自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・日本鋼管鶴見製鉄所を訪ねて
228.  “はしれクラウス12号” ・日本鋼管鶴見製鉄所

〈0001:クラウス12号〉
日本鋼管鶴見製鉄所 12号(ドイツ、クラウス社製

〈0002:クラウス:絵本“はしれクラウス”のモデル 17号〉
元・九州鉄道 a@17 クラウスBタンク機関車の保存運転風景、典拠は下段にあります

典拠:
クラウス 17号の公開運転(麒麟麦酒専用線、1969年)
「ウエスペリア/国鉄10型/保存」より借用

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〈紀行文〉
 明治の古典SLたちのなかでドイツのミュンヘンにあったクラウス社で製造された蒸気機関車は、その煙室正面の無骨でユーモラスなクラウススマイルの愛嬌が(あいきょう)がとても人気があったのだが、その活躍する姿が観られるのは関東では京浜臨海工業地帯にある日日本鋼管鶴見製作所の専用線の12号機が唯一であった。それは元国鉄鶴見線の浅野駅か弁天橋駅のあたりで運が良ければ構内から貨車を牽いて現れ出てくる姿にお目に掛かれることができたと云うのだった。
私も一度試みてはみたのだったが成功しなかった。それにこりて、「つて」を頼って製鉄所の見学にこと寄せて専用鉄道線を訪ねることができたのだった。その代わり力走している写真ではなくて、ポートレートになってしまったのは仕方のないことであった。
そこで、先達の方々の走向作品を下にリンクさせて頂いた。
・ノーブルジョーカー(鶴見界隈・日本鋼管の機関車)  
http://www.noble-joker.com/nj_home/@1photo2/turumi_3/index.htm
・地方私鉄 1960年代の回想: 川崎・鶴見界隈の専用線蒸機4 
http://umemado.blogspot.com/2011/08/4.html

この12号は明治も末に近い1907年(明治40年)にドイツのクラウス社で製造された車軸配置 2-4-0 (1B)型タンク機関車と云う“変わりだね”であって、関東平野の西端にある青梅鉄道が軌間の改築に備えて4輛を輸入したカマの一両であった。
何と云っても最大の特徴は、煙室部からの蒸気管覆いが下部に向かって末広がりの形で直線的に広がっており、シリンダカバーは弁室部とシリンダ部を分けた枕の上に座布団(ざぶとん)を重ねたような形状で、弁室の上部が内側に倒れこんだ独特のスタイルとなっており、蒸気管の長さの短縮を配慮しているのであると云う理論のようであった。それに、運転室の出入り口と側窓の形は独特な曲線を描いたもので、機関士の見通しや動作に適した形となっていた。何となく、これがドイツ風の機関車なのだとの風情がただよって来たように思われた。サイドから眺めると、煙突の下の位置に先輪があり、蒸気ドームの下にシリンダーが来ていて、ボイラー缶が先へ突き出しているような奇妙な姿をしていたし、体に比べて大きめの動輪がやたらに眼についた。
ここで、日本の蒸気機関車の泰斗であられる臼井茂信さんの見解を「機関車の系譜図 2」からうかがっねみると、『先輪の位置が煙突中心線より後位にあるのはまだよいとしても、シリンダがさらに後方にずれ、缶だけが先走った姿をしていた。イギリス形やアメリカ形を見慣れた目からは奇異に感ずるが、ドイツでは時折このように間延びした設計をためらわずに実施し量産もしていた。……短距離の軽列車用に開発され、足廻りに対し煙管の長い缶を乗せる手段でもあった。』とあったのには、「なるほど」とうなずけたのだった。
ここで参考に、絵本「走れクラウス」のモデルとなった典型的なクラウスである元・九州鉄道 17号の写真を転載しておいた。
