一郎さんは明治治41年(1908年)に鶴見埋立組合を設立して、鶴見川河口から川崎方向への東方に広がる町田村、田島村の海岸部の埋め立てにんかを苦難の末井獲得して、1913年(大正2年)から鶴見地区の埋立を開始した。
最初に、田島村塩浜地区の33haが完成し、大正4年(1915年)、浅野セメントが深川から移転した。同じ年末に、鶴見川河口近くに23haの造成が完成、旭ガラスの工場建設が実現した。次いで、その東隣りの町だ村の沖が造成され大正6年(1917年)に浅野造船所が進出した。続いて、日本鋼管、浅野造船所の工場用地にそれぞれ東隣、西隣し、東京湾に大きく張り出す形で造成された埋立地のうち、大正11(1922)年に完成した区画は、安善町と名付けられた。その中央に
旭運河を挟んで
日清製粉、石油基地、火力発電所、東京から移動した東芝などがりっちしていったのである。
それに合わせていち早く鉄道院は自らが1918年(大正7年)には東海道本線川崎駅から貨物支線を延長して日本鋼管の工場の隣に浜川崎駅を開業して物流の弁を築いた。実は、埋め立て組合も前々から同様の貨物線の敷設免許の申請をしていたのだったが容易には認可が得られなかったのである。それ以前に操業を開始していた日本鋼管や浅野セメントの工場は物流を艀(はしけ)を利用する水運に依存していたが、浜川崎駅の開業により(自前の専用線を結ぶことにより貨車による物流の道が開けたのだった。そこで浅野総一郎さんは埋立地に次々と工場の進出が決定しつつあるなかで、それらの工場を浜川崎駅に結びつける貨物鉄道の必要性を認め、各企業からの出資も得手鶴見臨港鉄道を設立し、1926年(大正15年)に浜川崎駅−弁天橋駅間(3.54km)の本線を昔の海岸線に沿って建設し、埋め立て地の方向へは先ずメモと大川支線(1.13km)を完成し省線の浜川崎駅に乗り入れて貨物サービスを開始した。例えば石灰石は青梅から中央線・東海道線を、後には南武鉄道を経て浅野セメントへ、また石灰石やドロマイトを葛栃木県の葛生からは東武鉄道・東海道線経由で日本鋼管・鶴見ソーダへと専用貨車で運び込まれるようになった。
鶴見臨港鉄道では35〜40トン整備重量のC型タンク蒸気機関車が国鉄に戦時買収された時に4輛在籍していたが、1949年(昭和24年)の鶴見貨物線電化に際して廃車となってしまっていたので、私が訪ねた時点では見ることはできなかった。何れも日本鋼管の機関茶立ち寄り一回り強力な機関車であったようである。その四輛の来歴を述べて置いた。
・303号(→国鉄1765形1765号) 
1929年(昭和4年)に川崎車輛で製造(製造番号1321)した。車軸配置0-6-0(C)の35t級サイドタンク式機関車である。
・304号(→国鉄1770形1770号) 
1938年に川崎車輛で製造(製造番号1926)した。303号と同型で、
相違点はボイラー中心高が101o高い。
・501号(→国鉄1800形1811号)
1881年(明治14年)にイギリスのキットソン社が製造した車軸配置 0-6-0の40t級タンク機関車である。
国鉄から払い下げられて、1929年に小湊鐵道5号となり、1937年に鶴見臨港鉄道に入線。再び国有化された。
・502号((→国鉄1850形1855号)
製造がダブス社である以外、1800形とほとんど変わらない。国鉄から鶴見臨港鉄道に払い下げらレた後、再び国有化された。
この500番台の2輛は明治中期の東海道本線の全通に際して活躍したことで知られる名機であった。
 さて、ここからは日本鋼管鶴見製鉄所専用線のルーツをさかのぼってみたい。1917年(大正6年)に操業を始めていた浅野造船所へ鋼材を供給するための浅野合資会社製鉄部(後の浅野製鋼所)が造船所の隣接地に建設されたのが起源であるとされる。その後1920年(大正9年)には浅野造船所と合併したが、昭和10年代になると製鉄部門がが主力となったので鶴見製鉄造船所と社名が変わった。やがて、1940年(昭和15年)になると、生い立ちも距離も近い日本鋼管と鶴見製鉄造船所が合併して日本鋼管鶴見造船所となった。そして戦後の昭和22年に造船所と分かれて日本鋼管鶴見製鉄所となった。それ故に、この専用線こそは京浜臨海工業地帯生え抜きの伝統ある専用線と云えるであろう。
