自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役
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・「東部のナローゲージ王国、イースト・ブロードトップ炭坑鉄道」・ペンシルバニア州
083.
EBTナローゲージ♯15ポートレート
・
ペンシルバニア州
〈0001:〉
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〈紀行文〉
先の42.でご覧に入れたEBT(イースト・ブロードとっぷ(鉄道が何故に3フィートのナローゲージを採用したのかについての話を進めよう。アメリカでナローゲージと云えぱ、西部コロラド高原のD&RGW(デンバー・アンド・リオグランデ・ウエスタン(か、ネバダ砂漠のSPNG(サザン・パシフィク鉄道のナローゲージ線)が代表として想い出されるだろう。このぃずれもが名だたる山岳地帯の人口の稀薄な地帯で、金や銀鉱の輸送手段として運転されていた。一方、今はほとんど消えてしまったが、東部アパラチヤン山脈の周辺では、20余のナローゲージ鉄道がが運転されていた時代もあった。鉄道黎明期の1830年代に雨後のタケノコの如くに各地に鉄道の建設が始まった頃、或る鉄道は全て英国式で軌間も4フィート8インチで、機関車も輸入していたり、或る所は馬車のレールをそのまま軌間に、又或る所は石炭鉱山の重力軌道をそのまま利用すると云う具合の不統一極まりないものであった。その後、大陸横断鉄道が4フィート8インチで建設されることになり、1886年のべルリン協定で4フィート8インチが標準軌となったことから、アメリカも1887年に標凖軌への統一への方向が決まったのである。
元来、ナローゲージはイギリスで生れた。それは鉄道の生れた頃のイギリスでは、馬車にょる交通が主体で、これに対抗して建設される鉄道には多くの法律的な制約が付けられ、その建設、運転は大変に高価なものであった。そのため人口の少い山岳地方や未開発の地域に、資金の掛かる本格的鉄道を敷くことは不可能に近かった。そこで、これに対して、スピードとか、運転頻度などに制約を付けた軽便鉄道が認められる様になって、山の多いウェールズ地方では軌間2フィートの軽便が大成功を納めたのである。この鉄道の技術は欧州各地に広がったのを始めとして、アフリカ、アジアの植民地にも多く利用されていた。アメリカにはこの軌間2フィート軽便が、ニューイングランど地方に200マイルも運転され,森林資源の輸送をしていたSANDAsky VALLEY鉄道が有名であった。軌間 3 フィートのナローゲージもまた、南北戦争の頃は一般的に運転されていた。標凖軌が決まってからも1942年にはなお1,400マイル余の 3フィートナローゲージが活躍した。
EBT開通の頃,当地の新聞にナローゲージを啓蒙する記事が紹介されていた。西部の地で大成功を納めているナローゲージ鉄道は、当地で必ずしもコモンなものでなぃから、我が読者の中には我が町を今度走るEBTについても好奇心の対象となるであろう。このシステムは最初に英国のウェールズ地方での2フィート軌間の鉄道の実用化であった。その後、ノールウェイに、そして世界に広がった。我国ではナローゲージはコロラド、アーカンソー,テキサス…の各州で運転され、また計画中の所も多い。そこでナローゲージの利用が、如何に、物を節約することができるかを説明するのは容易である。このシステムはトンネル、勾配、築堤などの大変な土木工事を節約し、土地の破壊も少くて済むのである。レールの重さも半分になって出費は半分となり、小さなカーブが使用されることで工事も技術的に容易に、より安価に行うことができる。それは標準軌の50%のコストで建設され、従って運転の費用も、貨物と旅客の運賃も50%安価になるのである。それで、小さな車輛の強さは1トンの貨物を重量1トンの貨車で積めるのに対し、標準軌では2.68トンの貨車の重量を必要とする。客車も同様で、速度もほぽ同じレベルに達することができる。安全の心配もなぃ。最後に、建設と運転の安価なことは豊かでなぃ、それ程お客を見込めなぃ地域に鉄道の恩恵をもたらすことになる。EBTの客車はデラウエア州の
Jackson & SharpCar 会社で建造され、上からの高さ24インチと重心を下げているので、安全性は充分にあり……。
さて本題の3フィート軌間の採用の事である。創立者の1人である事業家ハパデイーは石炭や鉄の事業を営む一方、南部の山地を走る3フィートゲージのイースト・テネシー・アンド・ウエスタン・ノースカロライナ(ET&WNC)鉄道を経営して、南北戦争の荒廃した小鉄道を買収して拡大路線を進んでいた。それ故、EBTの3フィート選択は単に経済性のみでなく、アレゲニー山地や南ぺンシルバニアに散在する3フィート鉄道を接続して、大鉄道にしようとする夢もあった筈である。
さて、8線の扇形庫の主であるミカド(2−8−2の車輪配置を持つミカドは全てフィラデルフィアのボールドウイン機関車工場で建造されたSLである。車籍簿に記載されている6輛のミカドは殆ど同型の仕様であり、1912〜1920年にわたって順次落成しており、何れも直径48インチの動輪を履いており、内側フレーム式であるから、コロラドのミカドのような外枠式のような荒々しさが無くおとなしい外観であった。
そして、古い3輛は飽和式SLであり、当日稼働したaD15もその中の一機である。一部の機関車は部品の供給源として使われているように見えた。
また、ご存じのように、2−8−2の車軸配置のSLは1893年に日本からの注文でアメリカで最初に作られた形式であったので“ミカド”と称するようになったと云われているのである。
仕業に向かう前に、砂処理塔のある線路に一時停止した姿をポートレート風に撮った。
それと、ここのナロー・ミカドはコロラド高原のナロー・ミカドの外台枠式ではないので動輪がすっきり移せるのは胃魅力である。外枠四季だと動輪はフレームの内側となり、外側には異様なバランスウエイトが踊るように回転するのでいささか違和感があるのだが、その点は安心して見られた。
撮影:1979
発表:「レイル」誌・1983年9号
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・東部のナローゲージ王国、イースト・ブロードトップ炭坑鉄道(シリーズのリンフ
042. 煉瓦造りの扇形機関庫からの鉄道工場を望む・ペンシルバニあ州
043. ナローゲージ名物“Stub Switch”のある風景・ペンシルバニア州
044. ナローミカドの牽くチューリスト列車・ペンシルバニア州
082. 盛夏のEBTナローゲージ・トレィン・ペンシルバニア州