 ここで、クラウス12号の来歴を述べる前に、「なぜクラウスが正真正銘の「陸蒸気(おかぎょうき)」の一員に入ったのかについて自問自答を試みてみた。
これを解くには明治政府が鉄道建設計画に取りかかろうとした時に起こった「ボルトメン事件」から始まる。それは1869年(明治2年)2月になって、江戸幕府がアメリカ政府に与えた鉄道建設の免許状の存在が初めて明るみに出て来たからであった。そして、アメリカ公使館のボルトメル書記官は江戸幕府が出した免許状
をたてに江戸〜横浜間の鉄道建設を申告して来たからである。
大隈重信参議は「鉄道をアメリカに経営させてしまえば、日本がアメリカの植民地同様になってしまう」と危ぶんで、そんな免許は知らないと拒絶した。翌日、アメリカ公使デロングが抗議書を持って明治政府に乗り込んで来たのだったが、その免許状には将軍・徳川慶喜の署名では無く、時の老中・小笠原壱岐守が署名していたことと、日付けが慶応3年(1867年)12月23日である誤りを指摘して無効を宣言したのだった。この第15代将軍・徳川慶喜は慶応3年10月14日に「大政奉還」しており、この免許状は資格の無い老中が大政奉還の2ヶ月後に出した免許状だったからである。
やがて、1869年(明治2年)11月10日、明治政府は朝議を開き、新橋〜横浜間に官設鉄道の建設を正式に決定し、その建設資金の調達と技術指導援助をイギリスに要請したのは、アメリカの強圧に対抗したからだとされている。そして、先ず1871年(明治3年)3月、イギリス人の技師 エドモンド・モレルさんらによって鉄道工事が着工し、1872年(明治5年)5月14日、新橋〜横浜間29kmに鉄道が開業した。
一方、北海道では1869年(明治2年)に明治政府が北海道の開拓のために「開拓使」と呼ばれた官庁を設置して、その開拓全般の指導をアメリカに委託すると云う事情にあった。それで、北海道の鉄道建設は内地での官設鉄道とは別系統の開拓使が担当し、アメリカの技術を使って運営しようとしていた。その指導にはアメリカ人技師のJ・U・クロフォードで、当初からアメリカの西部開拓鉄道流の速成軌道で工事が進められ、アメリカ製のダイアモンド煙突を備えた薪焚き蒸気機関車が導入され、1880年(明治13年)には手宮〜札幌間が開通していたのであった。
 元来、鉄道は明治政府の統一政権の象徴として重要視されていたから、政治的効果を優先して建設が進められていた。それ故に官設鉄道による幹線鉄道網の確立を目指していたのだったが、西南戦争後の国家財政事情により各地ので求められている鉄道建設着工を進める事が難しくなり、東海道線と北海道の一部以外は断念せざるを得なくなってしまった。そこで残る幹線鉄道は、地方の富豪、公家、大名華族などの財産家の民間資金を活用することとし、出資を募って私設鉄道会社を設立させ、鉄道建設の免許申請を行わせた。それに明治政府が免許を与えると云う方針を立てた。その認可条項には「政府が買収する場合があること」、「免許期限を16年(大正5年)まで」が入っていて、予め国有化の道筋を明記していのであった。そのような下で、1881年(明治14年)に日本最初の民営鉄道会社として日本鉄道(株)が設立されて、信越方面と東北方面への鉄道建設が免許された。その後も政府の財政が立ち直らず、やむなく私設鉄道会社の設立を認め、建設予定路線の建設・営業を認可する方針が拡大した。それにより幹線鉄道は官設の東海道線に加えて、北から北海道炭礦鉄道・北海道鉄道・日本鉄道・甲武鉄道・関西鉄道・山陽鉄道・伊予鉄道・九州鉄道などの私設鉄道と共に担うことになって行った。
