自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・東北本線/千曳旧線を訪ねて
203.  晩秋の千曳大築堤  ・野辺地−千曳

〈0001:bO91025、上り重連の連写 T 〉


〈撮影メモ〉

千曳の大築堤も半ばを過ぎた地点を行く上り重連貨物列車である。
工事中の新線の築堤の辺りから狙って撮った。

〈0002:bX1026、上り重連の連写 U 〉


〈撮影メモ〉

背後から冬の午後の陽光が照っていて、シルエットとなりそうになってきた。
手前の築堤に機関車の影が映っている。黒い煙と白い蒸気どれーん。

〈0003:bO31031、上り重連の連写 V 〉


〈撮影メモ
手前が雪の畑。長く高い築堤。
黒い煙が上に上がっていて、その影が雪の畑に映っている。丁度太陽が黒い煙の中に隠れて強い影が生まれた。

〈下は余白です。〉



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〈紀行文〉
  ここでは、この千曳駅付近に伝わる古い伝説、それを売らず蹴る発見などを紹介してみたい。
さて、アイヌ語起源の地名が多い東北地方の一角に、この奥州街道筋には“千曳(ちびき)”を初めとして、「石文(いしぶみ)や「壷(つぼ)などの日本的な地名が集中しているのに気が付かれたであろうか。特に「千曳」にはなにかお祭りのような行事を思わせるムードが感じられた。そこで、これらの由来にまつわる歴史のロマンについて触れてみたい。
 この「千曳」を辞書では、『古事記に出て来る「千引石(ちびきのいわ)」のことで、動かすのに千人で引かなければならないような重い石のこと。』とあった。
やはり、これは千曳駅の駅名の基である「千曳集落」に祭られている千曳神社の歴史と深い関係が想像されたのであった。そこで先ず、千曳神社についての不思議な伝承から始めよう。
 『古代のことだが、この地域は大和朝廷の支配の最北端に位置していて、原住民である蝦夷(えぞ)の人々と接する境界にあった。ここの村人たちは北から襲ってくる鬼たちを放逐してから、坪村に石の札を立てて、鬼たちが近づける限界の境を示すことにしていた。その後、8世紀末にかけて、征夷大将軍として蝦夷(東北地方)を征伐に向かった坂上田村麻呂将軍がやって来て、鬼たちを残らず征伐してしまった。そこで、この境の石は不要になったとして、陸奥国の真ん中を意味する「日本中央」の四文字を彫んだ上で、土中に埋めることを命じた。そして多くの人々(これを千人とたとえた)が動員されて別の場所に曳き運ばれ、深さ7尺の地中に埋められた。そしてその上に神社を建てて、この地が大和朝廷の支配下にある事を神の名の元に示したという。村人たちは千曳大明神として祭続けていると云う。』
その後に、この話が「坪の碑(壷の碑)」として都に伝わり、平安時代になると、書物に書かれたことから歌人によって「遠くにあること」や「どこにあるか判からない」の意味の歌枕として詠まれるようになった。当時の都の殿上人にとっては、「みちのく」は想像上の憧れのユートピアとでも映っていたのであろうか。
 時代が下がって、明治9年の東北巡幸で当地を通った明治天皇が「田村麻呂の碑はどうなったか」と尋ねられたことから、宮内庁がその裏付けを得るため青森県に依頼して神社の下を発掘調査させたのだったが、碑を発見できなかった。
ところが、昭和24年(1949年)に、近くに住む老人が石文集落付近の赤川の谷で家の馬頭観音として奉る石を物色していた時に、支流の湿地帯より偶然に高さ1.5m、巾70cmほどの自然石の巨岩を発見した。そこで、人を集めて掘り起こして見ると土に埋まっていた岩面に彫られた「日本中央」の文字が現れたのであった。この石が伝承の「壷の碑」かどうかは今もって専門家が究明中であって、真実は霧の中のようだが、「千曳」の地名と共にロマンを感じさせるには充分であった。
さて、日本鉄道の東北線が盛岡-青森間を開通して上野〜青森間を全通させたのは明治24年(1891年)であって、今の青森県にはいってからは三ノ戸駅(現・三戸駅)、尻内駅(現・八戸駅)、沼崎駅(現・上北町駅)、野辺地駅などが同時に開業している。その3年後に沼崎駅から野辺地方へ6.9kmの地点に乙供駅が開場した。さらに時が過ぎて日本鉄道が国有化された後の明治43年(1910年)になって乙供駅から野辺地型へ6.6kmの地点の峠の頂上付近に千曳駅が設けられた。この場所は野辺地駅を出て野辺地川鉄橋を渡って5qに及ぶ16.7‰の急勾配を保った大築堤を登り詰めた台地の突端にあって、冬の北西からの風雪を防ぐ杉の防雪林に囲まれていた。駅の近くには奥州街道沿いの千曳の集落があったことにちなんでの命名であった。そして戦後の輸送力増強に対応して昭和32年(1957年)に
乙供-千曳間に石文(いしぶみ)信号場が設けられている。この千曳駅構内は長い貨物列車同志が行き違いできる側線が設けられており、昭和37年(1962年)10月になると南部縦貫鉄道が七戸町から開通して駅の西北寄りに短いホームを持った起点がもうけられた。ここからはバスのタイヤ車輪を鉄輪に取り換えたようなスタイルのレールバスが発着していた。
私が訪ねたのも、このような情景が見られる昭和42年のころであった。当時は既に東北本線の複線電化工事が進められていた時期ではあったが、この付近は新ルートによる公害と急カーブを緩和したルートでの建設がすすめられていらから、この千曳駅付近は全く工事の雰囲気は見られず往年の情景が保たれていて楽しかった。
やがて、昭和43年秋に複線電化が完成して千曳駅が東の山の中に移転してしまうと、旧線は廃止となってしまった。接続を絶たれた南部縦貫鉄道では廃止された線路を利用させてもらって野辺地駅まで路線を延長して運営を続けて居た。

撮影:昭和42年11月3〜5にち。