自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・東北冬の旅
182.
冬の千曳旧線のSLたち
・東北本線
/野辺地→千曳
〈0001:bP00442:C6029号機の牽く列車〉
〈撮影メモ〉
〈0002:〉
〈撮影メモ〉
もう新しい複線のレールが敷かれた新線の築堤から眺めた旧線の高い築堤に架けられた清水目川橋梁の辺りを登って来たD51重連牽引の貨物列車の奮闘ぶりがながめられた。幸いにも冬の季節風が一瞬弱まったのであろうか煙の造形は素晴らしかった。やがて絶気の合図の汽笛が流れて来た。
〈0003:bP00512:積雪の八甲田山遠望〉
〈撮影メモ:昭和43年1月13日撮影〉
千曳駅の野辺地型の外れから少し歩いた所である。2195レ、D51三重連貨物列車がやってきた。右手中ほどの奥から左手前に、少し高い所からとっているらしく、足元の先が谷になっていて高い築堤となっていた。左から右へ、前々補機と本務機が黒い煙を少し出していた。
その背景には、遠くに積雪の円錐形の高い山が一つ際立ってみえており、その手前には低い前山が連なっているのが見えた。冬の季節に八甲田山がこんなにスッキリ見えるのは珍しい。
サミット直前で煙が少ないのが心残りであった。
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〈紀行文〉
ここにお目に掛けるサイトは「東北 冬の旅」と題した東北本線盛岡〜青森間電化完成を控えた最後の冬となる昭和43年1月中旬に沿線を旅した記録の中の「千曳旧線の蒸気機関車たち」です。この時は買ったばかりの6X7のコニカプレスを携えて、厳重な冬支度に、雪国で売られているゴム長靴で足固めをして夜行に乗り込んだ。盛岡駅、花輪線、奥中山と日程をこなして3日目に千曳(ちびき)駅に降り立った。
この東北本線では昭和43年10月の「4310(よんさんとう)」を目指して進められて来ていた盛岡〜青森間の複線電化に際して、列車のスピードアップを目的とした線路の急勾配と旧カーブの解消を実現するためのルート変更を伴う大規模な新線建設工事が青森県下の三沢〜野辺地間の乙供(おっとも)−千曳(ちびき)−野辺地(のへじ)の13qの間で行われて意た最中であった。
この区間の地形を説明すると、下北半島の西側の付け根に当たる陸奥湾に面した野辺地と太平洋岸に広がる小川原湖畔に隣接した三沢の間には北から下北丘陵が、本州側から八甲田山から続く六カ所台地が迫ってきており、その間には大平台地が横たわっていた。その標高は約200m前後程度であったが、野辺地側は低地が台地の根本まで入り込んでいて、急な斜面で台地へ繋がっていた。
明治24年(1910に)に日本鉄道が東北線を建設するに際しては、大平台地の西を迂回して鞍部へ鉄路を通すために、乙供の先で最小半径300mを含む半径500mの曲線(通称 旗屋のカーブを設けて、サミットの千曳駅へ向かっていた。そして野辺地までの間に広がる低地帯に5qにおよぶ大築堤を築いて、最急勾配を 16.7‰に抑えて開通させていたのだった。
それ故に、野辺地駅を出て野辺地川橋梁を渡ってからは北西からの季節風に吹きさらされながら一直線の役5km余りの大築堤をひたすら登っているから、格好の上り列車の撮影ポイントとあった。しかも、野辺地から大築堤を駆け登って来るSL牽引の列車を電化工事に妨げられることなく最後の時まで撮影が可能だったことから『千曳旧線』と呼ばれて鉄道フアンの合言葉となっていた。
この長くて高い大築堤の西側の低い谷間を国道4号線(陸羽街道)が並行していた。また、東側には離れて新線が同様に築堤を築いて建設されつつあった。
後ろの一枚は、新線の土手から眺めた旧線の高い築堤に架けられた清水目川橋梁の辺りを登って行くD51重連貨物の奮闘ぶりだが、幸いにも冬の季節風が一瞬弱まったのであろうか煙の造形は素晴らしかった。やがて絶気の合図の汽笛が流れてきたから、サミットにある高い杉林の防雪林に守られた広い構内を持つ千曳駅構内へ到達したのであろうか。この駅の東側にあるホームは驚く程長かったのに対して、西側の外れに南部縦貫鉄道の短いホームガあった。そこに停まったレールバスはバックミラーを備え、ドアは2枚折戸で、車輪は前後2軸だけで、バスのゴムタイヤを鉄輪に付け替えたような外観で、ただ車体から突きだした連結器がバスでないことを示していた。そんなレールバスがポツンと憩っている風景はのどかな一瞬を演出していたが、間もなく静寂を破ってSLのブラスト音が辺りを振るわせるように聞こえてくるのだった。
その後蒸気機関車が東北本線から消えた後も、クルマを駆って国道4号線を北上して北海道へ撮影に遠征する時には、午後の3時頃には十和田を過ぎて、千曳駅前の踏切に通じている石坂交差点が近づいて来た。この手前の左手の道路脇の高台には、大きな“津軽海峡フエリー案内書”と大書した建物が遠くから眺められて、そろそろ北海道への船便の予約を心配し出したドライバーたちを暖かく迎入れてくれた。私も野辺地からにするか、青森からか、または大間から苫小牧行きにするかを決めなければならなかったことを思いだしている。
撮影:昭和43年1月。