  ここで登場するのが私鉄の九州鉄道である。お定まりの地方の資本を集めて設立されたこともあって、資本基盤が弱かったこともあって、官設鉄道のようにイギリス流の列車や路線の事情に最適な機関車や客車をを使い分ける豪華な車両運用方式が採用できなかった。そこで、ドイツから技術顧問としてドイツ人でプロシア国有鉄道機械監督の職にあった ヘルマン・ ルムシュッテルさんを迎えて、勾配線・平坦線、旅客列車・貨物列車を問わず基本的に同じ機関車を大量投入して使用する方式を採用することとした。そして
機関車を初めとして、レールなど全ての資材をドイツから輸入して工事を進めた。そして1889年(明治22年)に博多〜久留米間を開業するに際して、ドニツのクラウス社製の車軸配置 0-4-0 (B)形のウェルタンクとサイドタンクを併せ持つ単式飽和式2気筒タンク機関車(整備重量23t)を7両などを輸入した。このクラウス社製のBタンク機関車が選ばれたのには、1両当たりの単価や保守修繕費用が低く抑えられるからであった。ほの機関車は先従輪の無いBタンク機ながら、走行バランスが良く、『牽いて強く、走って早い』のの定評であって、Bタンク機関車としては意外な大きな牽引力を持っていたようである。
この最初の機関車は形式4とされ20輛まで増備され、国有化後は10型となっている。
続いて1890年(明治23年)に車軸配置 0-6-0(C)形の単式2気筒、飽和式サイド・ウェルタンク機関車(整備重量:34.6t)を同様にクラウス社から輸入して配置した。この機関車も実績は好調で、形式15として、次第に数を増し改造機も含めて27輛となり、国有後は1440/1400型となっている。
 この九州鉄道の試みにより、クラウス社製蒸気機関車はアメリカ製の粗野な無鉄砲さや、イギリス製の過度な気取りを排した、いかにもドイツ的な合理性と堅実さを持ったデザインで、さらに堅牢かつ高性能であった上に、独創的なウエルタンク方式(日本ではボトムタンク式)と呼ばれる特徴のもたらす利点がが他とは一線を画していることが実証されたのであった。
この日本の明治中期におけるドイツのクラウス社製の蒸気機関車の導入は、九州鉄道に前後して、伊予鉄道・住友別子銅山鉄道・両毛鉄道・佐野鉄道・川越鉄道・甲武鉄道、阪鶴鉄道などと私鉄につづき、日本陸軍鉄道連隊の野戦軽便鉄道用A/B形ウェルタンク蒸気機関車へと発展して行き、我が国の小型蒸気機関車の一角をリードし、その技術は後発の国産メーカーにも引き継がれている。
 さて、ここでクラウス12号のふる里:青梅鉄道のルーツである東京への交通の変遷から話を始めたい。
その昔、江戸城築城の頃、青梅在の成木村で産する石灰石を江戸へ運ぶために青梅街道が開かれたのだと云う。その後明治になって、砂川、福生(ふっさ)、羽村の名主たちは玉川上水による江戸への舟運を政府の大蔵省土木寮に願い出て、明治3年に羽村から内藤新宿までの通船許可が下り、船による荷物の搬送が始まった。次の年には多摩川の通船により青梅から内藤新宿までの直通便が開かれ、最盛期には月に2800トンの貨物が往来すると云う大盛況となっていた。しかし、玉川上水の所轄が東京府に戻り、「上水が不潔ニなる」との理由で明治5年に通船が禁止となってしまった。再三の通船再開の請願も拒否され続けていた。その頃には、東京深川での官営によるセメント・ガラスなどの製造が始まり、その原材料である青梅産の石灰石は遠く馬車で江戸へ運ばざるを得なかったようだ。そこで、船運業者たちは明治16年(1883年)頃、新宿〜羽村間の玉川上水の土手の上を利用した馬車鉄道の敷設を東京府に願い出たが許可が下りてこなかった。そのうちに、青梅地方在住の有志は、資本金35万円をもって、東京の内藤新宿から八王子を経由して甲府、および青梅に延長する甲武馬車鉄道を船便に代わる輸送手段として計画し、新宿〜羽村(第1期)、砂川〜八王子(第2期)の敷設願書を明治18年(1885年)5月に提出した。