その証拠には、専用線機関車庫を訪ねてみて「なるほど」と意を強くしたのであった。そこには数本の側線を収容する2階建ての機関車庫があり、その階上が事務所などとなっている堂々たる大正風の建物であったからであった。正に明治生まれの古典蒸気機関車たちが憩う“ねぐら”としてふさわしく思った次第なのである。早速、機関庫の前に一休みするボールドウイン製の10号を前景に建物の風情を撮ってみた。
 そこで次に、日本鋼管鶴見製鉄所専用線と鶴見臨港鉄道(国有化された国鉄鶴見線)との位置関係を説明してみたい。浜川崎駅−弁天橋駅間の貨物線が開通した後の1930年(昭和5年)には旅客サービスを始めるため本線を複線電化する一方、弁天橋駅から鶴見川に掛けられた美しい6連のコンクリートアーチ橋を渡って、当時は斬新的だった鶴見高架橋を経て東海道本線を跨いで鶴見駅の2階コームまで複線電車線を開通させた。複線化された本線では、浜川崎駅から来ると浅野駅手前で貨物線を分岐、浅野駅−から弁天橋駅までの間は複線の旅客線と平行して単線の貨物線があると云う形となった。そして浅野駅を過ぎると貨物線はその先で数本の線路に分かれた貨物ヤードとなり、その先端は弁天橋駅ホーム付近まで達していた。ここから支線に出入線する貨物列車は、ここで機関車の付け替え作業を行っている。一方大まかに云えば、日本鋼管鶴見製鉄所の敷地を東西に挟むように海の方向へ延びる二つの支線を述べておこう。先ず海芝浦支線と本線との分岐点は浅野駅の弁天橋駅方手前にあって、海芝浦方面への下り線は本線の上り線と単線の貨物線を渡って、海芝浦支線に分岐し、鶴見駅方面の上り線は単線の貨物線を渡って、本線の上り線に合流している。この支線には東芝専用線への特殊大型貨車が出入りするので分岐のカーブモ緩やかになっており、浅野駅の海芝浦方面のホームはカーブの途中の位置となってしまっている。その先は旭運河に沿って新芝浦駅で東芝占用せんを分岐して京浜運河素意の海芝浦駅へ通じている。
もう一つの支線は弁天橋駅から鶴見川左の鶴見川口駅を結ぶ単線の貨物線が1935年(昭和10年)に設けられたが、昭和18年の国有化後は浅野駅からまっすぐ鶴見川口駅へ進入する浅野駅−鶴見川口駅間(2.4km)となった。しかし、時期は不明であるが、浅野駅から弁天橋駅を通り過ぎて一旦鶴見小野駅付近まで進んで、そこで折り返して鶴見川口駅へ進入する形態に変更した。その途中で日本鋼管の専用線の平面交差を2回ほどすると云う珍しい配線となっていた。やがて1982年(昭和57年)に鶴見川口支線は廃止となったが、その先の工場専用線へのサービスは浅野駅側線扱いで続けられていた。これらが日本鋼管鶴見製鉄所の敷地の内陸川を通過していた鶴見線のあらましである。
一方の日本鋼管鶴見製鉄所専用線は浅野駅のはずれから弁天橋駅の先まで鶴見線に沿った海側を伸びていて、鶴見線の貨物ヤードの浅野駅方末端、弁天橋駅のホーム付近、そして弁天橋駅西側にある旭ガラス踏切の3箇所で鶴見線貨物線と接続していたのだった。それに弁天橋駅南側辺りから鶴見川左岸へ向かう日本鋼管の専用線もあったようである。その他に浅野駅の目の前に横たわる旭運河岸壁には日本鋼管専用線の貨物聞き込み線が製鉄所敷地から伸びていた。このようなことから、浅野駅のホームから日本鋼管の線路に肉迫したり弁天橋駅のホームからも工場の構内から希に出て来るドイツ製やアメリカ製の古典機を見ることができたし、浅野駅前の講堂からは旭運河岸壁の貨物引き込み線には協三製の産業用ロコの姿がしばしば見られたのであった。
