自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・日本鋼管鶴見製鉄所専用線を訪ねて
227.  小湊から来たダベンポート 11号 ・日本鋼管鶴見製鉄所

〈0001:ダペンポート 11号〉
小湊鐵道から来たダベンポート 11号・日本鋼管鶴見製鉄所専用


〈0002:11号の形式図〉
日本鋼管鶴見製鉄所 11号形式

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〈紀行文〉
 ずいぶんの昔、1968年(昭和43年)3月のある日のことである。訪ねた 日本鋼管鶴見製鉄所専用線の方々のご厚意で機関車庫の中に憩っていたダベンポート 11号を引き出して下さって、ホートレートを撮らしてもらった。何しろ、日本に残るダベンポートとしては貴重な一台とのことで、こちらでも大切にされておられるとのことだった。
この世界で広く知られている日本の蒸気機関車の泰斗でおられる臼井茂信さんの「機関車の系譜図 2」に掲載されているダベンポート Cタンク機 日本鋼管鶴見製鉄所 11号の写真は1946年(昭和21年)に鶴見線浅野駅付近で撮影されたようであり、その21年後に私が撮った写真とを比べて下さったのは、
「地方私鉄 1960年代の回想」
(http://umemado.blogspot.com/)
を管理されておられる風間さまからであった。『臼井茂信氏の初期の写真と田辺さまの写真では、かなり形が変わっているようですね。この時はキャブの側面は窓一つで後部が開放になっていて、このクラスとしては大変珍しい外観です。田辺さまの写真はキャブの改造後のようで、いくつかの箇所が臼井さんの原形に近い写真と一致します。それにしても、この11号の運転整備重量が 29.2t(臼井さんの「機関車の系譜図」)トあるのは、他の江若鉄道などのCタンク機の 21〜22tに較べていささか重いように感じられますね。』
 このダベンポート 11号の来歴は、いささか因縁めくが、鶴見臨海工業地帯の生みの親である浅野総一郎さんの金融をバックアップしていた安田財閥との関わりから始めるとしよう。ここ房総半島を内房の五井から養老川をさかのぼって尾根を越えて日蓮上人ゆかりの寺寺のある太平洋に面した小湊へ至る参詣の道と、内陸の開発を目指して、養老川流域の地主・富豪の人々により小湊鐵道が大正6年(1917年)に創立された。しかし、第1次世界大戦が進むにつれて資材が高騰したりして、資金が不足したことから工事は延び延びになってしまった。そこで発起人を出していた千葉市にある安田傘下の第九十八銀行では安田善次郎さんに助力を懇請していた。それに応じて現地調査した安田さんハ、「事業としてではなく、千葉県開発の一助として」と云う名目で資本を引取ることとし、み1924年(大正13年)には安田財閥の持株比率が60%を越え、安田善助さんが社長に就任したと云う。この裏には、もともと安田家は北陸に根強い浄土真宗の門徒であり、安田善次郎さんの菩提心からであったようで、日蓮上人ゆかりの誕生寺や清澄寺を参詣する善男善女への交通の便を奉仕することからであったと云うのであった。
この安田財閥の資金を基にして、同年直ぐに建設・開業に備えての蒸気機関車の3輛をアメリカへ発注した。本来ならヨーロッパから輸入するのだが、第一次世界大戦のために調達できなかったからアメリカからとなったとする向きが多いが、実は安田善治郎さんは北海道で硫黄輸送のための釧路鉄道を開業するために日本で初めてアメリカのボールドウィン社から1887年製の「進善」、「長安」と名付けた小型蒸気機関車たちを輸入したことで知られており、これは予めの“お定まり”のコースだったと私は推測しているのだが、いかがなものであろうか。これで、奇しくも安田善次郎さんはアメリカのボールドウイン社から日本への蒸気機関車の輸入の“最初”と“最後”の場面に関わっていたことになり、鉄道資本家の面目躍如(めんもくやくじょ)と云って良いだろう。
それはアメリカの東部にあるボールドウィン社への2輛、それと中西部のミシシッピー河畔にあるダベンポート社からの1輛であって、それぞれが1924年(大正13年)9月から11月までに1〜3号として入線した。これらの機関車はアメリカ製らしく、パッフアー(緩衝器)とねじ式の連結器ではなく、最初から自動連結器を装備していた。これは北海道以外の鉄道としては、自動連結器を国有鉄道の一斉交換に1年ほど先立って装備して建設工事とは云いながら実践に使ったのは特筆しなければなるまい。ただし、国有鉄道が制式採用したものではなく、突き出した下あごが特徴だったマルコ式と呼ばれるものであり、現在も小湊鐵道五井車庫に保存されているワム1に“MALCO”の文字が残る自動連結器を見ることができるとあった。
やがて、小湊鐵道は1925年(大正14年)3月に五井−里見間を開業し、ボールドウイン製の車軸配置 2-6-2 (1C1)型タンク機関車の1号と2号が客車を牽いて走り始めた。
ところで、この機関車の原型は何と 1894年(明治27年)に奈良鉄道が開業用にボールドウイン社から輸入した車軸配置 2-6-2 (1C1)型2気筒単式の飽和式タンク機関車(整備重量 36.76t)の5両(製造番号 13899 〜13903)であって、国有化後には3030型となったものであるのだった。この機関車は一地域が活動の場となる私鉄にとって好適なサイズだったようで、僅かな寸法の縮小があった程度で1914年(大正3年)から1924年(大正13年)までに6社、16両が導入されており、その最後に当たるのが小湊鐵道の2輛(製造番号 57776, 57777)なのである。原型が作られてから30年後に造られたとと云うボールドウイン社の成熟期の製品にふさわしく極めて成績が良く役目を終えた後も、千葉県の文化財として保存されルト云う幸運に恵まれているのである。