一方、これに驚いた羽村などの船運業者たちは再び武甲鉄道と云う会社を設立して、新宿〜砂川から羽村〜青梅(第1期)、砂川〜八王子(第2期)とするルートの願書を提出して争った。これに対する当局の指導に従って、競合する両社が合併して甲武馬車鉄道となった。その後、建設ルート計画が東京−八王子間に傾きたのは、資本調達に参画した予定路線沿いに居住する有力者の意見を入れたことに加え、青梅の多摩川沿いでの石灰石採掘が多摩流域の東京府上水源地保護のため許可が難しいとの見通しが出たこと、それに旅客・貨物とも輸送量の多い八王子の方を有利とみて、青梅への延長は後まわしとなってしまったのである。やがて明治19年に三府県知事による新宿−八王子間の馬車鉄道の特許を得た。そのルートは新宿から西南西に進み永福町近くの大宮八幡で西北に折れ西荻窪を経由保谷付近から小平、小川、立川市砂川町、昭島市福島町で多摩川を渡り、八王子市石川町、八王子駅と経由するものであった。
所が、この時既に社会状勢の変化により、馬車鉄道よりも蒸気鉄道の方が有利であるとして、東京の資本家である安田善次郎や雨宮敬二次郎などの出資を得て、資本金を60万円に増加し、改めて馬力を蒸気に変更する動力変更申請をして、甲武鉄道となり、新宿〜立川〜八王子のルートが決まった。この蒸気鉄道の免許に際して、官設鉄道に関係の深い日本鉄道の関与が加わり、実際に社長にはは日本鉄道の社長が兼任しており、また実権は後年に小型蒸気機関車製造会社を創立することになる雨宮敬次郎さんが握って運営していたようであった。そして、三多摩郡が東京府に編入する4年前の明治22年(1889年)4月に新宿〜立川間がスピード開通を果たした。頭書の甲州街道や青梅街道沿いのルートは住民たちの強い反対で避けられる一方、立川村や砂川村などの人々たちはらの誘致を受けたことから多摩川の渡し場であった立川を通ることになった。それにより多摩川で採取された砂利や青梅で産する石灰石などの貨物積み出しの中心駅となった。
この開業時に使われた蒸気機関車は、官設鉄道で従来から使用してきた車軸配置 2-4-0 (1B)形タンク機関車に替わる新鋭機関車として1886年(明治19年)にイギリスのナスミス・ウィルソン社で製造させた車軸配置 2-4-2 (1B1)型タンク機関車(整備重量: 31.65t)の中型機であって、後の国鉄400型であった。この新造機2輛が官設鉄道経由で甲武鉄道の開業に備えて譲り渡されて来て、1、2号となって大いに活躍しており、続いて直ぐに自前で発注した同型の2輛も戦列に加わった。
やがて甲武鉄道では、官設鉄道や日本鉄道が運営するイギリス式とは一線を画した九州鉄道が経営に実績を挙げていたドイツ式のクラウス社製の機関車に関心を抱くようになったようであった。先ず当時、建設中であった甲武鉄道の傍系会社で支線的な役割である川越鉄道の開業に備えた機関車として九州鉄道の形式4と同型のBタンク機を2両を1894年ニ輸入して1,2号として入線させた。その使用実績は好評であった。次の年には甲武鉄道自身が同じ型機を2輛輸入して6,7号として、飯田町駅〜中野駅間で使用しており、鮮やかな緑色に塗られていて好成績を示していた。さらに2輛が増備されている。
やがて、官設鉄道では東海道線京都〜大津間の開業にともない、同区間に介在する急勾配に対応するため、当時の神戸汽車監察方B・F・ライトが車軸配置 0−6−0(C)型タンク機関車(整備重量:39.81t)を1881年(明治14年)にイギリスのキットソン社から8両を輸入し好成績を挙げていた。これは後の国鉄1800
型である。
その様子を見ていた甲武鉄道では、この機関車をき八王子以遠の急勾配区間用に採用したいと考えていて、
