自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・日本鋼管鶴見製鉄所を訪ねて
226.  富士身延からのボールドウイン9,10号姉妹機

0003: 10号のすましたポートレート  1
専用線機関車庫前にて、10号・日本鋼管鶴見製

〈0001:ポートレート2〉
ボールドウイン姉妹機/10号・日本鋼管鶴見製鉄所専

〈0004:車庫からのお出ましの10号〉
日本鋼管鶴見製鉄所 10号のお出まし

0002: 休社中の9号の製造者銘板(ビルダーズプレート)〉
ボールドウイン姉妹機/9号の製造者銘板の製造番号・日本鋼管鶴見製

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〈紀行文〉
 ここでは、待望の日本鋼管鶴見製鉄所の専用線の鉄道事務所を直接にお訪ねした時の記録である。二階建ての機関車庫の前の広場の中央には主役を務めているかの如くボールドウイン 10号がポーズを 取って いた。周りをひとあたりして撮ってから 左手の奥にある側線 あった留置線に案内された。そこで第1に紹介されたのが休車中なのか、既に廃車になってしまっ たのかは 聞き漏らしたが赤く錆び付いていた9号がたたずんでいた。鉄の塊である蒸気機関車は使われずに人の手が 触らなく なった途端に錆が 出始めて、 ボロボロになってしまったように 見える ようになる。そのボイラー胴には特徴のあるボールドウイン社の円形のビルダーズプレート(製造者銘板)を見つけたので 早速近寄って撮っておいた。離れて見ると 先ほど撮った ばかりの 10号に良く似てい たのに 気になった ので、案内の方に伺うと 、この錆びた9号と先ほど 現役の10号とはボールドウイン 製の姉妹機であること を教えてもらい、 納得したのだった。
これらの姉妹機の素性は 東海道本線の富士 駅を起点にして 富士川に沿って日蓮宗身延山久遠寺のある身延町の対岸に 設けられた身延駅へ通じるための 富士身延鉄道が1913年(大正2年)7月に富士〜大宮町(現在の富士宮)間の開業に際して2輛の客車を牽いて走ったアメリカ製の2号と3号の蒸気機関車であった。これはボールドウイン社が1912年(明治45年)に製造した 同社の 種別呼称   「6-18D」と云う製造番号が37944、37945の 軸配置   0-6-0 (C)型の2気筒単式飽和式のタンク機関車で あって、 整備重量23.05tで、   8,065mmの小型機関車であった。その後 路線が次第に延長されて行くに従って、より強力で速度の出る機関車が求められ、同じボールドウイン社の種別呼称 「10−24 1/4D」と云う車軸配置 2-6-2 (1C1)型の2気筒単式飽和式タンク機関車で整備重量が36.6tと一段と大型機関車が選ばれた。種別呼称に 示されたシリンダー 直径が18インチから24インチと二回り 大きくなっているので その協力振りが推察され よう。
そして、1914年(大正3年)製の1輛(製造番号 41474)が4型の4号として増備された。(こ のカマは 後に10型10号と改番される) 続いて1916年(大正6年)に2両(製造番号45244, 45245)が10型の12,13号として追加 配備 され、さらに1917年に2両(製造番号46765, 46766)が14,11号として整えられた。さらに身延 まで開通した1920年(大正9年)には2両(製造番号 53830,53831)が15, 16号として 増備 され、合計10輛のボールドウイン 製の蒸気機関車が揃った一大 王国となった。これだけ信頼を得 ていたのは 単に価格が安くて納期が速いだけで なく 実績も好 成績であったに違いあるまい。
