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・東北冬の旅(昭和43年)

183.  冬の陸奥湾岸 “浅虫温泉”を行く  ・東北本線/浅虫→西平内


〈0001:bP00522:浅虫-野内 の間〉
冬の浅虫温泉を行く上り

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〈紀行文〉
 初めての冬の東北への旅は、先ず花輪線の竜が森でハチロク三重連を撮ってから、好摩駅から各駅停車に乗り込んで北へ向かった。持参してきた五万分の一の地勢図と映り変わる車窓とを見比べながら撮影ポイントを探していた。盛岡から北では、複線電化を目指した路線の改修工事がたけなわで、日本鉄道が青森まで全通した時に完成させた低い規格のトンネルのある区間は複線トンネル工事が進められている箇所が多く見られた。携えて来た地図を眺めると、海に沿っているのは野辺地から野辺地湾に出会ってから青森の少し手前の浅虫温泉のある辺りであることが判った。そこで、ひとまず浅虫まで行くことにした。その温泉の湧き出している海岸は、本州の最北端で津軽海峡に突き出した東西二つの半島、下北半島と津軽半島に挟まれた陸奥湾(むつわん)の奥まった所に位置していた。そこで、本州最北部に当たる青森県の地形を一瞥(いちべつ)してみよう。先ず、本州島の脊梁をなす奥羽山脈の北端では、八甲田山(標高 1,584m)、八幡岳(標高 1,022m)、そして標高 600〜800mの東岳山地と北に続き、それが陸奥湾に突き出して夏泊半島を形作っている。この山脈はさらに陸奥湾の海底を北上し、その延長上に恐山山地(標高 879m)などを含めた下北山地となり、その先で津軽海峡に没しているのだった。その八甲田山群の東側は太平洋岸までローム層に覆われた六カ所台地が伸びていて、この台地と先の下北山地の間に標高 80〜200mの下北丘陵が長々と続いていて、東を太平洋に面する下北半島となっている。
この陸奥湾に突き出した夏泊半島と下北半島との間の海はは野辺地湾と呼ばれており、その湾の東奥の下北半島の根元に当たる所が野辺地港であり、その宿場街の背後には地域のシンボルである烏帽子岳(えぼしだけ、標高 720m)がそびえている。
一方、日本海岸に沿って秋田県から北上する出羽山脈の延長上には、ブナの原生林で世界遺産になった白神山地(標高 1,232mの白神岳)、津軽富士と呼ばれる岩木山(標高 1,625m)などを擁する津軽山地が津軽半島を形成していて、陸奥湾の西側を抑えている。この西の津軽半島と陸奥湾に突き出した夏泊半島との間の海は青森湾と呼ばれている。青森湾の東寄りに善知鳥(うとう)崎(と呼ばれる険しい岬があって、夏泊半島との間の小さな海岸に沿って浅虫温泉街が立ち並んでいるのである。
 これまでひたすら内陸の山野を越えて北上して来た東北本線も、国道4号線(元・奥州街道)も野辺地に至って初めて海岸沿いに出るのだから、旅人たちの海を見る感慨もひとしおなのであろう。野辺地を出た列車は野辺地湾を右に、八甲田山系を左に見て、狩場沢駅、清水川駅と野辺地湾岸に沿って約を20kmほど西走する行く手を遮るようにに現れるのは東岳山地から陸奥湾に荒々しく突き出した夏泊半島の山並みであった。左手の車窓は、野辺地町のシンボルである烏帽子岳から東岳山地へ、そして夏泊崎へ至る山々に囲まれており、そこを源とする清水川や小湊川の作った扇状地に広がる水田地帯が開けており、右手の海はは白鳥の飛来地で知られる遠浅の浅所海岸に沿って小湊川口にある小湊駅を経て、水田を横断して国道を少しはずれた集落の中にある西平内駅へと進むんで行く。ここは夏泊半島の付け根に当たり、ここからが土屋への山越えとなる。ここからは一直線に伸びる複線の線路は上り勾配を土屋トンネルに吸い込まれて行く。ここを抜ければ、一気に陸奥湾が視界に広がり、今度は青森湾に接するようになり、青森市の奥座敷と云われる浅虫温泉街に進入する。
浅虫駅から先の新線は、浅虫温泉の正面に見える小松山(標高 245m)の真下を全長1kmを越える浅虫トンネルで抜けて野内を過ぎて内陸を青森に向かっている。この浅虫駅から終点青森駅までの約20kmは明治の開業時のルートとは異なっていることは良く知られている。
所で、私が訪れた日の数日前まで本線だった旧線は、浅虫駅を出ると海に沿って善知鳥崎の山を久栗坂トンネルと、浦島トンネルなどで抜けて野内駅へ達していたのだった。その数年後行われた国道4号線の改良に際しては、鉄道旧線の山側を小松山と善知鳥崎との鞍部を久栗坂(山野峠)で超えていた国道を海寄りに走っていた東北本線旧線跡の久栗坂トンネルを改修し、続いて善知鳥トンネル(全長112m)を貫いて野内に至る現在の新国道のルートとしているのであると云う。実は、江戸時代にこの岬を通過していた旧・奥州街道にとって、この場所は最後の難所であったようで、内海の割にには波の荒い青森湾に迫り落ち込んでいる善知鳥崎の山々は見るからに難所らしく、かっては「越後の親知らず・子知らず」に匹敵すると云われていたようであった。ちなみに、先の明治天皇東北巡幸の際には、板の梯を(はしご)を架けて通ったと伝わっているほどの険路であったのだった。