こともあろうに、オリジナルのイギリスのキットソン社ではなくて、ドイツのクラウス社に同じ仕様を提示して製造を依頼したのであった。そして、1904年にK4形整備重量:37.41t)として13〜14号(後の国鉄1550型)を、次いで1906年にK5形(整備重量:39.73t)の15〜17号を増備している。これは後の国鉄2060型である。
このように甲武鉄道では社長の雨宮敬次郎さんがドイツクラウス社の製造する小型蒸気機関車の性能に、いかに信頼を置いていたかを物語っていた証拠であろうか。
 さて、話を青梅方向への鉄道に戻すことにしよう。やがて鉄道のルートから外れた青梅を中心とする北・西多摩郡に利害を持つ人々は青梅への甲武鉄道支線の建設を請願したが、甲武鉄道では東京市街線の建設が急務であったので、断らざるを得なかったが、別の鉄道の敷設出願を示唆すると共に支援の約束をしたのだった。そこで青梅への蒸気鉄道敷設を志す人々は、明治24年(1891年)9月に軌間762mmの蒸気鉄道敷設の免許を獲得した。そして資本を得るため、石灰石の獲得に意を持っていたセメント製造の浅野財閥の浅野総一郎さんに発起人に加わってもらった。次いで、安田善次郎さんにも株主として資金援助をしてもらったようで、これは青梅鉄道の発起人に、彼と親交の厚かった浅野総一郎さんの名があったことによるものであろうか。
そして立川に鉄道が開通してわずか5年後に、建設工事は甲武鉄道の手によって明治27年1月に着手、同年11月に立川−青梅間を軌間 762mmの18.5kmが完成し、ただちに同区間の営業を開始している。その1年後には、青梅−日向和田間2.24kmの貨物船を延長し、石灰石の採掘も自ら行なった。石灰石はセメント、製鉄、ガラスなどの生産の原材料として需要が増えていたからであった。
その後、石灰石輸送に加え、多摩川を流送してきた木材が鉄道貨物へ転化したことによる「立川駅での荷物の積替え」の不便を解消するため 明治40年12月に軌間を1,067mmに改める認可を得た。そして 1907年には新しい蒸気機関車四両をドイツのクラウス社から輸入して準備を整えた。この時に選ばれた機関車がドイツのクラウス車製の車軸配置 2-4-0 (1)型Bウエルタンク機関車であったと云う背景を考察してみた。
その昔、青梅鉄道の親会社的な立場にあった甲武鉄道は、1894年(明治27年)の開業時から使っていた機関車は官設鉄道が非力となってしまった1Bタンク機に替わって登場させたばかりの1B1タンク機(後の国鉄400型)が選ばれて譲り渡されて来ていて大活躍していた。一方続いて増備して評判通りの実績を挙げていたのが九州鉄道の4型と同型のじドイツのクラウス社製のBタンク機関車であったのだった。それに加えて、甲府へ向かう勾配用に備える機関車の製造に当面して、当時の官設鉄道が東海道線の京都〜大津間の急勾配に実力を発揮していたイギリスのキットソン社製のcタンク機関車(1800型)に着目して、全く同型の機関車6両を今まで信頼を培って来ていたクラウス社に製造させると云う事態が起こっていた。それほどドイツのクラウス社製の蒸気機関車の性能と耐久性を裏打ちする物作りの確実さ、せ設計の合理性などの利点に甲武鉄道の技術系のトップは心酔していたにちがいなかろう。このような時に支援をしていた青梅鉄道の改軌に備えての新造蒸気機関車の準備が必要となったのである。そこで甲武鉄道では、先ずクラウス社に製造を委託することにし、機関車の規模は実績を誇っていたBタンク機をベースとして、機関を一ランクアップすることにして、当時き曲線通過を容易にすることの出来る先輪の採用となったので無いかと推定しているのだがいかがなものであろうか。