そもそも、この 増備された 機関車の原型は 、何と20年も昔の 1894年(明治27年)に奈良鉄道が開業に備えて アメリカのボールドウイン社から5 輛(製造番号13899 13903)を輸入して備えた機関車であった。 この機関車は後に奈良鉄道が 関西鉄道 へ合併し、さらに国有化されると 国鉄3030型となっ た。 この機関車は地方私鉄にとって好適なサイズだったようで、20年も経 た大正の初めになって、 国鉄3030型の第3動輪と従輪との軸 距を2インチ (50.8mm)を短縮し、動輪と従輪の直径をそれぞれ3フィート8インチ (1118mm) 、2フィート (660mm) とやや小さくした種別呼称の同じ「10-24 1/4D」が1914年(大正3年)から何と1924年(大正13年)にわたって私鉄6社 から合計 16輛も導入されたと云う 優れ者(すぐれもの) なのであった。
このような優れた10型 が七輛も増備された 上に、1927年(昭和2年) には の富士〜身延間の電化が完成すると、出力の小さい1型の1〜3号は余剰となり、廃車され処分が始まった。そして2号と3号は1936年に相次いで鶴見製鉄造船(後の日本鋼管鶴見製鉄所)に譲渡されて、同社の9号、10号となった もの と推察 している。 その理由は 私が昭和43年3月に 日本鋼管鶴見製鉄所専用線を 訪問した際に、車庫の前で撮った10号の製造者銘板の製造番号が富士身延鉄道2号の「37944」であったことに基づいている からである
ところが、web上での通説 としては、 前略)……3号は1936年7月21日付け、2号が同年11月28日付けでブローカーを経由して鶴見製鉄造船(日本鋼管鶴見製鉄所の前身)へ売却され 鶴見製鉄造船では受け入れ順に、3号が9号、2号が10号と改番された。…… (後略) 』とある。この情報の典拠 となった情報は、 おそらく 私が日本鋼管 鶴見製鉄所を 訪ねた昭和43年以前に収集された資料に基づくものであ ろうと 推察 している
私の訪問の5年後の1973年(昭和48年)に は、 9号は愛知県犬山市の博物館明治村に譲渡され、その翌年の昭和49年から、9号は羽後交通雄勝線からやって来たハフ11〜13の古典客車と変成を組んで 「明治村とうきゃう」 「明治村なごや」間の0.743kmを往復する動態保存運転を続けている。
蛇足だが、明治村においての、この9号などによる“陸蒸気(おかぎょうき)”の動態保存は老朽化のリハビリのために2010年12月より休車中であったが、ようやく2012年11月8日から同僚の蒸気機関車12号が先に整備を終えて運転を再開したようである。続いて10号機も速やかな復帰を願っている。
 話題を戻すと、この富士身延鉄道が開業から一貫してボールドウイン社製の小型蒸気機関車を愛用して来た背景を探るために、この鉄道の生い立ちと、日本におけるボールドウイン社製蒸気機関車の推移の考察を試みた。
この富士身延鉄道はJR身延線の前身である。明治時代までの甲州(山梨県)と駿河(するが、静岡県)の甲駿間は富士川沿いの富士川舟運による物流が盛んで、明治中期には最盛期を迎えていて、この流れのほぼ中間に位置する日蓮宗総本山、身延山久遠寺を慕って全国から参拝に訪れる人々も舟で急流の富士川を上下していたから大変な賑わいを保っていたようだ。やがて、東海道線が明治22年(1889年)に開通すると、続いて山中を経由する第2東海道線に当たる中央線の建設計画が高まってきて、東海道線の岩淵駅から富士川沿いに北上し、市川大門を経て甲府駅きへ至る岩淵線ルートが構想されていたのだったが、甲武鉄道の八王子から甲府へと延長する八王子ルートが採用されて、新宿〜甲府間が明治36年(1903年)に開通すると、舟運の相対的地位は低下したものの、相変わらず活況を維持していたようだった。国による鉄道建設の計画が消えてしまったので、民営で甲駿間を結ぶ鉄道路線の計画が持ち上が二度も持ち上がっては消えた。先ず、明治28年には富士川鉄道が設立すたものの果たせなかった。相変わらず舟運関係者からの反対はあったが、山梨・静岡の支持者を集めて再び明治30年には富士川電気鉄道を設立し、富士−甲府間にの免許を取得したが、日清戦争後の不景気で資本金不足のまま免許が失効してしまった。