 私が訪れた時に眼に付いた機関車は撮影したが、実際は構内で仕業に付いている機関車を追い掛けるなどと云うことはとてもできなかった。それと在籍機関車や歴史についてお伺いするほどの知識もなく時を過ごしてしまった。
 構内の機関車庫周辺の見学を終わり、敷地に別れを告げて、敷地外に向かう専用線に沿って旭運河岸壁で動いている協三工業製 18号を撮ってから浅野駅から帰ることとなった。門を出た専用船は斜めに海芝浦支線の複線を平面交差で渡って講堂を踏みきりで応談して旭運河岸壁沿いの二本の貨物引き込み線へ合流しれいた。運良く岸壁に着岸した貨物船の脇に、協三工業製標準型産業用蒸気機関車の18号に連結した貨物列車が横付けされて、鋼材などの製品積み込みの真っ最中であった。
 この運河に向かって立って、北側から、旭運河→日本鋼管専用線の二本の貨物引き込み線→講道→鶴見線海芝浦支線(複線)→日本鋼管鶴見製鉄所敷地となっている。
この旭運河は埋め立てが完了した末広町と安善町との間に作られた弁天町南岸から京浜運河までの幅75m、長さ1320mの運河であって、対岸には東京ガス、モービル石油、そして米海軍油槽所があり、こちら岸には日本鋼管鶴見製鉄所と東芝京浜事業所が占めていた。その運河の北端には鶴見線の鉄橋と、末広橋が運河を横切っており、その辺りには小型船が多数もやっていた。この運河沿いの講堂に面して、堂堂とした構えの浅野駅舎が口を開いており、その面を二等辺三角形の底辺として、北の一辺は鶴見線の本線の島式ホームであり、南の一辺が海芝浦支線の相対ホームとなっていて、海芝浦方面のホームは三角形をしていて、その中央に円形花壇があるほど広かった。この浅野駅に覆いかぶさるように巨大な鉄骨構造のクレーンが日本鋼管から運河岸壁へ伸びていたのが強く印象に残った。この浅野駅は、この臨海工業地帯の立役者である浅野総一郎さんの名前を冠した駅だけあって、鶴見線を代表する特徴のある雰囲気の駅であった。
最後に、文献で見かけた日本鋼管鶴見製鉄所専用線に在籍した蒸気機関車の号機を一覧してみた。
〈日本鋼管鶴見製鉄所専用線に在籍した蒸気機関車の一覧メモ〉
私が訪ねた昭和43年3月に撮ったのは9、10、11、12、18、19号だけで、その他も含めて8両が在籍していたようであった。
ここには製造社、号機、当時の状態、参考事項を列記してみた。
・1,2号:梅鉢鉄工所製、車軸配置 B型 タンク式、整備え車両重量 14.22tの小型機関車。元東洋製鉄。同形は大和鉄道 2号機がある。戦後に直ぐ廃車となった模様。
・3号:アメリカの ポーター社製、車軸配置 B型 タンク式、整備車両重量 20.4tの機関車。原型の木造キャブは鉄板製へ改造、サイドタンクは新制してあるが、ポーターのおもかげは残っている。運転室後方は開放されている。優秀な機関車で長く使われた。
・4号:欠番
・5号:ドイツのクラウス社製、車軸配置 C型 タンクしき、整備車両重量 21.44tの機関車。千葉県営鉄道が3号として大正2年8月に購入。水槽は484ガロンと小さかったが、昭和26年ごろ水タンクを新製している。弁装置はスチブンソン式で、外側に設けられていた。
・6号:大日本軌道 昭和8年製、製番 q16)、車軸配置 C型ボトムタンク式、整備車両重量 15.24tの機関車。牽引力が弱かったことで、使用不適と記録されている。
・7号:雨宮製作所 大正9年製、製番 q36、車軸配置 C型 タンク式、整備車両重量 20.0tの機関車。標準型。元、信濃鉄道 7号であった。日本鋼管へくるまでには複雑な来歴があり、ボイラーの交換や煙突、弁装置などに変化があるようだ。昭和43年当時は側線で休車中か。
・、8号:雨宮製作所製、車軸配置 C型 タンク式、整備車両重量 18.73tの機関車。標準型。元高岳鉄道 2号。大正12年に650ガロンと水タンクを改造。