特に、先輪の採用については、甲武鉄道が開業時から使っている1B1タンク機関車の開発過程で官設鉄道で研究がなされていた。その結果、当時イギリスの先従輪の車軸には曲線通過を容易にする横動を許容する公式が発明されて実用化されていたことから、この1B1タンク機にも適用させていた。この先従輪方式はロンドン北西鉄道の機械主任技師であったF・W・ウェッブ が1882年に考案したラジアル軸箱が採用されており、この軸箱は、左右の車輪を独立させて両輪の間を復元用のコイルバネでつなぎ、軸箱ガイドの内部を摺動させることによって車輪に横動を許し、曲線通過を容易にさせるもので、本形式では25mmの横動が与えられていたというのであった。元々、官設鉄道では先輪のないBタイプが珍しかったのは、ヒッチングが激しいと云うのが定説であったからである。それに対して、九州鉄道などが開業時から使用して『牽いて強く、走って早い』と定評を得ていたクラウス社製の先輪のないBやC型タンク機関車がクラウス社独自のウエルタンク方式を採用して重心を下げて安定走行を実現したのであろうか。このウエルタンク方式は日本ではボトルタンク式と呼ばれているが、これは薄い鋼板を組合わせて箱状に構成される板台枠方式の台枠を採用する蒸気機関車において、台枠に横梁を入れて十分に補強し、これに底板などの仕切り板を追加することで、通常は空きスペースとなる主台枠内の空間を水タンクとして有効活用する方式である。台枠強度の向上と低重心化が必然的に実現されるメリットがある。この方式はクラウス社の創始者であるクラウス(1826-1906)が1867年に実用化して、その有用性は高く評価され、普及しつつあると云う。
こうして、Cタンクならぬ1Bタンクが出現することになった物と思われる。それは今まで見慣れたクラウスの面構えとはひと味ちがう異例のクラウスとなって、文頭に書いた臼井茂信さんの名言を書かせたことになったものと思っている。
その改軌工事は明治41年(1908年)2月18日に竣功した。これによって山元で石灰石を積んだ貨車が立川駅から甲武鉄道をへて東京へ、後年には東海道貨物線の浜川崎駅から浅野セメント専用線に引きつがれて直通輸送が行われるようになるのである。その頃から本格的に浅野セメントが石灰石採掘に参入し、1920年に雷電山の石灰石採掘を目的に二俣尾への延長が行われ、石灰石の採掘権を浅野セメントに譲り渡している。その後の蒸気機関車の増備は、1917年にボールドウイン社から車軸配置 0-6-2 (C1)型2気筒単式の飽和式タンク機関車(整備重量 36.76t)を2両(製造番号46767, 46820)の5,6号を導入して能力増強をなしとげている。この機関車の原型は何と30年も前の1894年(明治27年)に奈良鉄道が5輛輸入した機関車が源流で、大正時代になってから6私鉄で16輛もリバイバルで導入された“わざもの”であったようだ。
やがて、1923年には1200V直流電化が行われ旅客は電車、貨物は蒸気の併用となった。1929年には社名が青梅電気鉄道に改称した。やがて、貨物も電化されると不要となったクラウス社製SLは廃車となったそして青梅電気鉄道が国有化された時に浅野合資会社の所有となり戦後の1946年(昭和21年)2月12日付けで日本鋼管鶴見造船所(日本鋼管鶴見製鉄所の前身)へ譲り渡されたと云うのだった。
ところで、この機関車には“蒲田”と云う銘板がついているし、日本鋼管鶴見製鉄所の方々も製造所は「蒲田機械」と云っておられ、ドイツのクラウス社製だとは云っておられなかった。そして、私のフイルム アルバムのメモには“蒲田”の文字がのこされていた。参考にさせてもらった寺島京一さまの資料によると、「日本鋼管へ納入する前に蒲田機械で大修繕を施工していることにもとずいているのでは」とされておられた。