この開業の翌年の1926年(大正15年)の小湊鐵道の在籍車両の記録が残っており、それには、蒸気機関車2輛の常時稼働の機関車と、予備機関車機1輛が、客車6両、貨車19両であった。ここに予備機とあるのがダベンポート製の3号機であろう。
この3号は元々建設工事用の貨車などの牽引や構内の入れ替え用を目的にダベンポート社から導入された機関車であるとも云われており、1920年製の車軸配置 0-6-0 (C)形タンク機関車であって、整備重量が 27.2tであった。(この機関車整備重量に付いては、36tとする文献もあるようだが、ここでは寺島京一さまの資料に基づいている。)
この機関車は建設工事用として使われ、工事完了後は売却の予定であったが、開業直前に予備機として活用する方針となったようで、そのためには、自動連結器の取り付け方法などの設計変更が必要だったようで新政が出されたが、交渉が難航したようであった。予備機となった理由には、聞くところに夜と自動連結器はクライマックス型であったことや、その他にも、軸重が重すぎたと云う説や、先輪のないC型だったことも災いしたのであろうか。そして1937年(昭和12年)に廃車となり、同時に廃車となった5号機(イギリスのKitson社製のC形タンク、国鉄形式1800型の1811号)と共に鶴見臨港鉄道に譲渡されて行った。この頃の小湊鐵道は安田系の企業として運営されていたことから、安田財閥と縁の深い浅野財閥の支配している鶴見臨港鉄道への譲渡が実現したのではと推察している。
実は、1943年に行われた鶴見臨港鉄道の国有化の際の蒸気機関車の在籍リストには、ダベンポートは既に記載されていなかったから、それ以前に同じ浅野系の日本鋼管鶴見造船所(日本鋼管鶴見製鉄所の前身)への譲渡が行われたのではなかろうか。それは日本鋼管側からみると、日本鋼管の10が身延鉄道から1936年に来ており、12号が青梅電気軌道から浅野を経由してやはり1944年(昭和19年)の国有化前に譲渡されていると思われるからである。
このアメリカのダベンポート製の機関車が日本へ輸入されたのは1915年から1921年の僅か6年の間に十数両が輸入されたにすぎず、第一次世界大戦のためにドイツ製品が入手できなくなった時に限られるから、なじみが薄いのは仕方がないがろう。だが戦後に日本へ進駐してきたアメリカ陸軍(US ARMY)が鉄道入れ替え用として持ち込んで来たヂーゼル機関車の中に、1950年代にダベンポート社で製造された機関車が見られたことをご存じだろうか。
最も著名なのは、1866年にマシアス・N・フォーニによって考案された二軸ボギー式の従台車を持つ「フォーニ」タイプ蒸気機関車であって、台車がボギー式であるため全長の割に急曲線に強く、アメリカでは、軽便鉄道や都市鉄道で愛用されていた形式を日本へもたらしたことである。それは信濃鉄道(松本〜大町)が1915年にダベンポート社製の車軸配置 0-6-4(C2)形タンク機関車(整備重量 22t)2輛を4,5号として導入しており、同形が筑前参宮鉄道に1916年(大正5年)から3輛が1〜3号として入線しており、1921年(大正10年)に富山県営鉄道に小形の車軸配置0-4-4(B2)型タンク機関車が1両輸入されている。いずれも動輪上の重量が不足気味であったようで短命に終わったようだ。それに江若鉄道の1・2号となった車軸配置C型飽和式タンク機関車(後の磐城セメント小倉工場2号)や、ここに掲げた小湊鐵道3号などは1960年代後半まで活躍する長命を保っていることからダベンポートの実用性の高さを物語っているものと云えるだろう。
このDavenport Locomotive Worksと云う会社はアイオア州とイリノイ州境、ミシシッピー川のほとりにあるダベンポートと言う町に1900年に創設された小型蒸気機関車会社で1902年から1956年まで機関車を製造した。
初期は小形蒸気機関車を製造していたが、1924年にガソリン機関車を、1927年に30トンの電気式ディーゼル機関車を製造してからあらゆるサイズの産業用ディーゼル機関車の製造も行うようになった。この会社の製品は、部品の規格化が進んでおり、どの製品をとっても類似性が高かった。
1950年にはH.K.ポーターから機関車事業を譲り受け、ポーターのデザインした機関車の製造を行ったが、1955年には重機械、大型構造物の製造に転換してしまった。

参考文献:
・近藤敏 :「小湊鉄道研究小史」
2003年、市原市文化財センター研究紀要 W所載
・寺島京一著「日本鋼管鶴見製鉄所に在籍した蒸気機関車」
Rail No.3、1981−4 プレスアイゼンバーン発行 


“日本鋼管鶴見製鉄所を訪ねて”シリーズのリンク
188. 明治の古典蒸気機関車たち/専用線へのプロローグ
226. 富士身延からのボールドウイン 9,10号姉妹・日本鋼管鶴見製鉄所
228.“はしれクラウス12号”・日本鋼管鶴見製鉄所
229. 昭和ロマンのただよう鶴見線界隈(かいわい)・国道駅
 −鶴見高架橋/国道駅と鶴見川RCアーチ橋梁−

撮影:1968年3月8日
ロードアップ:2011−09.

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・「日本鋼管鶴見製鉄所を訪ねて」シリーズのリンク
188. 明治の古典蒸気機関車たち/専用線へのプロローグ
226. 富士身延からのボールドウイン 9,10号姉妹・日本鋼管鶴見製鉄所
228.“はしれクラウス12号”・日本鋼管鶴見製鉄所
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