・9、10号:アメリカのポールドゥィン社 1912年(明治45年)製、車軸配置 C型、二気筒単式飽和式、整備車両重量 23.05tのタンク機関車。富士身延鉄道創業時に3輛(1〜3号)を輸入した内の2輛(製造番号:2号/37944、3号/37945)である。その後、ボールドウイン社製の大型機が増備されたことと、電化により余剰となり、1〜3号は廃車され、東京の丸ノ内商工へ売却された。そして2号と3号は日本鋼管鶴見製鉄所に納入された。新旧番号は9号(もと身延3号)、10号(もと身延2 号)であり.順序は逆となっていると云うのが定説となっている。レ形態は
砂箱のパーツが除かれて,ジェネレ-ターが付き、キャブ、端梁はかなり手が加えられていたが,古典的なチムニーキャッブも、ボールドウイン車名と製番の入った円形の製造者銘板(ビルダーズプレート)も付いていた。
9号は昭和40年には構内入換用として稼働中であったが、昭和43年当時は側線に廃車?されたのか留置されていた。(この時に車体に付いていた銘板の製造番号は37944であったことを私は確認している。やがて明治村へ譲渡された。
10号は昭和43年当時河道中であった。・
11号:アメリカのダベンボート社 1920年製、車軸配置 C型 タンク式、整備車両重量 27.2tの機関車。運転室後部は開放形であった。小湊鐵道が建設工事用に輸入した3号で、終了後は不要品として転売の予定であった。しかし開通直前の大正13年に予備機として残す方針から、自動連結器の設計変更を申請を行なった。認可は難航したものの、余り使われない予備機として過ごした。やがて増備機が入線すると、1937年(昭和12年)に廃車となり、鶴見臨港鉄道を経て、日本鋼管鶴見製鉄所へ譲り渡された。昭和43年当時は稼働中であった。
(機関車重量については29.236t(臼井さんの「機関車の系譜図」がありますが、ここでは寺島さんの文献にある形式図記載の諸元に従っている。)
・12号:ドイツのクラウス社 1907年(明治40年)製、車軸配置 1B型 タンク式、整備車両重量 31.6tの機関車。元、青梅鉄道が改軌の明治40年に4輛(1〜4号)を輸入したもので、その中の1〜3号の中の一両であり、番号は不明である。
見慣れたクラウスの風貌とはひと味違う趣を持っている。
昭和43年当時は稼働中であった。
・13号:アメリカのピッツバーグ社製、車軸配置 1B1型、整備車両重量 28.06tの タンク機関車。四国の徳島鉄道 3ごうで、元、国鉄210形212号となった。メリカ製ではあるが外観は優美で上品,繊細な風情がある。国鉄での在籍は比較的短く,わずか 8年で小野田鉄道に譲渡されている。更に宇部鉄に転じた。昭和13年廃車届。売却先は小島栄次郎工業所で、ここを経て日本鋼管鶴見製鉄所へ入線。状態は極めてわるく、廃棄希望となっていた。戦後いち早く廃車となった。
・14号:アメリカの ポータ-社 1915年(大正4年)製、製番5680。車軸配置 C型、整備車両重量 19.72tの サイドタンク機関車。小さな動輪が特長の小形機。長岡鉄道3。長岡3号は1939年(昭和14年)ごろに廃車され、日本鋼管へ転入した。国鉄1045型と同型である。
このポーター社製の小型機は6両が同時に輸入されており、そのうちの2両が日本鋼管鶴見へ14、16として入線している。その6両の内の1両である元 東洋レーヨン 103号機が2014年現在、京都府与謝郡与謝野町字滝にあるカヤ興産(株)のSL広場で大切に保存されている。
・15号:アメリカのボールドウイン社 1900年(明治33年)製、車軸配置 C型、整備車両重量 19.72t、 2気筒単式飽和タンク機関車。明治治時代の典形的なボールドウイン タィプである。元は、高野鉄道が2輛(6号:製造番号18257)を輸入した。翌年に紀和鉄道B2形→関西鉄道86形「隼(はやぶさ)」86号→国有化 1180形 1