その後、明治42年(1909年)になって、東海道線の岩淵と鈴川(今の吉原)両駅の中間に富士駅が設置され、甲駿を結ぶ新らしい起点として脚光を浴びることになった。明治43年3月には衆議院において、「甲府より岩淵に至る鉄道急設に関する建議案」が通過する一方、翌年には中央線の甲府〜名古屋間も開通して両幹線を結ぶ鉄道の建設の機運がいよいよ整って来た。しかし国の財政事情から、その進展ははかばかしくなかった。そこで、1911年(明治44年)に甲府財界の小野金六さんや、根津嘉一郎さん(東武鉄道社長)などを中信とする資本家による富士身延鉄道グループが作られる一方、身延参詣者の輸送を目的とした身延軽便鉄道(甲駿軽便鉄道)の計画が持ち上がり、同時に鉄道敷設の免許新政が行われた。この富士身延鉄道は富士鉄道の東海道線富士駅を起点とする馬車鉄道支線の終点である大宮町(今の富士宮)から分岐し、富士川左岸沿いに富士 〜甲府間を結ぶ計画であるのに対して、身延軽便鉄道は東海道線の興津駅から分岐し富士川右岸を万沢・南部から身延まで至る計画であった。両者の甲駿鉄道計画は最終的に後者が却下されることにより富士身延鉄道の計画が採用され、1912年(大正元年)に富士身延鉄道会社が設立された。そして、建設ルートを富士川西岸、現在の国道に沿ったコースを計画したが、土地をつぶされる地主の猛反対に遭遇し、止むなく富士川東岸の山沿いのルートに変更した。そして、大正6年10月の身延山久遠寺のお会式までに富士−身延間を開通させる目標を立て着工したが、この工事は地盤が悪く、それにトンネルや橋梁の連続と云う難工事であった上に、水害などの障害に悩まされ、第一次世界大戦による物資不足と、物価高騰が資金の不足をもたらると云う困難に遭遇して、工事は遅々としてはかどらなかった。やがて、馬車鉄道を運営していた富士鉄道を買収し、1913年(大正2年)に富士〜大宮町間の馬車鉄道を廃止し、富士〜大宮町間の蒸気鉄道としての富士身延鉄道(10.30km)が開業した。その先への延伸には資金上の困難に加え、トンネルや橋梁の連続という工事上の困難を乗り越えるのに7年間も費やして、1920年(大正9年)にやっと身延駅までの43.5kmが開通した。着工以来実に9年間、身延町を中心とする沿線住民の悲願が実ったのであった。富士身延鉄道は開業したものの経営状況は芳しくなく、末期には運賃が日本一高いと云われたほどにもなっていた。それ故に、機関車はともかくとして、貨車、客車などはすべて国鉄の中古品でまかなっており、蒸気機関車が小さな客車2輛(定員120人)を牽いて走っていたと云う。このような事情から蒸気機関車の手配には価格が安く、納期の短い上、運転コスト面の評判が良かったボールドウイン社製が選ばれたのであろうと推察しているのだが。
そこで、明治時代を通じて日本におけるボールドウイン社製蒸気機関車の経て来た足跡を眺めてみた。
先ず、日本で初めてボールドウィン(Baldwin Locomotive Works)社製の蒸気機関車を採用したのは、後に鉄道資本家として名を馳せる安田善次郎さんであって、北海道の奥地で採掘した硫黄を港へ運ぶための釧路鉄道の開業のために1887年(明治20年ボールドウィン社製の車軸配置 0-6-0(C)型の整備重量 10.07tと云う小型タンク蒸気機関車2輛を輸入した。この機関車にはき「進善」と「長安」と命名されていたと云うのであったが、やがて鉄道は配線となり、北海道官設鉄道に買収されているのだった。
一方、北海道で最初に開通した官営幌内鉄道では、アメリカ人の指導の下で8輛のアメリカのぴっぱーぐ社製とボールドウイン社製のテンダー蒸気機関車が1870年から1878年に掛けて導入され、やがて設立された私鉄の北海道炭礦鉄道へ払い下げられた。この北海道炭坑鉄道は殆どの蒸気機関車はボールドウイン社製が占めていた。それに開拓史から北海道庁になって出来た北海道官設鉄道(北海道庁鉄道部)では、1896年から1899年まで徹底してボールドウイン社製の蒸気機関車を増備し続けている。これはアメリカの西部開拓時代に培ってきた鉄道技術が北海道開拓に根付いたことを示す証(あかし)であり、本州への拡大への足がかりを築いた者と云えよう。