 最後に、先に述べた甲武鉄道の創立から運営にも当たった雨宮敬次郎(あめのみや けいじろう)さんの“クラウス製蒸気機関車”から得た技術の系譜はその後永く伝えられてきているように思える。この雨宮敬次郎(、弘化3年:1846年-明治44年:1911年)さんは山梨県塩山市在の生まれ、上京して1879年(明治12年)に東京深川で興した蒸気力による製粉工場が成功し、1886年(明治19年)に東京蔵前の官営製粉所の払い下げを受け、翌年には主に軍用小麦粉製造を目的とする日本製粉会社へと発展させた。そして、結束して商売にあたると云われる甲州商人、いわゆる「甲州財閥」と呼ばれる集団の一人となる。やがて先進国を視察して鉄道事業の重要性を感得して帰国、1888年(明治21年)に中央本線の前身となる甲武鉄道への投機で大きな利益を出し、同社の社長にもなり、有力な鉄道資本家となった。1907年には雨宮個人経営の工場「雨宮鉄工所」を創立して鉄道車両の製造を始める。やがて1906年(明治39年)に公布された鉄道国有法によって、これまで雨宮が投資してきた鉄道事業は地方交通が対象になると見て、1908年(明治41年)に大日本軌道を設立して各地に軽便鉄道を建設し経営した。その路線への車両を自家生産して安価に供給することを目的として雨宮鉄工所を同社の鉄工部へと発展して、主に小型蒸気機関車の製造を行っていた。これは雨宮さんの亡き後、1919年(大正8年)に、これを母体に雨宮製作所が発足した。1910年代にコッペルやクラウスなどの欧米メーカー製品に学んだ「極めて堅実、かつ実用的な設計」のウェルタンク機関車に発展し、各地の小鉄道に供給された。更にこれらの設計は雨宮製作所閉鎖後も1920年代以降、立山重工業や協三工業など各地に設立された地方の車両メーカーの良き手本となって伝えられている。



◆現存するクラウスタンク機の面影、100年を超えた今でも見ることができる。
(機関車番号と旧所属など、保存場所、2011年調査)
1)九州鉄道 15号(国鉄1440号):北海道沼田町、文化財、
沼田市ふるさと資料館内の専用庫で保存。
2)九州鉄道 17号(国鉄1442号):絵本「はしれクラウス」のモデルである。
、岩手県遠野市に所在の「万世の里」に保存中。
3)川越鉄道 2号(国鉄10型と同型):山口県防府市・防府駅近くの鉄道記念広場。
4)九州鉄道 26号(国鉄 1440型):宇佐市宇佐神宮の境内で保。
5)伊予鉄道1号:「坊ちゃん列車」、松山市梅津寺パークに保存。
6)別子銅山鉄道 1号:住友別子銅山(愛媛県新居浜市立川町 マイントピア別子)
7)国鉄 1412号(九州鉄道44号:形式15):栃木県壬生町 トミーテック本社事業所内。

参考文献:
寺島京一著「日本鋼管鶴見製鉄所に在籍した蒸気機関車」
Rail No.3、1981−4.プレスアイゼンバーン発行.

“日本鋼管鶴見製鉄所を訪ねて”シリーズのリンク
前へ: 188. 明治の古典蒸気機関車たち/専用線へのプロローグ
226. 富士身延からのボールドウイン 9,10号姉妹・日本鋼管鶴見製鉄所
次へ: 227. 小湊から来たダベンポート ん11号・日本鋼管鶴見製鉄所専用線
次へ: 229. 昭和ロマンのただよう鶴見線界隈(かいわい)・国道駅
 −鶴見高架橋/国道駅と鶴見川RCアーチ橋梁−

撮影:昭和43年3月8日
アップロード:2011−09。

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・「日本鋼管鶴見製鉄所を訪ねて」シリーズのリンク
188. 明治の古典蒸気機関車たち/専用線へのプロローグ
226. 富士身延からのボールドウイン 9,10号姉妹・日本鋼管鶴見製鉄所
227. 小湊から来たダベンポート 11号・日本鋼管鶴見製鉄所専用線
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 −鶴見高架橋/国道駅と鶴見川RCアーチ橋梁−