180号→養老鉄道 6号→常総鉄道に貸し出し→防石鉄道 6号→1937年(昭和12年)に廃車、浅野製鉄(後の日本鋼管鶴見製鋼所)に譲渡された。1955年(昭和30年)まで稼働した。
(ここでは、整備車両重量 30.48tとしている寺島京一さんの資料のデーターがあるが、ここでは国鉄1180号の諸元に基づいている。)
・16号:アメリカのポータ-社 1913年(大正2年)製、製番5397。)、車軸配置 C型、整備重量 18tのサイドタンク式機関車。(長さ6.5m、軸重 6.1t)。長州鉄道A1形1→鉄道省1045型1045→尾花沢鉄道1→東武鉄道経由→日本鋼管鶴見工場16→終戦戦直前の1945年に米空軍猛爆により不幸にも被災し、ポイラは特に損傷なく再用に適すとされたが、足回りに致命的な欠陥があり廃車となって解体された。
・17号:橋本鉄工所
来歴が定かでない。アメリカ風の車軸配置 B型の たんく機関車で、整備重量20tの軽量型。廃車後スクラップを免れて小樽に所在とか。
・18,19号:協三工業製(1951(昭和26)年製)、車軸配置 C型、整備車両重量 28.5Tの標準型産業用タンク式蒸気機関車。入札による購入。協三での初の大型機であったことからか、外観、性能も今ひとつとの現場の評価らしい。

参考文献:
寺島京一著「日本鋼管鶴見製鉄所に在籍した蒸気機関車」
Rail No.3、1981−4 プレスアイゼンバーン発行 

 さて、このリストを見て冒頭の雨宮製作所製と最後にある協三工業製との対比を試みたので披露しておきたい。このシリーズの「はしれクラウス12号」でも述べているのだが、甲武鉄道の創立から運営にも当たった雨宮敬次郎(あめのみや けいじろう)さんの“クラウス製蒸気機関車”から得た技術の系譜はその後永く伝えられてきているように思える。この雨宮敬次郎(、弘化3年:1846年-明治44年:1911年)さんは山梨県塩山市在の生まれ、上京して1879年(明治12年)に東京深川で興した蒸気力による製粉工場が成功し、軍用小麦粉製造を目的とする日本製粉会社へと発展させた。そして、結束して商売にあたると云われる甲州商人、いわゆる「甲州財閥」と呼ばれる集団の一人となる。やがて先進国を視察して鉄道事業の重要性を感得して帰国、1888年(明治21年)に中央本線の前身となる甲武鉄道への投機で大きな利益を出し、同社の社長にもなり、有力な鉄道資本家となった。1907年には雨宮個人経営の工場「雨宮鉄工所」を創立して鉄道車両の製造を始める。やがて1906年(明治39年)に公布された鉄道国有法によって、これまで雨宮が投資してきた鉄道事業は地方交通が対象になると見て、1908年(明治41年)に大日本軌道を設立して各地に軽便鉄道を建設し経営した。その路線への車両を自家生産して安価に供給することを目的として雨宮鉄工所を同社の鉄工部へと発展して、主に小型蒸気機関車の製造を行っていた。これは雨宮さんの亡き後、1919年(大正8年)に、これを母体に雨宮製作所が発足した。1910年代にコッペルやクラウスなどの欧米メーカー製品に学んだ「極めて堅実、かつ実用的な設計」のウェルタンク機関車に発展し、各地の小鉄道に供給された。更にこれらの設計は雨宮製作所閉鎖後も1920年代以降、立山重工業や協三工業など各地に設立された地方の車両メーカーの良き手本となって伝えられている。例えば、雨宮製作所や日本車輛製造などが1910年代以降に製造した小型機関車をルーツとし、車両統制会の「小型蒸気機関車専門委員会」によって規格化化された産業用蒸気機関車へと展開していることであった。これの代表が最後に記載されている協三工業製の産業蒸気機関車なのである。

 もう一つ、奇妙なことを発見したので最後の箸休めとしてご覧下さい。