それに対して、先進地域の本州での官設鉄道、それに続くや日本鉄道、山陽鉄道、関西鉄道などは開業時からイギリス方式を、一方の九州鉄道ではドイツの技術で建設運営されていた。その輸入蒸機の時代の初期には、イギリス製は設計寿命40年、工作も丁寧と云われており、それに対してアメリカ製は設計寿命は半分の20年、使われている鋼板は薄く、工作も荒かったとの評判だったと云われていた。しかし、その代わり、かのイギリスの機関車メーカーのように客を選ぶこともなく、大量生産と価格低下、それに納期は早く、保守的な欧州と比べて新技術導入にも積極的であると云う利点を発揮していた。事実、山陽鉄道では1893年(明治26年)からボールドウイン社からヴォークレイン複式蒸気機関車を採用しており、日本鉄道でも海岸線(常磐線の前身)の開業に備えて、低カロリーの常磐炭を効率的に燃焼することの出来る広火室を持つ機関車をボールドウイン車に製造を依頼して1890年代に輸入しており、その中の貨物用の機関車の車軸配置が世界で初めての 2-8-2(1D1)かたであって、この形式を“MIKAJO Type”と名付けたことで知られてもいる。このように大手の私鉄から各地の森林鉄道や地方私鉄、例えば基礎森林鉄道や奈良鉄道、播但鉄道、富士筑豊鉄道、浪速鉄道、紀和鉄道、両毛鉄道などでの開業時の採用や増備に広がって行った。しかし官設鉄道では、1897年(明治30年)に東海道線のスピードアップのための増備候補機の選択に際して、2Bテンダー機にはボールドウイン社とイギリスのネルソン社からそれぞれ約20輛を、11C貨物機をボールドウイン社から20輛を輸入して、東海道線で比較使用を行ったが、結果はネルソンに軍配が上がった。次いで日露戦争中のB6蒸気機関車の増備に際して多数の発注を受けたことが目に付く程度に留まっていたようだ。それに前述したが、輸入機関車の最終段階の大正時代に起こったリバイバル機関車の輸入ブームと云う珍事が起こっているのもボールドウイン社製の価格、納期に、加え性能、維持コストなどの均質の面からも多大な信頼を勝ち得ていた証拠であろう。この中には日本鋼管へカマを譲としている富士身延鉄道へ7輛や小湊鐵道へ2輛、それに青梅鉄道へ2輛などが相当しているのであった。また日本における最後のボールドウィン社製の輸入機は、1925年製の北海道鉄道(2代)に納入された3両であるとも、1929年の王滝森林鉄道の機関車だと云う説もあるようだ。
何れにせよ、富士身延鉄道の2号(日本鋼管鶴見製鉄所9号)が明治村で動体保存されていることは、とりもなおさず、ゴールドウイン社の成熟期(製造番号で云えた3万台以降か)の製品の品質が長寿命であることのの(あかし)である。

・現在日本国内で保存されているボールドウィンの蒸気機関車リスト:
博物館明治村:元・富士身延鉄道2号(日本鋼管鶴見製鉄所9号)
木曽森林鉄道・赤沢自然休養林:上松運輸営林署1号機関車 
林野庁林業機械化センター: 
ウェスタン村: 
小湊鉄道五井機関区:同社の1号・2号機関車 

撮影:1968年(昭和43年)3月8日

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・“日本鋼管鶴見製鉄所を訪ねて”シリーズのリンク
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次へ:229. 昭和ロマンのただよう鶴見線界隈(かいわい)
−JR鶴見線/鶴見高架橋、国道駅、鶴見川アーチ橋梁−


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