 私が海が間近に見える浅虫駅に下車してみると、この付近は早くも43−10(ヨンサントウ)の複線電化を目前にした昭和42年の暮に、これは私の訪れた4日前であるのだが、青森型の新しい複線の浅虫トンネルの新ルートに切り替えられていたのには驚かされた。そこで黒い冬の海を背景にできる撮影ポイントを探して、土屋の辺り、車窓に陸奥湾が広がる所へやって来た。ここは東北本線でも海に接する数少ない区間なのであった。直ぐに土屋トンネルに入る所で、上り列車はここから夏泊半島を抜けて野辺地湾側へ出ることになる。やがて、土屋トンネルに向かって浅虫駅を発車して来た上り列車を撮った。次いで、雪の舞い始めた国道を歩いて土屋峠まで行って、広々とした水田地帯を西平内駅から一直線に登って来る複線で下り貨物列車を俯瞰(ふかん)して撮って浅虫駅へ引き上げた。
駅にあったパンフレットを見ていると、ここは平安末期に、慈覚大師が、鹿が湯飲みをする場面に出くわし、温泉を発見したとあった。また、「浅虫」は当初、「麻蒸湯(あさむしゆ)」、すなわち蒸し風呂だったと考えられているが、一方のアイヌ語源説では、
「アサム」は、「湾・入江・沼などの奥」という意味で、「ウシ」は「場所」ほどの意味だと解され、合わせて「湾の奥の所」となると云うのであった。 上り列車が来たので野辺地駅前の安宿に泊まる積もりで乗り込んだ。
 野辺地駅の山側には、線路を地吹雪から守る鬱蒼と茂った杉林の鉄道防雪林があった。それは2kmにもわたって続く約700本の杉林で誠に美しく手入れが行き届いていた。これは1893年(明治26)に植林された日本最初の鉄道防雪林で、鉄道記念物に1960年に指定されているとのことだった。そう云えば、千曳駅にも、奥中山駅にも黒々とした杉の防雪林があったことを思いだしたのだったが、そのいずれも東北本線を開業した日本鉄道がドイツ帰りの本田林学博士の提言を採用し植林を行い育てあげたのであると云う。
 それに、野辺地の名を世間に知らしめているのが慶応4年(1868年)に起こった本州最後の戊辰(ぼしん)戦争のひとつである野辺地戦争である。これは反新政府の奥羽越列藩同盟を抜けて新政府軍に寝返った弘前・黒石藩連合軍が、既に新政府側に降伏していた盛岡藩領の西回り航路の拠点である野辺地ち港へ侵攻したのに対して、津軽との国境をを守っていた盛岡・八戸藩連合軍が反撃して一日で撃退した戦争であった。新政府からは両藩の私闘として処理されたが、この戦いが起きた時、年来の『檜山(ひのきやま)騒動』の決着を着けると南部藩側は息巻いていたと云うから物騒な話である。
もともと津軽藩の津軽氏は南部氏の支族であったが豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して大名の地位を公認されて成立したことから、南部氏とは仲の悪さが江戸期にも続いていた。それで、僅かなアクシデントから頻繁にトラブルが発生していた。当時の将軍からヒノキの献上を津軽藩と南部藩に言い渡されたが、南部藩は領民の負担になるため「南部領内にはヒノキはない」と将軍への献上を拒否。津軽藩は倍のヒノキを供出させられた。これに対し津軽藩側は烏帽子岳に侵入し、「南部藩にヒノキがないならこれは全部津軽藩のヒノキだ」と南部領内のヒノキを伐採して挑発、これを見て南部衆が津軽衆を殺害したことから暴動へと発展した。
この事件より、津軽藩側は「南部の人殺し」と南部藩側を罵り、南部藩側は「津軽のうそつき」と罵るようになったというのが野辺地川の云い分だ。
実は、この野辺地西方にある町のシンボルでもある烏帽子岳周辺の帰属問題で両藩が紛糾した際に、弘前藩は既得権益を積み重ねた書類などを整備して仲裁する幕府と交渉したのに対し、盛岡藩はそれができなかったため、この地域は弘前藩のものと裁定された。しかし知性的にも、東西を分ける奥羽山脈の八甲田山系を境界とするならば、この地区は八甲田から夏泊半島の線より東であり、盛岡藩の地区になるため、この処置は野辺地の人々にに大きな不満をもたらした。この背景からの津軽と南部とのトラブルを檜山(ひのきやま)騒動と云って、小説、演劇や栄華のテーマとして多く登場しているようだ。
確かに現地へ行って見ると、元・南部/津軽の国境はそのまま下北郡の野辺地町と南津軽郡の平内町との境界に引きつがれており、戦国時代から帰属をを巡って紛争が絶えなかったことも周辺の地形からうなずけると云うものだった。しかし、これも明治の東北本線、平成の東北新幹線の開通が青森県と云う一体感の醸成に役立っていることは間違いなかろう。

・東北冬の旅(昭和43年)
179. 冬の竜が森ハチロク三重連 花輪線・岩手松尾−竜が森
182. 冬の千曳(ちびき)旧線のSLたち (東北本線・野辺地→千曳)
185. 冬の奥中山三重連 (東北本線・御堂→奥中山)

撮影:昭和43年1月
ロードアップ:2010−05.

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・東北冬の旅(昭和43年)シリーズのリンク
179. 冬の竜が森ハチロク三重連 花輪線・岩手松尾−竜が森
182. 冬の千曳(ちびき)旧線のSLたち (東北本線・野辺地→千曳)
203. 電化直前の千曳旧線 (東北本線・野辺地−千曳−石文(信))
185. 冬の奥中山三重連 (東北本線・御堂→奥中山)