それは「日本鋼管鶴見製鉄所へ集まった明治の古典機たちとリバイバル3030型との奇縁」とでも云っておこうか。ここに、アメリカの蒸気機関車メーカーであるボールドウイン社の製品種別呼称で「10-24 1/4D」とされ、国鉄形式で3030型と呼ばれる蒸気機関車がある。
ところで、この種別呼称は、全車輪の個数を表す数字、先従輪の有無を表す分数、シリンダの直径を表す数字、動輪数を表す大文字アルファベットなどから成っている。先従輪の有無を表す分数は、「1/3」が先輪のみあるもの、「1/4」は先従輪のいずれも、あるいは従輪のみあるものに付される。
動輪の個数を表すアルファベットはCが2軸(4個)、Dが3軸(6個)、Eが4軸(8個)、Fが5軸(10個)である。シリンダ径をあらわす数字は、複式の場合は、これらを分数表記する。
これは車軸配置2-6-2 (1C1) 、2気筒単式の飽和式タンク機関車で、整備重量 が36.76tであった。そして1894年(明治27年)に奈良鉄道が開業に備えて5輛(製造番号13899 - 13903)を輸入して備えた機関車である。
この機関車は地方私鉄にとって好適なサイズだったようで、日本に最初に輸入されてから何と20年も経てから、3030型の第3動輪と従輪との軸距を2インチ (50.8mm)短縮し、動輪と従輪の直径をそれぞれ3フィート8インチ (1118mm) 、2フィート (660mm) とやや小さくした種別呼称「10-24 1/4D」が1914年(大正3年)から何と30年後の1924年(大正13年)に掛けて6社の私鉄から16輛が輸入されて開業や置き換えに活躍することになったのである。その中で、富士身延鉄道では1914年の製造番号41474の4号から1920年まで7輛が置き換えの為に導入され、青梅鉄道では1917年に(製造番号46767が5号、製造番号 46820が6号の2輛が増備されており、小湊鐵道では開業に合わせて1924年(大正13年)、製造番号57776が1号,製造番号 57777が2号。が導入されている。この間のボールドウイン社の製造番号の増え方のすごさから、いかにボールドウインが爛熟期に入っていたかが判るであろう。そんな素晴らしい新鋭機?の導入によって、置き換えられたり、軽作業に回されたり、予備機になったりした明治の古典機たちは、現在日本鋼管鶴見製鉄所で余生を送っており、それは富士身延鉄道からのボールドウイン 9,10号、小湊鉄道からのダベンポート 11号、青梅鉄道からのクラウス 12号たちであり、この不思議な巡り合わせに気がついては驚いたのであった。

・参考■リンク
・【ちょこっと鶴見線など】 話題色々鶴見線
 http://www.geocities.jp/hokarida/02_tsurumi_line/ts04-00.html
鶴見線前史・川崎〜浜川崎間の貨物支線・鶴見臨港鉄道・鶴見線内の貨物専用線

“日本鋼管鶴見製鉄所を訪ねて”シリーズのリンク
次へ:226. 富士身延からのボールドウイン 9,10号姉妹・日本鋼管鶴見  
次へ:227. 小湊から来たダベンポート ん11号・日本鋼管鶴見製鉄所専用線
次へ:228.“はしれクラウス12号”・日本鋼管鶴見製鉄所  
次へ:229. 昭和ロマンのただよう鶴見線界隈(かいわい)・国道駅 
 −鶴見高架橋/国道駅と鶴見川RCアーチ橋梁−

撮影:昭和43年三月8日
ロードアップ:2011−09。***

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・「日本鋼管鶴見製鉄所を訪ねて」シリーズのリンク
226. 富士身延からのボールドウイン 9,10号姉妹・日本鋼管鶴見製鉄所
227. 小湊から来たダベンポート 11号・日本鋼管鶴見製鉄所専用線
228.“はしれクラウス12号”・日本鋼管鶴見製鉄所
229. 昭和ロマンのただよう鶴見線界隈(かいわい)・国道駅
 −鶴見高架橋/国道駅と鶴見川RCアーチ橋梁−